ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

マドレーヌ藤田

 マドレーヌ藤田(1910〜1936)は、エコール・ド・パリの時代にモンマルトルで輝いた画家、藤田嗣治の四番目の妻である。

 そもそも藤田はパリ留学をする以前に最初の結婚をしていたのだが、パリで二番目の夫人バレヱと一緒になり、あっという間に破局すると、次はモデルとして作品に多く描いていたユキ(Youki Desnos 本名はLucie Badoud)と三度目の結婚をした。それもまた彼女が詩人ロベール・デスノスと恋愛に陥ったことで破綻。(1931年に結婚。彼女は今日ではユキ・デスノスとして知られている。)まだユキと一緒に住んでいた1930年ごろに知り合ったのが、赤毛のダンサー、マドレーヌだった。

 藤田の恋愛について述べれば、一時はモデルで藤田の手によって有名になったモンパルナスのキキとも恋仲だったという。

 とにかく藤田のモンパルナスでの暴れっぷりは凄まじいものであったらしく、その時々の女の体に刺青を入れるのは当たり前、自分にも刺青やピアスを施し、例のお河童頭に奇態な服装をして練り歩いていた。あるパーティーでは全裸の全身に刺青を入れ、背中に背負った柳籠に裸のバレヱを縛って入れるといういでたちで現われて「女売ります」と書いた紙片を配って歩いたというから、これがエコール・ド・パリでなかったら忽ち御用になるような振る舞いである。ところが面白いことに、実は藤田というのはたいへん繊細な人間で、妻の気儘と浮気からマドレーヌに走ったという説が有力なようである。

 1931年、藤田は絵画作品のほとんどを三番目の妻に譲渡して、マドレーヌとともに南米旅行に出奔した。「煙草を買いに言ってくる」と言い置いて家を出たそうである。

 マドレーヌとともに燃えあがった恋愛真っ盛りのまま南米でも乱痴気騒ぎを繰り返した末の1933年、藤田は新妻を連れて帰国した。これ以前の1929年にもユキと一緒に帰国しているがその折は歓迎よりは反感を多く受け、決して心地のよい帰国ではなかった。それを再び敢えてしたのは金策のためであったという。幸い33年の帰国時はマスコミも好意的に扱い、銀座のカフェー「ブラジル」や大阪のそごう百貨店特別食堂の大壁画、そごうの夏の洋服デザイン、本の装丁など派手な仕事によって一般的な人気を勝ち取った。

 マドレーヌは奔放な女性で、もともとアルコール中毒なうえにモルヒネにも頼っていた。しかし本来はモンパルナスの踊子であり、歌も達者だったのでシャンソニエとしてラジオ出演をしている。このときピアノ伴奏をした倉重瞬輔は、マドレーヌが「妾お酒がないと唄はないわ」などとごねるので止むなくビールの小瓶をポケットに忍ばせてスタジオに入ったという。

 彼女のそのような退廃と奔放さが死を招くことになる。日本ではモルヒネが大っぴらに買えないのと母親の病気見舞いを兼ねて、そして何よりも肝心の藤田と破局したことを理由に1935年、フランスに帰ったが、薩摩治郎八から「藤田に新しい女ができた」と吹き込まれて嫉妬に駆られ、翌年ふたたび来日した。来日後に君代(五番目の妻となる)の存在を知った彼女は1936年6月29日、入浴中にモルヒネ中毒の急激な症状を起こして死んでしまった。27歳であった。

 彼女のレコードは日本コロムビアに3枚ある。いずれも日本語で歌われたタンゴや和製シャンソンで、いくら藤田から日本語を習ったからとはいえ、器用に日本語をマスターしているのに驚かされる。

「みんなあなたに」(相馬仁作詩・倉重瞬介作曲) 昭和9年10月

「恋はつらいもの」(相馬仁 訳詩)       昭和9年10月

  アルゼンチン・タンゴ・バンド

「若き闘牛士」(千家徹三作詩 R.デュフォル作曲)昭和9年11月

「九尺二間」(相馬仁作詩 R.デュフォル作曲)  昭和9年11月

「雨の夜は(白石正之助作詩 ヒムメル作曲)   昭和11年7月

「別れ行く」(堀内敬三作詩 フネマイヤー作曲) 昭和11年7月

  アレクサンダー・ダンス管弦楽団

 なにしろその振る舞いから「女豹」などと呼ばれた女性であるから、さぞかし酒焼けのしたハスキーなシャンソンを聴かせるかと思いきや、初聴の印象は可愛らしい甘ったれなものであった。なぜか奇妙に上手い日本語でパリのミュージックホールの雰囲気を濃厚にかもし出している。しかし聴きこむとその声質は暗い蔭を纏い、そこにイヴォンヌ・ジョルジュの死を思わせる、玉の緒の薄さをひしひしと感じざるを得ない。聴くほどにやりきれない寂しさが前面に出てくる。

 「恋はつらいもの」は1931年のフランス映画「掻払いの一夜」の主題歌「マドロスの唄」"Si l'on ne s'etait pas connu"が原曲で、1st vers.を日本語で、2nd vers.をフランス語で歌っている。どうも生粋のフランス人ではないらしい発音であるが、蓮っ葉で陽気な女性であったらしい息遣いである。

 「みんなあなたに」はパリに留学していた作曲家・現代音楽評論家の倉重瞬輔が作曲した単調でけだるいシャンソンで、ちょっとサティの歌曲を思わせる曲調である。このゆったりとした唄にもっともマドレーヌの人生が投影されているように感じられた。それはエコール・ド・パリそのものの匂いだ。華やかな宴の次の朝のような白けた寂寞と虚無感。

 伴奏のアルゼンチン・タンゴバンドは赤坂溜池のダンスホール、「フロリダ」のそれであろうが、同じフロリダに出演していた巴里ムーランルージュ楽員とは別の楽団で、日本人のバンドである。

「雨の夜は」は、コンチネンタルタンゴの「小雨降る径」"Il pleut sur La route"として広く知られている曲である。また、「別れ行く」は、原曲のタイトルを知らないのだが、1936年の松竹少女歌劇のグランドレヴュー「忘れな草」で挿入歌として歌われた「秘めよ汝が恋」と同じ曲である。

 この一枚はパリで録音されている。マドレーヌが一旦パリへ帰ったときにミュゼットアコーディオンの名手、モーリス・アレクサンダーのダンスオーケストラが伴奏をして吹き込んだものであるが、アレクサンダー・ダンスオーケストラのレコードとしても珍しい一枚であり、モンパルナスでの藤田の活躍を思い合わせると、ただ単に流行歌のレコードというよりは華やかで儚いエコール・ド・パリの証人のような感銘を覚える。

このレコードが発売された9日後に彼女は亡くなった。このレコードでの彼女は、2年前に日本で吹き込んだ時とは別人のように声に力がなく、ふり絞るように歌っている。すでに体が衰弱していた顕れだろうか。藤田はその死を悼んで、没後も彼女の肖像を描いている。

※その後、原曲はHermann Hünemeyer作曲の"Blutrote Rosen"(1929)というドイツのシュラガー(流行歌)であることが分かった。日本ではマドレーヌ藤田のほか、神田千鶴子、松平晃、由利あけみがカバーしている。