ねえ興奮しちゃいやよ 昭和エロ歌謡全集 1928-1932
さまざまな出来事やイベントに押し流されて、すっかり更新が滞りました。
ずっとおあずけを喰っていたぐらもくらぶCD「ねえ興奮しちゃいやよ 昭和エロ歌謡全集 1928 - 1932」の紹介です。
このCDを企画したのは去年の秋、9月くらいだったと思います。企画を提示したとき、最初は「これ売れるんですか?」という反応だったので半ばあきらめていましたが10月頃に制作が決まり、候補曲の選定、編成表、ライナー含めて12月末までに仕上げました。ぐらもくらぶのCDとしては比較的短期間にまとまった方だと思います。
1月にひき逃げ事故に遭遇して入院しましたが、わざわざ東京から見舞いに来てくだすった保利透氏から出来たてのCDをもらいました。
表紙デザインからレイアウトまで得心のいく出来栄えとなりました。
内容的には、これは僕の懸案だった理想の具現です。
昭和初年から6,7年にかけてのエロ・グロ・ナンセンスと総称される時代には、この時期特有の流行歌が乱発されました。日本の歌謡史を紐解くと、新民謡やジャズソングの流行から古賀政男の古賀メロディーに移行する途中、かろうじて「ザッツ・O.K」や「尖端的だわね」などがエロ・グロ・ナンセンス時代の代表としてちらっと顔を出しますが、その当時のレコード界の趨勢からするととてもとてもそれどころではない。グロはさすがに数少ないですが、エロとナンセンス(及びその2つの要素をミックスしたもの)を売り物にしたレコードは、盛大に一時代を築いていました。そうした埋もれた歌謡をまとめたい、と長らく念じていたのが「ねえ興奮しちゃいやよ」に結実したのです。
この「エロ」への追求は高校時代にはじまりました。
そのころ僕はよく学校をサボって()月一の大須観音のがらくた市に行っていました。なにしろ朝5時始発のバスに乗って、名鉄を乗り継いで午前10時くらいにやっと大須に着くので一日仕事です。ここでは流行歌やジャズソングのほかクラシックもずいぶん買い、長谷川裕泰さん、岩田さんなどコレクターと知己になったのもここです。
長谷川さんに教えられて夏場に丸栄でやっていた中古レコード市に顔を出すようになり、そこに出店していた会社でのちにSPレコードの全てを学び、音楽系の物書きを目指すことになりますから、僕の主な人生は大須から始まっているといっても過言ではありません。
高校2年か3年生の正月、大須には珍しくウブ荷が出て、その中にピカピカの「ねえ興奮しちゃいやよ」(青木晴子 ポリドール)がありました。そのころ相次いで淡谷のり子が変名で吹き込んだ「S.O.S」(水町昌子 オリエント)やマイナーレーベルの「思ひ直して頂戴な」(山田貞子 スタンダード)など、まず歌謡史では触れられない唄に接して、何かそこには一群の共通項があるように認識していました。
それがエロ・グロ・ナンセンスという時代の埋もれた唄の一群だと気づくのは後のことですが、高校時代、ドキドキして聴いていたエロ小唄の感動をそのままパッキングしたのが、このCDです。(もっとも4曲ばかり、コレクター諸氏のご好意で知ることが出来たナンバーが含まれています。)
内容については多摩 均氏のライナーにお任せしますが、エロいといえばエロい、エロくないといえばエロくない。千人万差の反応があることと思います。一面には当時の風俗が濃厚に反映した、考現学的な面白さ・貴重さがありますし、一面にはまことに普遍的で不変的な恋愛、性愛のすがたを見出すこともできます。エロという言葉や意味の現代との違いも比較文化学的に面白い要素かと思います。また、エロ・グロ・ナンセンスと呼応して流行したジャズが通奏低音となってジャカジャカと鳴り響きます。しかし、堅苦しい学究は抜きでこれらを覗きからくりでも覗くように楽しんでいただければ本望です。
発売からすでに半年が過ぎてみると、このCDはかなりの反響を集め、日比谷公会堂アーカイブカフェやamazonでは売り切れと入荷を繰り返しているありさま。企画者としてこれまたありがたく嬉しい思いでいっぱいです。
いささか遅い紹介となりましたが、お手にしていない皆さまはレコード店やメタカンパニーのサイト、amazonなどでお求めください。どうも残部が少なくなりつつあるようですので、お早めの方がよいかと思います。
それからそれから、ただいまこのCDの内容を敷衍した著作を執筆中です。お楽しみに!
