ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

【戦前ジャズ音楽辞典】トランペットの巻

戦前ジャズの大量に残された音源には膨大なデータが含まれている。とりわけジャズバンドなどはひとりひとりの特定をするのにサンプルも最低限あるし、ジャズの歴史を紐解くのにパーソネルは必要不可欠である。

アメリカやヨーロッパにはそれがあるのに日本にないのは不都合だろうと考えて、ここ数年はそのことばかり考えている。(そのため、故クリストファー・N・野澤先生と共同で進めていた日本洋楽史ディスコグラフィーの計画に大きく差し支えて先生の生前に叶えられなかったのは返す返すも遺憾だ)

ひとくくりにジャズ録音と言っても、各プレイヤーの背後にもそれぞれの人生があるのだから、音源は資料としてではなく、血の通った音楽として聴くべきだと僕は考えている。

そこで数年前から戦前日本録音のジャズのパーソネルを纏める作業をしているのだが、ここで少し大まかに紹介をすることにした。最近の事故で、人はいつ死ぬか判らないと思ったのも動機のひとつだが、このような情報に刺激されて個々の音源のプレイヤーを特定する作業を志す新しい人が現れれば戦前ジャズへの理解ももっと深まるだろうと考えるからだ。

amazonのレビューなどを見ても、まだまだ戦前日本のインスト録音の意義が周知されたとはいえず、ひとつの世界を構築するには多くの衆知が必要だと感じる。

僕の経験上、戦前のジャズバンドでもっともパーソネルの識別が容易だったのはトランペットだった。そこでトランペット(文中、tpと略)から始めてみよう。

音で判別できる最も初期の名プレイヤーは橘川正である。彼は直情的でストレートな奏風で、あまり崩して吹いたりというのはできない。それでもローリングトゥエンティーズから昭和10年代まで、井田一郎のバンドに加わってビクター(日本ビクタージャズバンド)、コロムビア(コロムビア・ジャズバンド)、テイチク(テイチク・ジャズ・オーケストラ)、キング(キング・ノヴェルティー・オーケストラ)でレコード録音をしたほかに、フリーでも活躍した。ダンスホールでも一流プレイヤーとして遇された。ビクターで昭和3年〜5年くらいまで吹きこまれたジャズソングには橘川が多く加わっている。二村定一佐藤千夜子その他。ポリドールの最初期のジャズソング録音にも入っていて、中でも青木晴子の「君が居なけりゃ」は名演。昭和6年からコロムビアに移り、ここでも橘川は二村のバックでいいtpを吹いている。「暁の唄」「スタインソング」あたりが代表的なところだろう。

太陽レコードの二村定一「恋人よかへりませ」は珍しくマイナーレーベルで仕事をした例。

二村定一・天野喜久代の「あほ空」「アラビヤの唄」には風間瀧一が加わっているが、さして際立つ演奏ではない。彼は慶応の学生バンド、レッド・エンド・ブリュー・クラブ・オーケストラの初期の録音、掲上の録音のほか「雨」「アディオス」などに加わっているが慶大生ではなく、新交響楽団のメンバーである。

このバンドの後期の録音では風間ではなく、斎藤広義などが入っている。斎藤は次に述べるカアイの録音にも加わっているから、学生バンドにとっては心強い存在であった。

法政の学生バンド、カアイジャズバンドには二種類のtpがいる。

一人は斎藤広義で豪放な音は後年まで変わらない。復刻された中では「大東京ジャズ」の「マイヱンゼル」や、コロムビアの「スウィング・タイム」の鈴木芳枝「別れても」(因みに戦後の二葉あき子による再録音は、小畑益男)、笠置シズ子の「喇叭と娘」ほか戦前録音に聴かれる。なお、彼はもともとクラシカル音楽の出身なので、近衞秀麿(指揮)新交響楽団のパーロホン、コロムビア録音に加わったものもある。

もう一人は南里文雄の先輩で、かすれた音がトレードマークの七条好。これが南里の先輩??という違いようだが、個性的だ。彼の音はニッポノホン、コロムビア録音にもビクター録音にもある。

ビクターは昭和ひと桁中ごろに日本ビクター管弦楽団を編成したとき、tpにロシア人のマルチェフを据えた。彼はニットーでもほぼ同時期に音を残しているが、昭和11年頃に恋愛事件を起こして国外追放されてしまった。

