ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

青木晴子「君が居なけりゃ」

昭和初期にジャズソングを歌っていた青木晴子について、述べてみたい。

ジャズソングを歌っていたといっても、当時のヴォーカルの様式は、今日のいわゆるジャズヴォーカルとはかけ離れているので、ジャズシンガーというと語弊があるかもしれない。これは二村定一や天野喜久代などにも当てはまる。

しかし、この時代のジャズソング歌いの発声や表現様式を踏まえれば、たいへん味のある歌唱なのは疑いがなく、小生はそうした昭和初期、1920年代から30年代初め特有の、味のある歌唱が大好きなのである。

青木晴子は、際立って個性的な存在である。

長くなるが、略歴を述べておきたい。

・略歴は当ブログの親サイト及びmixiの当該コミュニティより援用した。

       

本名は青木春子。(1901-68)

青森県出身で東洋音楽学校卒だから、淡谷のり子の先輩ということになる。

大正12年、本名でニットーレコードに吹き込む一方、浅草オペラでは「園春枝」という名で活動を始める。東洋音楽学校卒業後も、長くアドルフォ・ザルコリーに個人教授を受けた。

昭和4年7月、浅草水族館の第一次カジノ・フォリーに加わる。それとほぼ時を同じくしてビクター、ニッポノホン、コロムビアにレコードを吹き込むが、同年中に日本ポリドールの招きで同社の専属となった。 昭和5年1月(前年12月発売)の邦楽第1回新譜から登場し、以来、昭和7年いっぱいまで2年間、ポリドールの主力歌手として活躍した。

青木の声はやや線が細いが官能的でキャラクターが際立っており、声楽技法のすぐれた技量も持っている。

かといって声は重すぎず、リズム感もよいので、ポリドールには中村慶子、矢追婦美子、馬場晴子など音楽学校出身の歌手が豊富であったが、ことさらに青木晴子がジャズソングに重用された。

青木と較べると中村慶子はあまりにもエキセントリックすぎ、30年代風フラッパーが魅力の淡谷のり子も、存在感が強すぎて曲を食ってしまう。青木晴子はその点、バランスが取れていながら充分個性的だった。

浅草オペラ出身の歌手の多くがそうであるように昭和7、8年には彼女のネームヴァリューも吸引力を失い、昭和9年度版の邦楽総目録ではアーティスト紹介の項目からも青木の名が消えた。

しかし徳永政太郎(※1)と結婚し、レコード歌手を引退後は後進の育成につとめたところをみると、不遇な晩年が多かった浅草オペラ歌手のなかでは幸運だったといえるかもしれない。

門下生の中井俊晴氏(bar.)は、現役のオペラシンガーとして活躍している。

さて。

彼女のベストヴォーカルと小生の考えているのが、ポリドールに於ける初リリース盤、「君が居なけりゃ」である。

「君が居なけりゃ」"I'll be Lonely"(Mort Dixon&Harry Woods)

 名作生産コンビ、ディクソンとウッズが1927年に発表した、バラード調のポピュラーソングである。

Mort Dixon(1892-1956 作詞家)には"Bye Bye Brackbird"という名作がある。

また、Harry Woods(1896-1970 作詞&作曲家)は、"Side by Side""When the Moon comes over the Mountain"などという作品でおなじみである。

二人が組んだチューンは1920年代から30年代まで17曲あるが、その中でも"I'm looking over a Four Leaf Clover"(1927)は、1920年代後半を飾る大ヒット曲であった。

この唄、"I'll be Lonely"は、ほかにレコード化されたものが見つからない。

少なくともアメリカ本国で大ヒットしたチューンではない。

多分レコード化はされていると思うのだが、「アラビアの唄」と同様、日本人好みの一曲といえるだろう。 また、そうした日本人好みの佳曲の選曲、訳詩をしていた堀内敬三や伊庭孝たち先人の眼力に、つくづく敬服させられる。

