ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

【戦前ジャズ辞典】トロンボーンの巻

戦前ジャズの楽しみ方、学び方として録音から聴き取れる各パートの主なプレイヤーについて述べはじめたが、ラッパ隊のトランペットから始めたことだから今度はトロンボーンについて纏めてみよう。

 その前に、大正期の二つの録音について述べておきたい。

日本のレコード録音の不思議なところは、「一体こんな企画を誰が思いついたんだろう?」という奇想天外な、或いは当時は注目されなかったかもしれないけれど現代の視点でキャッチーな録音の数々が残されている点である。ここに取りあげる二つの録音もそれぞれの意味で同時代の日本では稀有な録音で、大正期の洋楽の受け入れられようを何よりも雄弁に示している。

 大正14年(1925)5月新譜の「ゲーヂオフアーモアーアベヌ "Guage of Armour Avenue"」は日東管絃団の吹き込みで、この表記からは想像もつかないがディキシーランド•ジャズである。誤植を正せばこのナンバーはW.C.Handyの"The Gouge Of Armour Avenue"で、もちろんこの録音が日本初。前半にクラリネットのソロがあり、中間部ではリズムスに支えられてトロンボーンが長大なソロを吹いてクラに引き継ぐ。このときの日東管絃団のパーソネルは未詳だが、明らかに黒人系あるいはフィリピン系のプレイヤーによる、粘りのある演奏である。

 20世紀に入ってトロンボーンをフューチャーした音楽作品として、「ホットトロンボーン」が挙げられる。"Hot Tromborne"(1921)は、バンドリーダーで作曲家のヘンリー•フィルモア Henry Fillmore(1881-1956)がこの楽器に特化して作った連作「トロンボーン•ファミリー "Tromborne Family」の中の曲で、これがなんと1926年に、「東京グリーン管絃団」というバンドによって大阪のニットーレコードでレコード化されている。フィルモアラグタイムも作曲しているので、ジャズの前哨戦として挙げておこう。

 この東京グリーン管絃団というのはメンバー未詳だが、ソロのトロンボーンは大正期という時期を考慮すれば相当うまい。

 さて、昭和期のジャズ録音に含まれるトロンボーン奏者について、本題に入ろう。「日本のジャズ史 戦前戦後」の著者・内田晃一氏は、ジャズトロンボーンの第一号として、「ユニオン・チェリーランド・ダンス・オーケストラ」の録音を指して、生前の谷口又士が相沢秋光を挙げたことを記している。(別冊一億人の昭和史 日本のジャズ」) しかしこの録音のブラス隊はソロ箇所がない上、録音自体がたいへん聴き取りづらいので、演奏の全貌がはなはだ漠然としているのが残念だ。

 大正期からラジオに出演しているセミプロの「コスモポリタン•ノヴェルティー•オーケストラ」にトロンボーンが加わっており、なかなか良い働きをするのだが残念ながらパーソネル未詳。この楽団はそもそも主宰者とその兄弟、早稲田、慶応の学生から成るセミプロバンドなので、名のあるプレイヤーは加わっていない。

 その次に来るのが戦前派の名プレイヤーの一人、河野絢一である。

 河野は日本ビクター•ジャズバンドすなわち井田一郎のチェリー•ジャズバンドのメンバーで、二村定一と日本ビクター•ジャズバンドの主要な録音に参加した。「君恋し」ではトランペットと重ねて使われる程度だが、彼が本領を発揮するのは「ソーニヤ"Sonya"」や「昇る朝日 "The Sunrise"」のようなごく初期の二村=井田バンド録音で、ボコボコした逞しい音でtpやasに闊達に絡んでいる。これは、井田一郎のバンドと二村定一が浅草電気館のアトラクションで散々プレイしていたものをそのままスタジオで演っているからで、メモリーでばりばりプレイしている活気が伝わってくる。

河野は昭和8年、日本ポリドール管弦楽団が組織されるとそちらに入り、昭和10年代のスウィング時代を支えた。藤田稔(=灰田勝彦)の「散歩はいかゞ」あたりから数多くのジャズソング録音に参加している。ベティ•イナダの「バイバイブルース "Bye Bye Blues"」で演奏している日本ポリドール•ジャズ•シムフォニアンスという聞きなれない楽団のtbも河野だ。ポリドール時代の河野は夭逝したアレンジャー•工藤進や、長津義司、山田栄一、佐野鋤らのアレンジを吹いたが、井田時代と同様、tpと併せて使われることが多かった。もっとソロが多ければより評価の高いプレイヤーだろう。

蒲田行進曲 "Song of the Vagabonds"」の松竹ジャズバンドのトロンボーンも初期のジャズバンド録音では目立った活躍をするが、パーソネル未詳である。

 法政大学出身の兵頭良吉も昭和初期の記憶すべき名プレイヤーである。

彼のバンド経歴は、ラッカンサン・ジャズバンド→アーネスト・カアイ・ジャズバンド→赤坂溜池フロリダ・ダンスホールの「菊地滋彌とカレッジアンズ」と一流どころを渡り歩くもので、録音はラッカンサンとカアイで確認できる。大らかさな、器の大きさを感じさせるプレイだ。なお、「ラッカンサン(Luck & Sun)ジャズバンド」の名付け親はこの兵動である。