マルチェフがいなくなる頃、ビクターはより規模の大きいジャズ・オーケストラを編成し、古田弘をtpに入れた。彼は関西のタイヘイで二村定一の吹込みのバックバンド(タイヘイジャズバンド)に音が聴こえるのが早く、ビクターでは成熟したプレイを聴かせてくれる。古田のソロ録音の「セントルイス・ブルース」と川田義雄の「浪曲セントルイス・ブルース」を聴き比べると同じトランペットだ。

コロムビア・ジャズバンドは、初期の第一次編成では小畑光之が大活躍する。

彼はからっと垢抜けしているが、奔狂的に呻いたりシャウトしたりするディキシープレイヤーで、不思議と古臭さがまとわりつかない。僕は彼を転載だと思う。ビクターのラッカンサン・ジャズバンドを皮切りに藤山一郎の昭和6〜7年のコロムビア録音、ほぼ同時期のポリドールのジャズソング、それから例外的にテイチクでディック・ミネの「アイダ」にも彼の音が聴ける。

晩年はワンマンプレイで周りとまったく合わせなかったので仲間が困ったらしいが、全盛期から吹きまくる気はある。

小畑光之に似ていて注意が必要なのが、テイチク・ジャズ・オーケストラの第一期編成のtp(2nd)の杵築京一。彼も小畑風にひきずるような演奏をするが、小畑のシャウトするような破天荒プレイより小気味よくスタイリッシュに洗練されている。ディック・ミネの「意味ないよ」、川畑文子の「上海リル」を聴けばこの人も一発で覚えられるだろう。

コロムビア・ジャズバンドは昭和7年から9年ごろまで一時期、南里文雄を抱えたが、彼の音が確認できるディスクは少なく、川畑文子との録音などではごくまじめに2tpのアンサンブルに溶け込んでいる。ミッヂ・ウィリアムスとの「ダイナ」などはこの時期には珍しいソロだ。

南里・橘川の2tpのあと、小畑光之の弟の小畑益男が入る。彼は鋭い切り裂くようなプレイの内面にそれはそれは優しく熱いものを隠し持っている。なので触ったらほの暖かいが、その光源熱源は強烈である。

小畑の下に2ndで入る森山久は、小畑益男とは対称的な存在である。小畑は外面的に瑕のない正確無比な演奏だが、森山はフィーリングで本質をぐいと掴み出し、豊かな音で自在に歌う。伊達な雰囲気は彼のヴォーカルと同質である。

テイチクは杵築京一と同時期に南里文雄も入っている。南里は戦前ジャズメンではやはり別格で、彼のような崩し方をするtpは他にいないから、プレイヤー判別入門のお手本のような人だ。

ただ気質的に斎藤広義や、テイチクで杵築京一の後に入る伊藤恒久に似ているので注意が必要。特に伊藤は、南里と判別がつきにくいことがあるほど似ている。たとえばテイチク・ジャズ・オーケストラの「ダイナ」など、うっかり南里かと思ってしまうほど似ているパワフルなプレイだが、南里より男性的である。

テイチク・ジャズオーケストラはcl, 2sax, 2tp, tb, tub, g, ds, p, vlの10ピースで編成されていた。が、テイチクがディック・ミネを専属にする際、契約によってミネの伴奏をするときに限りディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダスの名を使うことになった。この楽団のパーソネルをミネが広い人脈を駆使して集めた事情もあるのだろう。

ところでミネは有名な「ダイナ」をはじめ、初期録音を「南里文雄とホット・ペッパース」のメンバーを核としたコンボとも録音しており、そちらも契約によってディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダス名義でリリースされた。それで揉めて、腹を立てた南里がテイチクと絶縁したエピソードは有名だ。

ミネと決別した南里はタイヘイに少なからぬ編曲を提供し、田中福夫の「シボネイ」など彼の加わった録音もそこそこある。

ポリドールは昭和8年に専属の日本ポリドール管弦楽団を組織して、けっこう長く谷口安彦をtpに使った。ユニバーサルの「スウィング・パラダイス」でいうと1枚目の藤田稔「散歩はいかゞ」から谷口率が高い。彼の鋭い、ブラスを感じさせる音は工藤進の厳しくリズムを刻むアレンジによく映え、カンザス・シティ風の効果を与えている。トロンボーンと束になってブラス隊として働くと、コロムビア・ジャズバンドよりも強力なベップをバンドに与えた(コロムビアはtpとtbが融合するほかは個々に動いている感じ)が、これは工藤のブラスの用い方が上手いためもあるだろう。

きわめて散漫かつ大雑把だが、トランペットは以上を指標とすれば聴きながら面白く芋づる式に見つけられるだろう。