伊庭孝の訳詩が素晴らしい。(伊庭は1937年に死去しているので、著作権は消滅している)

月の光がかがやく夜も 君が居なけりゃさびしい

鳥が来ようが花が咲こうが 君が居なけりゃさびしい

月の光をあおぎつつ 私はさまよう

五月の空に鳥がないても 君が居なけりゃさびしい

この訳詩は、白眉出版から美しい装丁で出版されていた。

青木晴子の歌唱は、例によって感情を排した技巧過多なものであるが、巻き舌が入ったりなどして、彼女としては乗り乗りである。

非常に明瞭な、鋭角的といってもよい日本語で歌われているが、息が長くメリハリがきいているので、ミディアムテンポによく乗っていて違和感がない。ばりばりの日本語でありながら、それがメリケンぽいバンド演奏にしっくりとなれているところが値打ちである。

こうした歌唱は、1910年代から20年代アメリカのバンドシンガーのスタイルで、同時代の日本の歌手たちは、意識的にかどうかは判らないが本場ものを模倣し、それを自分たちのものにしている。

昭和初期のジャズソングの多くは、ひとくさり歌唱が入ったあとのバンド演奏が、ひとつの見せどころであった。

この「君が居なけりゃ」もご多分に漏れず、大半をバンド演奏が占めている。

日本ポリドール・サロンオーケストラは、サックス3、トランペット、トロンボーンテューバ、ドラムス、という編成である。

終始、トランペットがリードし、柔らかくムーディーなサックスセクションとリズムセクションを従えている。 サックスセクションは、昭和初期としては珍しい3サックス編成(※2)で、その豪奢で分厚いサウンドが「ジャズバンド」ではなく「サロンオーケストラ」という名の由来となっているに違いない。

このトランペットがとにかく巧い。

冒頭、パンチの効いた登場で一遍にグッと心を掴まれる。歌唱の間は休んでいるが、そのあと、青木を引き継ぐように歌うペットは、せつせつとして、第二の歌唱といって申し分ない。これだけの技量とセンスを持つプレイヤーは、1929年当時なら、井田バンドの橘川正か南里文雄のほかに考えられない。

1929年の井田一郎バンドは、

橘川正 tr., 河野絢一 tromborne, 泉君男 drums, 関真次 pf., 高見友祥 sax. 

という顔ぶれであった。これにサックスを増強してサロンオーケストラとして録音したのでは?と小生は推測する。いつもよりソフトだが、たしかに井田バンドの匂いが刻印されているのだ。

冒頭から結尾までトランペットがフューチャーされているが、全体としてサックス合奏のソフトな雰囲気が支配している。歌唱の箇所はリズム陣が主となって支え、サックス陣はやや控えめになる。

歌唱のあとのバンド演奏も、絶妙に歌うトランペットにリードされているが、トロンボーン、サックス陣の見せ所もしっかりと用意されている。こうした、プレイヤーの見せ場を忘れないアレンジは井田の常套法であった。(ラベルにはアレンジャーの名が記されていないが、井田一郎の編曲と推測する)

この練達とセンス、統率されたアンサンブルは、他社にもない特徴であり、非常に褒めることになるが、同時代のアメリカのスウィートバンドとほとんど遜色ない演奏である。

加えて青木晴子の歌唱も、バンド演奏に劣らず個性的であり、ポリドールへの第一発目のセッションでありながら、小生、これが彼女のベスト盤だと思う次第であります。

※1 徳永政太郎は浅草オペラの立役者で、「帰れソレントへ」などの訳詩者として今日でも名が残っている。昭和4年7月、第一次カジノ・フォーリーを立ち上げた。

※2 日本では昭和初期は1〜2サックスが限界で、3サックスというのはよほど力が入った編成であった。コロムビアジャズバンドがレコード吹込み用に組んでいた程度ではないか?  昭和10年代になると3サックスは標準となり、戦時下までにこれがアメリカ並みの4サックスにまで成長するのである。