 録音はラッカンサンの「夢の人魚 "A Siren Dream"」「フー "Who"」「月夜の晩に "Get out and Get under the Moon"」「ハワイへ行こうよ "I'll Fly to Hawaii」「大学生活 "Collageate"」(いずれもビクター)など。

カアイ・ジャズバンドでは「アマング・マイ・スーヴニーア "Among My Souvenir"」「ウクレルベビー "Ukulele Baby"」「青春小唄」(二村定一 ビクター)、「愛の古巣 "I'm wingin Home"」(天野喜久代 コロムビア)など。因みにカアイバンドには異なるプレイヤーも混じっているので注意すべき。

 有名な谷口又士が頭角を現したのは昭和5年のことだった。

 谷口の最も古い録音はコロムビア•ジャズバンドの第一期編成時である。

  徳山たまき、澤智子「ブロードウェイメロディ "Broadway Melody"」

  徳山たまき、澤智子「ウェアリイ・リヴァア "Weakly river"」

  坂井透「とてもとても "That's You, Baby"」

  天野喜久代「淋しいみち "The Lonesome road"」(昭和5年5月新譜)

 以上に参加した演奏は、昭和5年当時、最高の出来栄えを記録している。

 紙恭輔昭和4年コロムビア・ジャズバンドを組織して間もなく、5年には渡米してしまうのだが、それまでに彼が指揮したこの4曲は、後を引き継いだ井田一郎の第二期編成時代にはない強烈な輝きがある。そこから、後年、昭和10年代に渋さと甘さを兼ね備えた谷口又士のまだ若々しく力強い音を発見するのは容易なことだろう。

 因みに「ブロードウェイメロディー」の一枚2面はtpが小畑光之、「とてもとても」の一枚2面は南里文雄のtpである。

 井田一郎が指揮した第二期コロムビア・ジャズバンドの初期、たとえば藤山一郎のアルバイト録音にも谷口又士の音の聴こえるものがある。(「恋のひと時」や「モダンじゃないが」など) 聴こえるものがある、というのは、この時期、大野時敏のトロンボーンコロムビア・ジャズバンドに入り交じっているからだ。それからいっときコロムビア・ジャズバンドを脱退するが、指揮者が渡邊良となる昭和7年にふたたびコロムビアに戻り、第三次編成の編成替えを経て、昭和11年まで所属する。

 おなじ昭和11年、大阪の地域レーベル、コッカに紙恭輔(指揮) P.C.L.ジャズバンドが吹き込んだ3枚6面に参加している。うち「ダイナ “Dinah”」「タイアドハンド “Tired Hand”」は谷口のソロが明瞭に聴き取れる。

 しかし彼の活躍で最も有名なのはビクター時代の録音であろう。

 昭和11年から日本ビクター・サロン・オーケストラ(あるいは日本ビクター・ジャズ・オーケストラとも日本ビクター・ジャズバンドとも)に加わり、ビクターのジャズソングの多くの録音にアレンジャー・トロンボーン奏者として参加している。岸井明をヴォーカルに迎えた「ねえ君次第 “I’m Follow You”」「察しておくれよ、君!”That’s You, Baby”」「唄の世の中 “Music goes ‘round and around”」「楽しい僕等 “Sitting on a Five Barred Gates” 」などはソロや目立つ演奏で必聴。

 また谷口がバンマスを務めていたP.C.L.ジャズバンドはコッカのほかビクターへも録音しているので、「スーちゃん “Sweet Sue, Just You”」「涙を拭いて “My Melancholy Baby”」で谷口のアレンジとソロがたっぷり聴かれる。

 ビクターのスウィングでは、ほかに豊島珠江の歌った「ブルースカイ “Blue Skies”」(谷口又士 arr.)も良い。

 日本ビクター・サロン・オーケストラは流行歌や戦時歌謡のインストも数多く残しているが、「桜ニッポン」、「越後獅子」、「春雨」、「一億の合唱」、「太平洋行進曲」、「戦友ぶし」、「日の丸行進曲」あたりを筆頭に、ソロパートを吹いたりアンサンブルで活躍したりしている。谷口の甘くかすれた音はトランペットと重なるとブラス隊に奥行きを生じさせ、厚みのあるスウィングになった。戦前派のトロンボーンではもっとも残された録音が多いプレイヤーといえよう。

 昭和5年にフロリダ・ダンスホールの招きで来日したウェイン・コールマン・ジャズバンドのトロンボーン、バスター・ジョンソン(1885-1960)-Theron E. "Buster" Johnson-も比較的多くの録音で聴けるプレイヤーだ。彼はヘンリー・ブッセ及びガス・ミューラーとの共作で”Wang Wang Blues”(1918-19)を作曲したことで知られる。このナンバーは1920年にポール・ホワイトマン・アンド・ヒズ・オーケストラによってレコード化され、ホワイトマンの初期のヒット盤となった。