【戦前ジャズ辞典】トロンボーンの巻
戦前ジャズの楽しみ方、学び方として録音から聴き取れる各パートの主なプレイヤーについて述べはじめたが、ラッパ隊のトランペットから始めたことだから今度はトロンボーンについて纏めてみよう。
その前に、大正期の二つの録音について述べておきたい。
日本のレコード録音の不思議なところは、「一体こんな企画を誰が思いついたんだろう?」という奇想天外な、或いは当時は注目されなかったかもしれないけれど現代の視点でキャッチーな録音の数々が残されている点である。ここに取りあげる二つの録音もそれぞれの意味で同時代の日本では稀有な録音で、大正期の洋楽の受け入れられようを何よりも雄弁に示している。
大正14年(1925)5月新譜の「ゲーヂオフアーモアーアベヌ "Guage of Armour Avenue"」は日東管絃団の吹き込みで、この表記からは想像もつかないがディキシーランド•ジャズである。誤植を正せばこのナンバーはW.C.Handyの"The Gouge Of Armour Avenue"で、もちろんこの録音が日本初。前半にクラリネットのソロがあり、中間部ではリズムスに支えられてトロンボーンが長大なソロを吹いてクラに引き継ぐ。このときの日東管絃団のパーソネルは未詳だが、明らかに黒人系あるいはフィリピン系のプレイヤーによる、粘りのある演奏である。
20世紀に入ってトロンボーンをフューチャーした音楽作品として、「ホットトロンボーン」が挙げられる。"Hot Tromborne"(1921)は、バンドリーダーで作曲家のヘンリー•フィルモア Henry Fillmore(1881-1956)がこの楽器に特化して作った連作「トロンボーン•ファミリー "Tromborne Family」の中の曲で、これがなんと1926年に、「東京グリーン管絃団」というバンドによって大阪のニットーレコードでレコード化されている。フィルモアはラグタイムも作曲しているので、ジャズの前哨戦として挙げておこう。
この東京グリーン管絃団というのはメンバー未詳だが、ソロのトロンボーンは大正期という時期を考慮すれば相当うまい。
さて、昭和期のジャズ録音に含まれるトロンボーン奏者について、本題に入ろう。「日本のジャズ史 戦前戦後」の著者・内田晃一氏は、ジャズトロンボーンの第一号として、「ユニオン・チェリーランド・ダンス・オーケストラ」の録音を指して、生前の谷口又士が相沢秋光を挙げたことを記している。(別冊一億人の昭和史 日本のジャズ」) しかしこの録音のブラス隊はソロ箇所がない上、録音自体がたいへん聴き取りづらいので、演奏の全貌がはなはだ漠然としているのが残念だ。
大正期からラジオに出演しているセミプロの「コスモポリタン•ノヴェルティー•オーケストラ」にトロンボーンが加わっており、なかなか良い働きをするのだが残念ながらパーソネル未詳。この楽団はそもそも主宰者とその兄弟、早稲田、慶応の学生から成るセミプロバンドなので、名のあるプレイヤーは加わっていない。
その次に来るのが戦前派の名プレイヤーの一人、河野絢一である。
河野は日本ビクター•ジャズバンドすなわち井田一郎のチェリー•ジャズバンドのメンバーで、二村定一と日本ビクター•ジャズバンドの主要な録音に参加した。「君恋し」ではトランペットと重ねて使われる程度だが、彼が本領を発揮するのは「ソーニヤ"Sonya"」や「昇る朝日 "The Sunrise"」のようなごく初期の二村=井田バンド録音で、ボコボコした逞しい音でtpやasに闊達に絡んでいる。これは、井田一郎のバンドと二村定一が浅草電気館のアトラクションで散々プレイしていたものをそのままスタジオで演っているからで、メモリーでばりばりプレイしている活気が伝わってくる。
