ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

二村定一のレコード 9

『東京見物』Nipponophone 16157 1926(大15)年6月新譜

歌詞カードと月報では『彌次郎喜多助 東京見物』と登場人物の名が小さく入っているがラベルでは『東京見物』とのみ記されている。

お伽歌劇のレコードではすっかり常連となった佐々紅華の作並びに指導で、このレコードでは二村定一(彌次郎)に井上起久子(喜多助)が共演している。

佐々はニッポノホンで企画や楽曲の作詞作曲だけでなく録音時のディレクターもこなしていたので、(作並指導)という表記になっている。後にこの表記は分かりにくいということになったのか、昭和期のニッポノホン目録では(伴奏 佐々紅華)(佐々紅華 作並指揮)という書き方に改められている。

田圃の帰りにひょっこり逢った彌次郎と喜多八が意気投合して東京見物に出る、というお話で、東京で丸ビルが丸くないのに驚いたり、帝劇の観劇切符を値切ろうとしたり、二重橋で遥拝ついでに賽銭をお堀に投げ込んだり(以上A面)、という定形通りの田舎者描写をこれでもかとばかり投入している。こうした大東京賛美・地方卑下というスタイルは、大正期の当時はともかく地方都市がそれなりに発達している今日では成立しづらいだろう。

B面でも汁粉が高いとこぼしたり、サンドイッチ三十銭を「サンドイッショで三十銭なら一度で十銭」とボケたり、銀座の喧騒にとまどったりなどしている。銀座松屋の屋上から(おそらく望遠鏡で)浅草観音を眺めて、最後に浅草で映画館に入る展開は巧みだ。映画の中で泥棒が家に忍び込むシーンを見て彌次郎が「泥棒泥棒」とさわぐ。腹の減った彌次郎が最後まで食べ物にありつけず「アー腹減ったあ」のひと言でお終い。

月報では、

お伽歌劇の名作者佐々さんの筆になる「東京見物」と云ふのは飄逸の田舎者二人を引張り出して大東京の文化施設に魂の宙返りをさせると云ふ滑稽至極の物語り、起久ちやんと二村君が大車輪となり本場裸足のダンベー言葉を使つて天晴れ山家のオッさんとなりすまし皆様のお臍の宿替をさせやうの魂胆、合ひ間合ひ間は軽快なオーケストラが流れるやうに織り込まれております。

と紹介されている。

ここで特に注意を喚起していることからも分かるように、『東京見物』ではオーケストレーションがひとつの見せどころで、音楽描写に大きな意味を持たせたお伽歌劇である。私事だが、このレコードは筆者が聴いた最初のお伽歌劇だった。そのサウンドが豊富で全編に流れるように響いていることに耳を奪われた。1980年代でさえそうなのだから、1926年当時にはこの豊富な旋律と凝ったサウンドは画期的だったと考えられる。

事実、このレコードを境にお伽歌劇の伴奏は音楽的に豊かに変化している。佐々自身『東京見物』の作曲は気に入っていたらしく、ほかのレコードにも引用している。日比谷公園のシーンの旋律をそのまま流行小唄『女心』に転用しているのである。

録音時のニッポノホンオーケストラの編成は、ピッコロ、フルート、コルネットトロンボーンテューバ、弦楽(ヴァイオリン、チェロ、ベース)、ピアノ、というもので、自動車や路面電車の擬音が加わっている。銀座の交差点で音楽を背景に「彌次さんヤア」「オヽ喜多助どん」と呼び合って命からがら横断するシーンで、二村定一が吹込みラッパの遠くから叫んで距離感を表現しているのは、当時のレコーディング・テクニックとして注目点だ。(ちなみに二村は電気録音となってからもビクターの『ヴォルガの船歌』で、遠くから近づいてくる歌声を表現している)

このお伽歌劇も大正末期のお子たちには喜んで迎え入れられたようで版を重ねた。