ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

A.カアイの精粋「月は冴ゆれど」

 井上起久子のディスクを纏めるつもりでいながら、なかなか果たせない。今回は天野喜久代(1897-1945?)である。というのも、実は井上起久子より天野喜久代の方が好きだからだ。昭和初期、ステージに、ラジオにレコードに活躍した天野はジャズソングの女王と喧伝され、事実、すぐれたディスクを輩出した。西の井上起久子に対応して東の天野喜久代、という言い方をされた人である。  さまざまなバンドと録音を遺しているが、今回は天野喜久代とアーネスト・カアイ・ジャズバンドの一連の録音から、ひとつ究めつけの名盤を紹介してみたい。 「月は冴ゆれど」"Lonesome in the Moonlight" (伊庭孝訳詩、A.Baer & Russell作曲)  天野喜久代、ニッポノホン・ジャズバンド 1929年2月27日録音、同年6月新譜 ニッポノホン  「月は冴ゆれど」"Lonesome in the Moonlight"は1928年度アメリカのヒット曲である。ポール・ホワイトマン楽団が28年6月17日に録音しているが、その八ヶ月後のレコーディングということになる。当時としても実にすばやい企画である。  ラベルには「ニッポノホン・ジャズバンド」と刷ってあるが、その実態はアーネスト・カアイの「カアイ・ジャズバンド」である。  カアイはステージなどでは六名の固定メンバー(一次から三次までの変遷がある)で活動したが、レコーディング時には通常編成のほか、しばしばサックスと低音部を増強した9〜10名編成で臨んだ。ビクターやコロムビアのごく初期(1928、29年)のジャズディスクは、「レッド・ブリュー・クラブ・オーケストラ」や井田一郎の「チェリーランド・ジャズバンド」のような数名編成の軽快なコンボと、ポール・ホワイトマン楽団スタイルのシンフォニックな編成を組んだ「カアイ・バンド」や「コスモポリタンノベルティー・オーケストラ」という、規模やカラーを異にするバンド連が稼動して、豊かなひろがりを見せていたのである。  アレンジ面でも、昭和初期のバンドリーダーであるカアイや井田一郎、作間毅らはホワイトマン楽団に限らず、ジョージ・オルセン楽団やナット・シルクレット楽団、ルディ・ヴァレーとコネティカットヤンキースなどさまざまなバンドのアレンジカラーを参考にして、独自色の見られる多彩なサウンドを生み出していた。  カアイ・バンドのディスクの多くはアーネスト・カアイが編曲していた。この"Lonesome in the Moonlight"もホワイトマン・オーケストラのディスクとは全く異なるタイトなアレンジが施されている。やや落ち着きのないホワイトマン盤と比較すると統一感があり、グルーヴを感じさせる出来栄えとなっている。オリジナルを凌ぐといっても決して過言ではないホットディスクで、このような本格的なフィーリングが1929年に日本に存在したことは一驚にも十驚にも値すると思う。  このディスクでのカアイ・バンドの編成は3サックス、トランペット、テューババンジョー、ドラムス、ピアノ、ヴァイオリン。サックスにはのちにバンドを離れて独立するジョー・カバーロとカアイが入っている。アルト1、テナー2で、後半、バリトンの持ち替えがある。トランペットは奏音から推して通称ベンちゃんこと斎藤広義、ほかに菊池滋彌のピアノ、坂井透のバンジョーという顔ぶれだがドラムスは未詳。田中和男は記録上は29年夏からの加入ということだが、もうちょっと後のビクター録音にも同じドラムスが見受けられるので、あるいは既にカアイ・バンドに加わっていたのかもしれない。  いま聴いても洒落ている、かっこいい前奏がアルト、ブラス、ドラムスの合奏ではいる。8小節の前奏のあと、サックスセクションによる堂々としたヴァースvers.(前唄)がある。  vers.のあと、コーラス。淡彩の表情をみせる天野喜久代の歌唱は好ましい。押し付けがましくなく、しかも個性的な歌唱である。バンドシンガーとして、天野喜久代はすっかりカアイ・バンドと融合している。  コーラスの後はインストゥルメンタルの出番。ジャズレコードの面目躍如である。アルト→ピアノ→テナー→ピアノ→トランペットとチェーサーが続きトランペットがひとくさりフェイクを吹くが、合い間にバリトンサックスがちょっと入って、高らかなトランペットとともに、合奏によるフィナーレになだれ込む。各楽器のソロは堂々としており、菊池のピアノもドライヴしている。このインストゥルメンタルでは昭和初期のプ レイヤーたちの音楽的水準が予想外に高いことに驚くだろう。締めくくりにトランペットのひときわ高い叫びでFin.  カアイ・バンドの中でも出色のホットディスク。傑作である。