ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

糸井光彌

折角なので糸井光彌について暫定的に纏めておきたい。 本名・紺井輝也。糸井光彌という芸名は紺と輝の偏を採って、也を彌に変えたもの。 コメントにも記したとおり1899年4月9日生まれなので、二村定一より一歳年上ということになる。1922年(大正11)には石井漠の主宰になる「旭大歌劇団」に加わっており、さらに1925年(大正14)10月には佐々紅華が浅草オペラの実力派歌手を集めて組織した「歌劇協会」に加わり、ヴェルディのオペラ「アイーダ」のアモナズロ役をこなしている。この時の公演では天野喜久代、大津賀八郎、園春枝(=青木晴子)、糸井光彌、広石徹、藤村梧朗らがいずれも本名を並べ、グランドオペラの本格的な上演である点を強調した。 1929年3月に大阪新世界に開場した大橋座で、映画幕間のアトラクションとして一座を率いて歌劇を上演しはじめた。なお、この大橋座の伴奏楽団の楽長は元第四師団軍楽隊の橘宗一で、服部良一が在籍した「いづもや少年音楽隊」の指導者・指揮者であった。 戦中から戦後にかけては、夫妻で小さな一座を組んで地方巡業をしていた。1966年、大河ドラマ源義経」に出演。没年は今のところ未詳。ご健在であれば110歳となる計算である。 レコード録音を始めたのは1925年頃からで、日本蓄音器商会傘下のサブレーベルであるヒコーキに、高井ルビーおよび園鶴子と組んで「一寸法師」「文福茶釜」などのお伽歌劇を吹き込んでいる。 1929年(昭和4)春、大阪府豊能郡庄内村に本社と工場があった国歌(コッカ)レコードにふたたび録音をはじめる。コッカは1935年前後には他のマイナーレーベルと同様、標準規格である10吋のシェラック盤を製造していたが、創立当初はセルロイド状の素材をプレスして6吋、8吋という小型盤を生産していた。このサイズの音盤は子供向けに絶大な販路が拓けたほか、ジャズソングや映画説明、大衆演芸など広範なジャンルのカタログを揃えていた。(これら小型盤は後にシェラックでもプレスされた) そのころコッカでは服部良一がアレンジャー兼レコーディングバンドのバンマスとして采配を揮っており、糸井は服部良一のアレンジするジャズソングや流行小唄、ジャズ民謡を国歌ジャズバンドの伴奏で次々に歌った。 たとえば以下のタイトルはいずれも1929年から30年にかけて、ジャズバンドの伴奏で吹き込まれたレコードである。 6吋盤「青空」「アラビヤの唄」「草津節」「串本節」(以上1929年春)、「鴨緑江節」「都々逸」(jun.1929) 8吋盤「江戸小唄」「青春の頃」「俺が女房」「コイツは分からない」「恋はおやめ」「当世モガモボ」(以上1929年)、「祇園街」(sept.1930)、「元禄小唄」(dec.1930) このほか「鉄道唱歌」「水師営の会見」「敵は幾万」など唱歌や軍歌も吹き込み、20タイトル以上を国歌からリリースしている。 「青空」「アラビヤの唄」は、アルトサックス、コルネット、ドラムス、ピアノ、ヴァイオリン、笛という編成の国歌ジャズバンドが、二村定一のビクター録音に範を採ったアレンジを用いている。但しこちらは僅か2分足らずの演奏である。糸井光彌の歌唱は、大津賀八郎や広石徹にも共通する浅草オペラ独特の泥臭さとでもいおうか、豪放磊落な朗詠調の歌いぶりである。個人的には、二村定一の歌唱とは発声も声質もかけ離れていると感じる。 糸井は国歌レコードに一連の録音を行なっていたのと同時期、1929年10月に日本蓄音器商会のサブレーベル、オリエント日本コロムビア関西スタジオが企画・制作していた)からジャズソング「歓楽の夜」(菊池博=編曲 )をリリースしている。こちらは井上起久子との共唱とはいえ曲りなりにもメジャーレーベルの仕事であるから糸井の歌唱もいくぶん整っており、声域の広さを活かしてソツなくこなしている。徳山たまき風に聴こえなくもない。しかし、オリエントでは川崎豊が「河村肇」、大津賀八郎が「大津進」という名で男性歌手の一翼を担っていたので、似たような系統の歌手である糸井光彌が入り込む余地はなかったようだ。 伴奏のプリンシパルジャズバンドはアルトサックス、トランペット、トロンボーンバンジョー、ドラムス、ピアノ、ストリングス、というホテルスタイルの編成でスイートな演奏を聴かせてくれる。 アレンジャーの菊池博(1902-54)は東京音楽学校器楽科を卒業後、大阪松竹座や関西のダンスホールでジャズピアニストとして活動した。丁度このレコードが吹き込まれた頃、1929年夏に上海に渡った。翌年の帰国後は阪神間の杭瀬ホールに出演するが、1932年に上京。人形町ユニオン・ダンスホールを皮切りに、コロムビア・ジャズバンドやポリドール・ジャズバンドでピアノを弾きながらアレンジャー・作曲家としての才能を発揮しはじめる。