河野は昭和8年、日本ポリドール管弦楽団が組織されるとそちらに入り、昭和10年代のスウィング時代を支えた。藤田稔(=灰田勝彦)の「散歩はいかゞ」あたりから数多くのジャズソング録音に参加している。ベティ•イナダの「バイバイブルース "Bye Bye Blues"」で演奏している日本ポリドール•ジャズ•シムフォニアンスという聞きなれない楽団のtbも河野だ。ポリドール時代の河野は夭逝したアレンジャー•工藤進や、長津義司、山田栄一、佐野鋤らのアレンジを吹いたが、井田時代と同様、tpと併せて使われることが多かった。もっとソロが多ければより評価の高いプレイヤーだろう。
「蒲田行進曲 "Song of the Vagabonds"」の松竹ジャズバンドのトロンボーンも初期のジャズバンド録音では目立った活躍をするが、パーソネル未詳である。
法政大学出身の兵頭良吉も昭和初期の記憶すべき名プレイヤーである。
彼のバンド経歴は、ラッカンサン・ジャズバンド→アーネスト・カアイ・ジャズバンド→赤坂溜池フロリダ・ダンスホールの「菊地滋彌とカレッジアンズ」と一流どころを渡り歩くもので、録音はラッカンサンとカアイで確認できる。大らかさな、器の大きさを感じさせるプレイだ。なお、「ラッカンサン(Luck & Sun)ジャズバンド」の名付け親はこの兵動である。
録音はラッカンサンの「夢の人魚 "A Siren Dream"」「フー "Who"」「月夜の晩に "Get out and Get under the Moon"」「ハワイへ行こうよ "I'll Fly to Hawaii」「大学生活 "Collageate"」(いずれもビクター)など。
カアイ・ジャズバンドでは「アマング・マイ・スーヴニーア "Among My Souvenir"」「ウクレルベビー "Ukulele Baby"」「青春小唄」(二村定一 ビクター)、「愛の古巣 "I'm wingin Home"」(天野喜久代 コロムビア)など。因みにカアイバンドには異なるプレイヤーも混じっているので注意すべき。
有名な谷口又士が頭角を現したのは昭和5年のことだった。
谷口の最も古い録音はコロムビア•ジャズバンドの第一期編成時である。
徳山たまき、澤智子「ブロードウェイメロディ "Broadway Melody"」
徳山たまき、澤智子「ウェアリイ・リヴァア "Weakly river"」
坂井透「とてもとても "That's You, Baby"」
天野喜久代「淋しいみち "The Lonesome road"」(昭和5年5月新譜)
以上に参加した演奏は、昭和5年当時、最高の出来栄えを記録している。
紙恭輔は昭和4年にコロムビア・ジャズバンドを組織して間もなく、5年には渡米してしまうのだが、それまでに彼が指揮したこの4曲は、後を引き継いだ井田一郎の第二期編成時代にはない強烈な輝きがある。そこから、後年、昭和10年代に渋さと甘さを兼ね備えた谷口又士のまだ若々しく力強い音を発見するのは容易なことだろう。
因みに「ブロードウェイメロディー」の一枚2面はtpが小畑光之、「とてもとても」の一枚2面は南里文雄のtpである。
井田一郎が指揮した第二期コロムビア・ジャズバンドの初期、たとえば藤山一郎のアルバイト録音にも谷口又士の音の聴こえるものがある。(「恋のひと時」や「モダンじゃないが」など) 聴こえるものがある、というのは、この時期、大野時敏のトロンボーンもコロムビア・ジャズバンドに入り交じっているからだ。それからいっときコロムビア・ジャズバンドを脱退するが、指揮者が渡邊良となる昭和7年にふたたびコロムビアに戻り、第三次編成の編成替えを経て、昭和11年まで所属する。
おなじ昭和11年、大阪の地域レーベル、コッカに紙恭輔(指揮) P.C.L.ジャズバンドが吹き込んだ3枚6面に参加している。うち「ダイナ “Dinah”」「タイアドハンド “Tired Hand”」は谷口のソロが明瞭に聴き取れる。
しかし彼の活躍で最も有名なのはビクター時代の録音であろう。
