本場のジャズのフィーリングを日本に伝えたのは、レコードと、それから大正期にしばしば来日した、海外のジャズバンドであった。
初期の来日ジャズバンドは、日系移民の多かった関係からか、カリフォルニアやハワイから来ている。日本のジャズメンに多大な影響を与えたアーネスト・カアイは従来、1927年(昭和2)に初来日したことになっているが、大正期にすでに来日してニッポノホンにレコードを残していっている。
1922年(大正11)に来日した加州(カリフォルニア)大学グリークラブは、"The Sheik""Everybody Step"など3枚のダンスレコードをニッポノホンに録音していった。これらは同年7月新譜で発売されたが、日本における海外バンドの商業録音のはじまりといえるものであった。
いま筆者の手元にあるレコードでもっとも古い来日バンドは、1924年(大正13)にハワイから来日したローヤル・ジャズバンドのニットー盤である。このレコードには「チンチャン」という曲と、「ハハイの海岸を追って」というハワイアンナンバーが収められている。
この「チンチャン」が曲者である。
原曲名は"Ching Chow"といい、その音の響きから察せられるように、中国風のイメージで作られたワンステップの古いダンス曲である。こうしたオリエンタル趣味のダンス曲は十九世紀末から二十世紀初頭に、おびただしく作られた。たとえばダンス曲の"Ching"、レヴューの"Chin Chin"などが1910年代のアメリカでヒットしたし、おなじくレヴュー(今日のミュージカル)の「朱昭金」は映画化もされた。
"Ching Chow"もそんなオリエンタリズム迎合音楽のひとつとして作られたように思われるが、実際にレコードを聴いてみると、その印象は東洋風というよりは、ロシア系ジプシー音楽の香りが濃厚である。
ローヤルジャズバンドの演奏は、ドラムスのスネア(小太鼓)がリズムを刻む上に、コルネット、サックスが乗っかってメインテーマを吹き、クラリネットがメリスマを利かせて絡み合うという、やはり中国風というよりはクレツマー風の要素を持っている。 日本でクレツマー音楽 Klezmer musik の情趣が認識され、愛好されるのははるか戦後、ワールドミュージックが流行するようになった1970年代、80年代以降のことであるから、これは日本上陸したクレツマーの貴重な記録ということもできよう。
この曲は、のちに形を変えて日本人に愛好されることとなった。
エノケンの歌を聴いたことがある人は、彼がLP時代にステレオで吹き込んだナンバーに「ラブ草紙」という歌があったことを覚えているにちがいない。また、その「ラブ草紙」が、1931年、榎本健一と二村定一が二人座長を組んで「プペ・ダンサント」を旗揚げした初期のヒットメロディー、二人掛け合いの漫唱「エロ草紙」であったことを知っている人もあるかもしれない。この「エロ草紙」(内山惚十郎作詞、井田一郎編曲)の原曲が、"Ching Chow"であった。
榎本健一と二村定一が1931年、コロムビアに録音した「エロ草紙」には、クラリネットをメインとしたはずむような伴奏がつけられている。もっともクレツマーらしさは片鱗も見られず、演奏よりは歌唱を楽しむレコードだが、大正期に来日したローヤルジャズバンドの影響が思わぬところに花開いた一例である。