 ウェイン・コールマンの楽団に加わっていた頃の、特にソロパートのある重要な録音は「大東京ジャズ」に収録した「あの子 “Sweet Jennie Lee”」や、「ユウウツ “St.Louis Blues”」(打越昇 vo)、「山の夜の恋心 “Moon is low”」(打越昇)、「別れませう “I’ll be blue, Just thinking You”」など。この楽団はポリドールにも録音しているが、そちらはリード主体のアレンジが多く、バスター・ジョンソンの音が確認できるのは「沙漠の隊商 “Desert Caravan”」などごく少量だ。

 ウェイン・コールマン・ジャズバンドの大半のプレイヤーが帰米したのちもバスター・ジョンソンは日本に留まり、「テイチク・ジャズ・オーケストラ」(この楽団は特に初期録音ではディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダスのクレジットも用いられた)のtbに加入した。ソロパートもこのテイチク録音のほうが飛躍的に多い。

 川畑文子の「上海リル “Shanghai Lil”」、「バイ・バイ・ブルース “Bye Bye Blues”」、「貴方とならば “I’m Following You”」、「月光値千金 “Get out and Get under the Moon”」、「アラビアの唄 “Sing Me a Song of Araby”」、愛のさゝやき “Wabash Blues”」「貴方に夢中 “You're driving me crazy! what did I do?”」「ティティナ “Titina”」と主だったジャズソングでB.ジョンソンの練達なtbが聴ける。

 ディック・ミネの「君いづこ “Somebody stole My Gal”」などからも確実に彼の枯淡な渋いプレイが聴けるのだが、ざっと聴いた感じではディック・ミネの録音には意外に加わっておらず、これはアレンジャーとしての三根徳一の好みかもしれない。

 たしかに彼の演奏は味はあったがヘビーハンド気味で若さを失っていることは否めない。同時代の日本の若いトロンボーン・プレイヤーの方が技巧的には上回っていただろう。B.ジョンソンの場合、あのポール・ホワイトマン楽団にいたという経歴や「ワンワン・ブルース」の作曲者という実績も物を言っただろうし、ベテランプレイヤーだっただけにテイチクではカメオ出演的な存在だったのかもしれない。

 インストものでは「ホワイトヒート」のソロが際立っている。しかし録音の多くはアンサンブルに埋没しているので、B.ジョンソンと別人とを聞き分ける必要がある。

 またおなじテイチク・ジャズ・オーケストラでも他のプレイヤーの場合があるので気をつけねばならない。

 その、他のプレイヤーその�@が、荒井恒治である。彼はディック・ミネのvoによる「ディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダス」の初期録音にのみ姿を現している。

 荒井は、「南里文雄とホットペッパース」の一員であった。その顔ぶれは次の通り。

西郷隆(as), 田沼恒雄(ts), 南里文雄(tp), 荒井恒治(tb), 藤井宏祐(b), 小沢進(ds), 神月春光(p),

 ディック・ミネホットペッパースのうち南里、田沼、神月をチョイスして、鈴木淑丈(‘cello), 泉君男(ds)を加えて「ダイナ “Dinah”」などを吹き込んだのだが、アレンジによっては荒井恒治のtbを加えた。テイチクの初期のジャズレコードはこの南里&ホットペッパース主体の「ディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダス」と、10ピースクラスの「テイチク・ジャズ・オーケストラ」が混在しているので、ことがややこしいのである。なお荒井は昭和10年代、自らスウィングバンドを組んで関東のダンスホールで活躍していた。

 他のプレイヤーその�Aは、昭和12年から「テイチク・ジャズ・オーケストラ」を率いた中澤寿士である。中澤のtbは昭和11年からディスクに現われている。

 中澤のtbは非常に闊達で技巧派。音も割れることがないから分かり易い。中澤アレンジによるチェリー・ミヤノのジャズソングあたりが初出で、徐々にディック・ミネのジャズソングやインストものにも演奏で加わっていった。テイチクのレコーディングオーケストラそのものが中澤寿士の楽団に切り替わった昭和12年には、完全に中澤=トロンボーンとなっていた。

 この辺りは個々のディスクを聴きながら判断していただきたいと思う。

 中澤寿士の初期録音はタイヘイにある。タイヘイのジャズソングやダンスレコードには、のちに東京で活躍するプレイヤーが何人か散見されるので意外に重要だ。

 さて、戦前派トロンボーンでも巨星と讃えられる存在は、谷口又士だけではない。ビクターに対するコロムビア・ジャズバンドの鶴田富士夫は、谷口とは正反対の性格を持つ、正確無比、且つ整った明快なプレイで覇を競った。

 彼のソロはいちいち挙げているときりがないほど多い。服部良一アレンジの「唄へ唄へ」(宮川はるみ)や「グディ・グディ」(川畑文子)など、ときに小畑益男のトランペットを摩する勢いの名演が多い。

 戦前派のトロンボーンの重要なところは、おおむねここに挙げたプレイヤーを覚えればこと足りるであろう。