ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

二村定一の「枯れ枯れ」

「枯れ枯れ」(佐々紅華 作)  1926年11月新譜  伴奏は、フルート、クラリネット、トランペット、トロンボーン、ピアノ、ストリングス、という編成のニッポノホン・オーケストラ。  「枯れ枯れ」は中山晋平の「枯れすすき」や、「咲いた花なら」(江口夜詩=作曲 ニットー 1933年3月新譜)式のメロディーで、カップリングの「君恋し(高井ルビー)ともども実に陰鬱な唄である。26歳の二村にとっては音程が低いのか持て余しがちなものの、ヴィブラートをきかせて情感豊かに押し出しよく歌い上げている。  形式的には昭和期の流行歌といっても差し支えない質と内容だが、この時期、大正末期には「オーケストラ伴奏によるヨナ抜き旋律を声楽風に歌唱する」という形式を踏んだ「枯れすすき」や「籠の鳥」などのレコードが出現していたから、むしろ昭和流行歌のほうが最果て願望に根ざした古風なテーマを延々と追い続けたといった方がよいだろう。  話がちょっと脇に逸れるが、昭和初期の流行歌には大正期をひきずったものが少なくなかった。ことに佐々紅華は大正期の自作を流行に応じて衣替えし、レコード流行歌として再生産するオーソリティーであった。(註�@)佐々は自分の敷いたレールから外れることができなかったのである。  二村定一は1925年(大正14)から、佐々紅華作のいくつものお伽歌劇に混じって「流行小唄」「現代小唄」「新小唄」という名目で念願のソロのレコードを出しはじめた。これらは佐々がプロデュースしたものであり、浅草オペラ時代の終焉を見据えて行動し始めていた佐々が昭和期のジャズソング時代、流行歌時代へと向けて敷いたレールであった。もちろんジャズソングや流行歌の時代を佐々が予測していたというわけではないだろう、彼は新方式の大衆歌謡を作りだしたいと考えていたにすぎない。  この時期、すでに佐々は二村を主役とした一幕物のオペレッタや、のちのレヴュー時代を彷彿とさせる「赤坂フォーリー」を組織したりと試行錯誤を重ねている。佐々の敷いたレールに乗っかっていたのが二村定一というタレントであり、また二村定一でなくてはならなかった。清水金太郎や大須賀八郎など既存のスターは浅草オペラにべったりとくっつきすぎて佐々のフレキシブルな企画には即応できず、なによりも新しい時代に受け入れられる新しい表現力を必要としていたからである。  サーフェイスノイズに覆われたアコースティック録音を通しても明瞭に聞き取れる彼の発音と、キャラクターを表出できる発声は、帝劇洋劇部出身の歌手たちとは異なる方向性であった。あるいはこれは東京レコードや日本蓄音器商会でレコードプロデューサーとして辣腕を揮った佐々紅華の指導の賜物かもしれないが、二村定一の名前をメインとしたレコード群が作られる二年前の、歌劇団の一員としての録音でもその特性は際立っている。ほかにも柳田貞一や相良愛子、高井ルビー、岩間百合子など発音の明瞭な歌手はいたが、彼らとも一線を画してオペラの定型をはずした変容自在な二村のキャラクターは、佐々のめざす新しいタイプの流行唄やお伽歌劇にはなくてはならないものであった。  「枯れ枯れ」発売新譜月の月報には 「流行歌は皆さんにうんと唄つていたゞいてうんと流行させなければなりません、今月の君恋しや、枯れ枯れなぞは素敵に面白い歌詞で誰でも直ぐ唄へますから、どんどんはやらせて下さい、会社も負けずに後から後からどんどん変つたものを御披露します。」  と煽り文句が書かれている。ちなみにこの時点までに二村は数種類のポピュラーソングで、月報上ではおなじみの歌手として扱われている。レコードによって流行歌とスター歌手を産み出そうという佐々の意向が反映した文章であり、実際には「枯れ枯れ」はまったく人口に膾炙しなかったが、ご存知のとおり「君恋し」の方は時雨音羽の新しい歌詞によって1929年(昭和4)に爆発的にヒットすることとなる。(註�A)  「君恋し」は、佐々紅華というプランナーと二村定一という表現者の練り合わせと、それから井田一郎を狼煙とするジャズの台頭があって、ヒットするべくしてヒットした。それを踏まえて今ひとたび「枯れ枯れ」を聴くと、そのしたたるような声がすでに完成された二村のそれであることに気付かされる。独学にちかい二村定一の芸にみがきをかけて息の長い歌手に仕立て上げたのは、佐々紅華だといって過言ではないだろう。 註�@) 「春の宵」「モダン節」「チャキチャキ雀」「エン坂ホイ坂」「夜中の銀ブラ」などはいずれも大正期の自作を昭和になって焼き直した作品である。 註�A) 「君恋し」は関東大震災以前、東京蓄音器株式会社(東京レコード 以下東京蓄)ですでに二村によってレコード化されたという情報が戦前から流布しており(発信元は佐々自身のようだ)、おそらく同じ出典で戦後にも語り継がれた。しかし二村の浅草オペラでの立ち位置やレコード録音との関わりを考えると、いかに佐々の目に止まった存在とはいえ震災前にネーム出しをして独唱のレコードが作れた可能性は乏しいと言わざるを得ない。もちろん断定もできないが、少なくとも現在、東京蓄版「君恋し」が発売されたとする記録は無い。 ウィキペディアの「君恋し」の項目によると発売直後に震災により原盤が破損したというのだが、むしろ東京蓄は原盤が助かった方であり、ヒット盤はその後もプレスされ続けている。プレス用のマスター原盤が破損したとしてもその前の段階に作成されるマザー原盤はほかの原盤と共に助かった可能性の方が高いのではないだろうか? [追記]東京蓄の初期のレコード、たとえばフォノプレー協会の吹き込みやハタノ・オーケストラ、山下禎子「真白き富士の嶺」、関鑑子「君よ知るや南の国」などは同社の日本蓄音器商会への併合吸収(1925)を経て、昭和期までプレスされた。原盤が震災を逃れたためである。また震災前に録音されたものの市販は1926年(大15)となった久野久子の「月光ソナタ」も同様である。二村の東京蓄録音がもしあったのならば、フタムラ・ブーム君恋しヒットのさなかに再発売されていてしかるべきであると考える。