昭和11年から日本ビクター・サロン・オーケストラ(あるいは日本ビクター・ジャズ・オーケストラとも日本ビクター・ジャズバンドとも)に加わり、ビクターのジャズソングの多くの録音にアレンジャー・トロンボーン奏者として参加している。岸井明をヴォーカルに迎えた「ねえ君次第 “I’m Follow You”」「察しておくれよ、君!”That’s You, Baby”」「唄の世の中 “Music goes ‘round and around”」「楽しい僕等 “Sitting on a Five Barred Gates” 」などはソロや目立つ演奏で必聴。
また谷口がバンマスを務めていたP.C.L.ジャズバンドはコッカのほかビクターへも録音しているので、「スーちゃん “Sweet Sue, Just You”」「涙を拭いて “My Melancholy Baby”」で谷口のアレンジとソロがたっぷり聴かれる。
ビクターのスウィングでは、ほかに豊島珠江の歌った「ブルースカイ “Blue Skies”」(谷口又士 arr.)も良い。
日本ビクター・サロン・オーケストラは流行歌や戦時歌謡のインストも数多く残しているが、「桜ニッポン」、「越後獅子」、「春雨」、「一億の合唱」、「太平洋行進曲」、「戦友ぶし」、「日の丸行進曲」あたりを筆頭に、ソロパートを吹いたりアンサンブルで活躍したりしている。谷口の甘くかすれた音はトランペットと重なるとブラス隊に奥行きを生じさせ、厚みのあるスウィングになった。戦前派のトロンボーンではもっとも残された録音が多いプレイヤーといえよう。
昭和5年にフロリダ・ダンスホールの招きで来日したウェイン・コールマン・ジャズバンドのトロンボーン、バスター・ジョンソン(1885-1960)-Theron E. "Buster" Johnson-も比較的多くの録音で聴けるプレイヤーだ。彼はヘンリー・ブッセ及びガス・ミューラーとの共作で”Wang Wang Blues”(1918-19)を作曲したことで知られる。このナンバーは1920年にポール・ホワイトマン・アンド・ヒズ・オーケストラによってレコード化され、ホワイトマンの初期のヒット盤となった。
ウェイン・コールマンの楽団に加わっていた頃の、特にソロパートのある重要な録音は「大東京ジャズ」に収録した「あの子 “Sweet Jennie Lee”」や、「ユウウツ “St.Louis Blues”」(打越昇 vo)、「山の夜の恋心 “Moon is low”」(打越昇)、「別れませう “I’ll be blue, Just thinking You”」など。この楽団はポリドールにも録音しているが、そちらはリード主体のアレンジが多く、バスター・ジョンソンの音が確認できるのは「沙漠の隊商 “Desert Caravan”」などごく少量だ。
ウェイン・コールマン・ジャズバンドの大半のプレイヤーが帰米したのちもバスター・ジョンソンは日本に留まり、「テイチク・ジャズ・オーケストラ」(この楽団は特に初期録音ではディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダスのクレジットも用いられた)のtbに加入した。ソロパートもこのテイチク録音のほうが飛躍的に多い。
川畑文子の「上海リル “Shanghai Lil”」、「バイ・バイ・ブルース “Bye Bye Blues”」、「貴方とならば “I’m Following You”」、「月光値千金 “Get out and Get under the Moon”」、「アラビアの唄 “Sing Me a Song of Araby”」、愛のさゝやき “Wabash Blues”」「貴方に夢中 “You're driving me crazy! what did I do?”」「ティティナ “Titina”」と主だったジャズソングでB.ジョンソンの練達なtbが聴ける。
ディック・ミネの「君いづこ “Somebody stole My Gal”」などからも確実に彼の枯淡な渋いプレイが聴けるのだが、ざっと聴いた感じではディック・ミネの録音には意外に加わっておらず、これはアレンジャーとしての三根徳一の好みかもしれない。
