ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

井上起久子part1

井上起久子(1892-??)

井上起久子は本名、井上増子(ます)。愛媛県新居浜市出身。

東京女子音楽学校を明治44年(1911)に卒業したが、一時期、東京音楽学校でも受講したようである。また、四谷で私塾をしていたアドルフォ・ザルコリにも師事して声楽を学んだ。その後、帝劇歌劇部に入り、ローシーに師事した。当事の声楽を志す生徒としては最高の教育を受けたということができよう。

帝劇歌劇部第一期生となったのは大正3年(1914)のことである。井上増布という名で加わっており、帝劇の舞台で修練を積んだ。オーケストラのスコアからパート譜を浄写したり、ピアノスコアからヴォーカルパートを書き写したりという下積みで忙しかったそうだが、それも正規の音楽教育と彼女の向上心から、大いに芸術の糧となったと思われる。

その後、ローシーが浅草でローヤル館を立ち上げていわゆる「浅草オペラ」の先駆時代が始まると、さっそく大正5年(1916)、オッフェンバッハの「天国と地獄」公演で、音楽院長オルフェウスという大役を振り当てられる。これは元来、テナーの役柄だが、主力男性歌手が不足していた浅草オペラではしばしばテナーの役柄やアリアが女性歌手に振られた。井上起久子の場合、それだけの実力を認められたのである。

ローヤル館では大正5年から7年にかけて、ルコック「アンゴー夫人の娘」(T5-11)、リッチ兄弟「クリスピーノと死神」(同12月)、ルコック「小公爵」(T6-1月)、オッフェンバッハ「ボッカチオ」(同4月)、オッフェンバッハ「ジェロルスティン大公妃」(同6月)、マスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」(同6月)、アイヒベルク「アルカンタラの医師」(同6月)、ヴェルディ「椿姫」(T7-2月)と大きな舞台で出番を得た。

この中では、特に原語による「カヴァレリア・ルスティカーナ」が日本洋楽史に残る上演であり、井上の名をも挙げた舞台であった。オペレッタに留まらず「カヴァレリア〜」や「椿姫」のようなグランドオペラを手掛けたことにより、彼女の芸域は幅を増したのである。

ローシーの一座が解散すると、いよいよ浅草オペラ時代の到来である。

井上起久子はローシー門下のスター、原信子の一座と行動を共にした。大正7年から9年にかけて清水金太郎一座との合同歌劇、歌舞劇協会、横浜の朝日座での上演などを経て、大正9年(1920)の根岸歌劇団に流れ込んだ。

このとき井上は一期下の天野喜久代と二人ならんで主力アルト歌手となり、田谷力三、安藤文子などなどのスターに伍した。金龍館を根城とする根岸歌劇団は比較的長期にわたって新作、旧作オペレッタの上演で人気を博した。

天野喜久代といい、井上起久子といい、浅草オペラ時代にアルトの声域で幅広い役柄をこなした歌手は昭和に入って、その表現力と個性で一躍、スターとなることができた。大正期にソプラノでスターの座を張っていた人々はやがて本格的なオペラの道を進むか、あるいは素質に左右されて消えていった。しかしアルトの彼女たちはのちにメゾソプラノかソプラノに転向していち早く新たな表現方法を身につけ、より新たな境地に進むことができたのである。浅草オペラのスター歌手、ソプラノの清水静子は声質はよかったが昭和期の新しいセンスについてゆけず失墜した一人である。

井上起久子は根岸歌劇団時代の間、大正10年夏〜秋の短期間だが、伊庭孝、佐々紅華らに引っ張られて奈良の生駒技芸学校に参加したりなどした。

大正12年関東大震災で同歌劇団が解散すると、歌劇団は集合離散を繰り返しながら凋落してゆくが、井上の活躍の舞台はレコードに移りはじめており、大正14年(1925)1月に根岸一座の後継団体と目される「五彩会」のグランドオペラカルメン」に出演したあたりで、浅草オペラでの活躍を終える。なお、この「カルメン」公演で駆け出しの二村定一と共演をしている。

さて、井上起久子のレコードデビューは、故森本敏克氏の記述によると、大正11年(1922)6月に京都のオリエントから発売された童謡であるらしい。ラベル上では本名の井上ます子と記されている。その後、何枚か童謡のレコードを作り、ニッポノホンで佐々紅華のプロデュースの下、お伽歌劇に数多く起用された。

この「大阪見物」は、ニッポノホンで作られた佐々紅華作の「東京見物」を模したお伽歌劇である。ヒコーキはニッポノホン(東京)の傘下にあるサブレーベル。「東京見物」は二村定一・井上起久子の吹き込みであるから、サブレーベルのヒコーキで「大阪見物」を作ったものと思われるが、メイン出演者が井上起久子なところがミソである。

佐々がレコード産業で重用したのは、高井ルビー、相良愛子、二村定一など個性豊かな歌手たちであった。ニットーでも同様に高井ルビー、堀田金星らとお伽歌劇のレコードを吹き込んだが、それらにも当然、佐々の息がかかっているものと思われる。

昭和に入ってからは、継続して多くのジャズソングを吹き込みながら、松竹楽劇部のレヴューの主題歌を歌った。そうして道頓堀松竹座を中心として、松竹系の舞台にも出演した。そのため、昭和初期に松竹楽劇部(のちに少女歌劇団)の声楽教師を長く勤めることとなった。

そのころのディスクに、浅草オペラ時代を濃厚に留める一枚がある。

昭和3年5月新譜の映画説明「ラ・ボエーム」(椿三郎=弁士, 敷島管絃団=伴奏)の第4面で彼女はプッチーニの歌劇「ラ・ボエーム "La Boheme"」より、終幕のミミのアリア"Sono andati?"の一部を日本語歌詞で歌っている。歌唱の抑揚は浅草オペラ歌手のそれであり、大正期、浅草オペラで演ぜられたグランドオペラがどのようなものであったかを知ることができるディスクである。

これは「ラ・ボエーム」吹き込み時の写真。

<つづく>