ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

マリア・バスカ  MARIA BASCA

先般、ビクター・エンタテインメント社より、かつて発売されていたCD「貴志康一自作自演集」が再発されたが、その折り、マリア・バスカ歌唱、貴志康一指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による歌曲の復刻がボーナスCDとしてオマケについた。これで、貴志が残した自作自演のすべてを聴くことができるようになった。 「貴志康一◎ベルリンフィル〜幻の自作自演集」 貴志康一 指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, マリア・バスカ(sop.) しかし如何せんボーナス盤なので歌曲と歌手についての解説がなく、おそらくこれらの自作自演によって初めてマリア・バスカの名を知る人には不案内であろうと考え、このエントリーを記した。 「マリア・バスカ Maria Basca に就いて」  貴志康一は日本をテーマとして、20曲内外の歌曲を作曲した。その多くは1932年から35年にかけてベルリンで完成・あるいは作曲し、そのほとんど全てがソプラノ歌手のマリア・バスカ Maria Basca によって創唱された。またバスカはオペレッタ"Namiko"の試演でもヒロイン役を歌っている。  自作の発表にあたって貴志が望んだのは、広い声域、ドラマチックな表現力と繊細さを持ち合わせた歌手であった。また、ヨーロッパと日本の音楽文化を架橋するという意味合いから、ドイツ人歌手を求めた。それらの条件に合致したのがバスカであった。バスカとの出会いにはまだ不明瞭な部分があるが、 1933年の秋から彼女が貴志の周辺に現われたのは間違いのないところである。そうして、バスカとの結びつきには、(貴志いわく)文筆家であったバスカの夫君が大きく作用しているようである。  それというのも、オペレッタ"Namiko"の脚本を手がけたのがバスカの夫シュレーダー・シュロムであり、これもまた貴志との接点がいまだ見出せないのだが、このシュレーダー・シュロムが舞台や映画で活躍していた同名の人物と同じ人間であれば、貴志とは演劇で結ばれた縁だったと推測することができる。(註 貴志は1931年にラインハルト演劇学校に学び、舞台芸術を学んだ。同学校は映画業界とも深いつながりがあり、貴志はラインハルト演劇学校での敬虔を通じて多くの演劇人、映画業界人と面識を得ていた。)また貴志はベルリンでアルバイトに新聞記事を書き、新聞記者にも何人か知人がいた。そのうちの一人がシュロムであった可能性もある。貴志の人脈はたいへん広範であったが、それは自ら欧米人のコミュニティーに飛び込んで得たものである。  ところで1920年代から30年代にかけてベルリンに留学した作曲家は、近衛秀麿にしても宮原禎二にしても、日本語の歌曲を現地の歌手に日本語で歌わせるという試みを行なっている。近衛秀麿1924年にフリーダ・ランゲンドルフ(アルト)を、宮原は1931年にヘントリック・ブロンゲースト(バス)を起用している。異文化との融合という点については貴志は彼らの後塵を拝しているのだが、現地の歌手を有効に用い、通りすがりの一東洋人ではなく音楽家として真の文化的融合を遂げるという点では、先行者を凌ぐ成績を残した。掛け声で始まるユニークで情熱的名歌曲「かもめ」は貴志がベルリンに来て最初に手がけた新作歌曲だが、苦心の末に完成してマリア・バスカに献呈された。また初期歌曲とは一線を画する芸術的な香気の高い歌曲「富士山」「つばくら」は、豊かな声と技巧を持つバスカの存在抜きでは生まれなかったであろう。  バスカを得たことで貴志の創作は新たな局面をむかえ、バスカもまた若い日本人音楽家に強いシンパシーを感じて協力を惜しまなかった。貴志は日本語歌詞の発音と意味を非常に根気よくバスカに指導し、バスカ自身の奥深い表現力によって最上の形で発表することができたのである。1933年から34年にかけてのコンサートに対する批評では貴志作品の新奇さとともにバスカの歌唱が称えられた。とりわけ34年3月29日の「日本の夕べ」と34年11月18日のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の日曜コンサートではバスカの歌う歌曲に観客からアンコールがかかり、数多くの批評でも手放しで賞賛される栄誉を受けた。貴志の最後の在ベルリン期間は二年弱に過ぎないが、その間の成長と成功はバスカとともに築いたといっても過言ではない。ベルリン・フィルへの登壇は、戦友ともいえる二人にとってクライマックスを形作る一瞬であり、その一瞬を留めたのが24曲にわたる貴志歌曲の録音なのである。  Rundfunk Zeitung, 18.Jan.1935 甲南学園貴志康一記念室所蔵。  マリア・バスカはドイツ人だが南欧とインド系の血を交えており、さらには詩聖と謳われるゲーテの末裔に当たる人である。19世紀の名歌手ガルシア・ヴィアルド Pauline Garcia-Viardot(1821-1910)に師事し、16歳のときベルリンでデビュー。はじめはアルト歌手であった。1920年代にソプラノに転向したが実質的にはメゾソプラノで、オペラアリアやドイツ歌曲を得意とした。ドイツ全域から英国、北欧にかけての広い地域で200回以上のソロコンサートを行なった。生没年は未詳だが、貴志より10歳ほど年上と思われる。  レコード録音は1926年、アルト時代にドイツの中堅レーベルHomocordにシューベルトやバッハが数面あり(うち2面は近衛秀麿の友人 Felix Robert Mendelssohn='celloが伴奏を行なっている)、1935年、貴志とともに録音した直後に5枚10面をテレフンケンに録音している。その内容はセミクラシック、ポピュラーソングが主で、スペイン民謡、黒人霊歌、ロシアの作曲家グレチャニノフの歌曲まで多彩である。うち1枚ミネトンカの湖畔にて, インディアン・ラヴコール)は日本テレフンケンからも発売された。  貴志=BPOとの一連の録音は、作品発表後、放送などで歌いこまれた成果であるから最上の条件である筈だ。ベルリン・フィルにみられる貴志のテンポ運びや精妙なセンスもさることながら、日本語の歌詩を深く理解し、東洋的な雰囲気を濃厚に漂わせながらダイナミックに表現したその歌唱は、今日でも貴志歌曲の解釈の規範たるを失わないであろう。  バスカは1936年からバタビア、インド、上海、日本、アメリカ、英国、北欧をめぐる世界演奏旅行を行なったが、その途次、1937年4月に来日した。一説によれば満州を取材する夫君との楽旅であったという。この来日時、リサイタルは行なわなかったが37年4月15日にラジオに出演して独唱を披露した。その前後、すでに病床にあった貴志康一をバスカは見舞い、ながい間語らっていった。貴志はまだ再起を信じており、「またベルリンに行きたい」と言ったと伝えられている。 ※当エントリーは「貴志康一の夕べ」(2007年10月1日 帝国ホテル大阪)のための原稿を基に再構成しました。