たしかに彼の演奏は味はあったがヘビーハンド気味で若さを失っていることは否めない。同時代の日本の若いトロンボーン・プレイヤーの方が技巧的には上回っていただろう。B.ジョンソンの場合、あのポール・ホワイトマン楽団にいたという経歴や「ワンワン・ブルース」の作曲者という実績も物を言っただろうし、ベテランプレイヤーだっただけにテイチクではカメオ出演的な存在だったのかもしれない。
インストものでは「ホワイトヒート」のソロが際立っている。しかし録音の多くはアンサンブルに埋没しているので、B.ジョンソンと別人とを聞き分ける必要がある。
またおなじテイチク・ジャズ・オーケストラでも他のプレイヤーの場合があるので気をつけねばならない。
その、他のプレイヤーその�@が、荒井恒治である。彼はディック・ミネのvoによる「ディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダス」の初期録音にのみ姿を現している。
荒井は、「南里文雄とホットペッパース」の一員であった。その顔ぶれは次の通り。
西郷隆(as), 田沼恒雄(ts), 南里文雄(tp), 荒井恒治(tb), 藤井宏祐(b), 小沢進(ds), 神月春光(p),
ディック・ミネはホットペッパースのうち南里、田沼、神月をチョイスして、鈴木淑丈(‘cello), 泉君男(ds)を加えて「ダイナ “Dinah”」などを吹き込んだのだが、アレンジによっては荒井恒治のtbを加えた。テイチクの初期のジャズレコードはこの南里&ホットペッパース主体の「ディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダス」と、10ピースクラスの「テイチク・ジャズ・オーケストラ」が混在しているので、ことがややこしいのである。なお荒井は昭和10年代、自らスウィングバンドを組んで関東のダンスホールで活躍していた。
他のプレイヤーその�Aは、昭和12年から「テイチク・ジャズ・オーケストラ」を率いた中澤寿士である。中澤のtbは昭和11年からディスクに現われている。
中澤のtbは非常に闊達で技巧派。音も割れることがないから分かり易い。中澤アレンジによるチェリー・ミヤノのジャズソングあたりが初出で、徐々にディック・ミネのジャズソングやインストものにも演奏で加わっていった。テイチクのレコーディングオーケストラそのものが中澤寿士の楽団に切り替わった昭和12年には、完全に中澤=トロンボーンとなっていた。
この辺りは個々のディスクを聴きながら判断していただきたいと思う。
中澤寿士の初期録音はタイヘイにある。タイヘイのジャズソングやダンスレコードには、のちに東京で活躍するプレイヤーが何人か散見されるので意外に重要だ。
さて、戦前派トロンボーンでも巨星と讃えられる存在は、谷口又士だけではない。ビクターに対するコロムビア・ジャズバンドの鶴田富士夫は、谷口とは正反対の性格を持つ、正確無比、且つ整った明快なプレイで覇を競った。
彼のソロはいちいち挙げているときりがないほど多い。服部良一アレンジの「唄へ唄へ」(宮川はるみ)や「グディ・グディ」(川畑文子)など、ときに小畑益男のトランペットを摩する勢いの名演が多い。
戦前派のトロンボーンの重要なところは、おおむねここに挙げたプレイヤーを覚えればこと足りるであろう。
【戦前ジャズ音楽辞典】トランペットの巻
戦前ジャズの大量に残された音源には膨大なデータが含まれている。とりわけジャズバンドなどはひとりひとりの特定をするのにサンプルも最低限あるし、ジャズの歴史を紐解くのにパーソネルは必要不可欠である。
アメリカやヨーロッパにはそれがあるのに日本にないのは不都合だろうと考えて、ここ数年はそのことばかり考えている。(そのため、故クリストファー・N・野澤先生と共同で進めていた日本洋楽史ディスコグラフィーの計画に大きく差し支えて先生の生前に叶えられなかったのは返す返すも遺憾だ)
