ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

ジャズソング

To My Favorites

ぐらもくらぶでの都市ジャズ三部作も大東京ジャズ Jazz in The Tokyo Great Tokyo Jazz song collection 1925~1940">で一段落ついて、また装いも新たな企画路線を模索している(実はすでに次作の企画もあるという噂)今日この頃ですが、運良く死に損なったこと…

天野喜久代の「マイヱンゼル」

「マイヱンゼル」”Angela mia”(伊庭孝訳詩、Erno Rapee作曲) 天野喜久代、レッド、エンド、ブリュー・クラブ コロムビア 1929年3月5日録音、同年5月新譜 昭和初期、天野がラジオやステージで盛んに歌っていたナンバーである。やはり得意にしてラジオ・実演…

A.カアイの精粋「月は冴ゆれど」

井上起久子のディスクを纏めるつもりでいながら、なかなか果たせない。今回は天野喜久代(1897-1945?)である。というのも、実は井上起久子より天野喜久代の方が好きだからだ。昭和初期、ステージに、ラジオにレコードに活躍した天野はジャズソングの女王と喧…

矢追婦美子の「それが世の中」

もはや忘れ去られた歌手、矢追婦美子を取り上げてみたい。 昭和初期のポリドールは、声楽志向の強い歌手が揃っていた。淡谷のり子や青木晴子は東洋音楽学校出身であり、奥田良三はイタリア留学経験者、そうして矢追婦美子は東京音楽学校卒、ミラノ留学の経験…

糸井光彌

折角なので糸井光彌について暫定的に纏めておきたい。 本名・紺井輝也。糸井光彌という芸名は紺と輝の偏を採って、也を彌に変えたもの。 コメントにも記したとおり1899年4月9日生まれなので、二村定一より一歳年上ということになる。1922年(大正11)には石井…

マドレーヌ藤田のシャンソン

今月のNHKラジオ深夜便「なつかしのSP盤コーナー」(9日午前2時5分〜)は、マドレーヌ藤田が歌うシャンソンです。 「恋はつらいもの」"Si l'on ne s'etait pas connu" 相馬仁 訳詩、Ph.Pares, George van Palys マドレーヌ藤田, フロリダ・アルゼンチンタン…

ジャズオペラ「赤い唇」

今晩から関西発ラジオ深夜便の「SP盤コーナー」復活です。 以前とおなじく、午前2時5分から10分くらいの番組です。 復活第一回目は天野喜久代と柳田貞一の「赤い唇」。 「赤い唇」は1927年にアメリカで流行した歌で、原題を"Red Lips Kiss my Blue Aways" と…

青木晴子「君が居なけりゃ」

昭和初期にジャズソングを歌っていた青木晴子について、述べてみたい。 ジャズソングを歌っていたといっても、当時のヴォーカルの様式は、今日のいわゆるジャズヴォーカルとはかけ離れているので、ジャズシンガーというと語弊があるかもしれない。これは二村…

スエズ

大正期から昭和初期に流行した「スエズ」という曲があり、日本でもジャズバンドが録音しているので二種類並べてみる。 "Suez"はポール・ホワイトマンのオーケストラのバンドマン、ファーデ・グロフェ Ferde Grofe の作曲したフォックストロットである。グロ…

紐育行進曲

昭和初期に流行したジャズソングで「紐育行進曲」という曲があった。スマートな歌で、フラッパー風情の軽薄で浮かれた、華やかな味がある。たしかレヴューにもなった筈だ。しかし、それよりも二村定一が歌った「君よさらば」(時雨音羽 作詩)と同曲と言った…

これぞマドロスの恋

1931年(昭和6年)のドイツ、ウーファ映画「狂乱のモンテ・カルロ」"Bomben auf Monte Carlo"主題歌「これぞマドロスの恋」「モンテカルロの一夜」は、我が国では奥田良三のポリドール盤と山田道夫のパーロホン盤でレコード化された。特に奥田良三がベル…

マドレーヌ藤田

マドレーヌ藤田(1910〜1936)は、エコール・ド・パリの時代にモンマルトルで輝いた画家、藤田嗣治の四番目の妻である。 そもそも藤田はパリ留学をする以前に最初の結婚をしていたのだが、パリで二番目の夫人バレヱと一緒になり、あっという間に破局すると、次…

唄へ唄へ

サンフランシスコ出身の日系二世歌手宮川はるみ(1914〜??)の最高傑作のひとつが、1937年に日本コロムビアに録音されたLouis Primaの"Sing Sing Sing"(唄へ唄へ)である。ステージで好評だったこのナンバーは宮川自身の希望でコロムビア文芸部の反対を押し切…

潜航艇の唄

黒田進というよりは楠木繁夫としてよく知られている歌手の、初期のレコードである。 黒田は1928年に東京音楽学校を退学。以降、c.1933年に東京に活動の軸足を移すまでは関西で独唱コンサート、声楽教授、レコード録音を行なっていた。(c.1929年から名古屋の…