ひとくくりにジャズ録音と言っても、各プレイヤーの背後にもそれぞれの人生があるのだから、音源は資料としてではなく、血の通った音楽として聴くべきだと僕は考えている。
そこで数年前から戦前日本録音のジャズのパーソネルを纏める作業をしているのだが、ここで少し大まかに紹介をすることにした。最近の事故で、人はいつ死ぬか判らないと思ったのも動機のひとつだが、このような情報に刺激されて個々の音源のプレイヤーを特定する作業を志す新しい人が現れれば戦前ジャズへの理解ももっと深まるだろうと考えるからだ。
amazonのレビューなどを見ても、まだまだ戦前日本のインスト録音の意義が周知されたとはいえず、ひとつの世界を構築するには多くの衆知が必要だと感じる。
僕の経験上、戦前のジャズバンドでもっともパーソネルの識別が容易だったのはトランペットだった。そこでトランペット(文中、tpと略)から始めてみよう。
音で判別できる最も初期の名プレイヤーは橘川正である。彼は直情的でストレートな奏風で、あまり崩して吹いたりというのはできない。それでもローリングトゥエンティーズから昭和10年代まで、井田一郎のバンドに加わってビクター(日本ビクタージャズバンド)、コロムビア(コロムビア・ジャズバンド)、テイチク(テイチク・ジャズ・オーケストラ)、キング(キング・ノヴェルティー・オーケストラ)でレコード録音をしたほかに、フリーでも活躍した。ダンスホールでも一流プレイヤーとして遇された。ビクターで昭和3年〜5年くらいまで吹きこまれたジャズソングには橘川が多く加わっている。二村定一、佐藤千夜子その他。ポリドールの最初期のジャズソング録音にも入っていて、中でも青木晴子の「君が居なけりゃ」は名演。昭和6年からコロムビアに移り、ここでも橘川は二村のバックでいいtpを吹いている。「暁の唄」「スタインソング」あたりが代表的なところだろう。
太陽レコードの二村定一「恋人よかへりませ」は珍しくマイナーレーベルで仕事をした例。
二村定一・天野喜久代の「あほ空」「アラビヤの唄」には風間瀧一が加わっているが、さして際立つ演奏ではない。彼は慶応の学生バンド、レッド・エンド・ブリュー・クラブ・オーケストラの初期の録音、掲上の録音のほか「雨」「アディオス」などに加わっているが慶大生ではなく、新交響楽団のメンバーである。
このバンドの後期の録音では風間ではなく、斎藤広義などが入っている。斎藤は次に述べるカアイの録音にも加わっているから、学生バンドにとっては心強い存在であった。
法政の学生バンド、カアイジャズバンドには二種類のtpがいる。
一人は斎藤広義で豪放な音は後年まで変わらない。復刻された中では「大東京ジャズ」の「マイヱンゼル」や、コロムビアの「スウィング・タイム」の鈴木芳枝「別れても」(因みに戦後の二葉あき子による再録音は、小畑益男)、笠置シズ子の「喇叭と娘」ほか戦前録音に聴かれる。なお、彼はもともとクラシカル音楽の出身なので、近衞秀麿(指揮)新交響楽団のパーロホン、コロムビア録音に加わったものもある。
もう一人は南里文雄の先輩で、かすれた音がトレードマークの七条好。これが南里の先輩??という違いようだが、個性的だ。彼の音はニッポノホン、コロムビア録音にもビクター録音にもある。
ビクターは昭和ひと桁中ごろに日本ビクター管弦楽団を編成したとき、tpにロシア人のマルチェフを据えた。彼はニットーでもほぼ同時期に音を残しているが、昭和11年頃に恋愛事件を起こして国外追放されてしまった。
マルチェフがいなくなる頃、ビクターはより規模の大きいジャズ・オーケストラを編成し、古田弘をtpに入れた。彼は関西のタイヘイで二村定一の吹込みのバックバンド(タイヘイジャズバンド)に音が聴こえるのが早く、ビクターでは成熟したプレイを聴かせてくれる。古田のソロ録音の「セントルイス・ブルース」と川田義雄の「浪曲セントルイス・ブルース」を聴き比べると同じトランペットだ。
コロムビア・ジャズバンドは、初期の第一次編成では小畑光之が大活躍する。
彼はからっと垢抜けしているが、奔狂的に呻いたりシャウトしたりするディキシープレイヤーで、不思議と古臭さがまとわりつかない。僕は彼を転載だと思う。ビクターのラッカンサン・ジャズバンドを皮切りに藤山一郎の昭和6〜7年のコロムビア録音、ほぼ同時期のポリドールのジャズソング、それから例外的にテイチクでディック・ミネの「アイダ」にも彼の音が聴ける。
晩年はワンマンプレイで周りとまったく合わせなかったので仲間が困ったらしいが、全盛期から吹きまくる気はある。
小畑光之に似ていて注意が必要なのが、テイチク・ジャズ・オーケストラの第一期編成のtp(2nd)の杵築京一。彼も小畑風にひきずるような演奏をするが、小畑のシャウトするような破天荒プレイより小気味よくスタイリッシュに洗練されている。ディック・ミネの「意味ないよ」、川畑文子の「上海リル」を聴けばこの人も一発で覚えられるだろう。
コロムビア・ジャズバンドは昭和7年から9年ごろまで一時期、南里文雄を抱えたが、彼の音が確認できるディスクは少なく、川畑文子との録音などではごくまじめに2tpのアンサンブルに溶け込んでいる。ミッヂ・ウィリアムスとの「ダイナ」などはこの時期には珍しいソロだ。
南里・橘川の2tpのあと、小畑光之の弟の小畑益男が入る。彼は鋭い切り裂くようなプレイの内面にそれはそれは優しく熱いものを隠し持っている。なので触ったらほの暖かいが、その光源熱源は強烈である。
小畑の下に2ndで入る森山久は、小畑益男とは対称的な存在である。小畑は外面的に瑕のない正確無比な演奏だが、森山はフィーリングで本質をぐいと掴み出し、豊かな音で自在に歌う。伊達な雰囲気は彼のヴォーカルと同質である。
テイチクは杵築京一と同時期に南里文雄も入っている。南里は戦前ジャズメンではやはり別格で、彼のような崩し方をするtpは他にいないから、プレイヤー判別入門のお手本のような人だ。
ただ気質的に斎藤広義や、テイチクで杵築京一の後に入る伊藤恒久に似ているので注意が必要。特に伊藤は、南里と判別がつきにくいことがあるほど似ている。たとえばテイチク・ジャズ・オーケストラの「ダイナ」など、うっかり南里かと思ってしまうほど似ているパワフルなプレイだが、南里より男性的である。
テイチク・ジャズオーケストラはcl, 2sax, 2tp, tb, tub, g, ds, p, vlの10ピースで編成されていた。が、テイチクがディック・ミネを専属にする際、契約によってミネの伴奏をするときに限りディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダスの名を使うことになった。この楽団のパーソネルをミネが広い人脈を駆使して集めた事情もあるのだろう。
ところでミネは有名な「ダイナ」をはじめ、初期録音を「南里文雄とホット・ペッパース」のメンバーを核としたコンボとも録音しており、そちらも契約によってディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダス名義でリリースされた。それで揉めて、腹を立てた南里がテイチクと絶縁したエピソードは有名だ。
ミネと決別した南里はタイヘイに少なからぬ編曲を提供し、田中福夫の「シボネイ」など彼の加わった録音もそこそこある。
ポリドールは昭和8年に専属の日本ポリドール管弦楽団を組織して、けっこう長く谷口安彦をtpに使った。ユニバーサルの「スウィング・パラダイス」でいうと1枚目の藤田稔「散歩はいかゞ」から谷口率が高い。彼の鋭い、ブラスを感じさせる音は工藤進の厳しくリズムを刻むアレンジによく映え、カンザス・シティ風の効果を与えている。トロンボーンと束になってブラス隊として働くと、コロムビア・ジャズバンドよりも強力なベップをバンドに与えた(コロムビアはtpとtbが融合するほかは個々に動いている感じ)が、これは工藤のブラスの用い方が上手いためもあるだろう。
きわめて散漫かつ大雑把だが、トランペットは以上を指標とすれば聴きながら面白く芋づる式に見つけられるだろう。