ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

松竹ジャズバンド「ハレルヤ」

1928年9月5日録音, 同12月新譜 今日でもスタンダードナンバーとして演奏される機会の多い名曲、ユーマンス Vincent Youmansの「ハレルヤ」”Hallerujah!”は1927年にミュージカル"Hit the Deck"の中で歌われてたちまちヒットしたナンバーだが、早くも翌1928年には日本でも楽譜、レコードによって紹介されている。 日本人プレーヤーによるレコードはニットーの28年11月新譜、次いで12月新譜としてニッポノホンからリリースされた当盤がもっとも早い。ニットー盤は天野喜久代の歌唱に立教大学のハッピー・ナイン・ジャズバンド、ニッポノホン盤は天野喜久代と二村定一の歌唱に東京ユーナイテッド・ジャズバンドという競作となっている。東京ユーナイテッド・ジャズバンドはこの時期のニッポノホンにのみ現われる名称で、井田一郎が指揮する松竹ジャズバンドがその実体である。(註�@) ただしニットー盤とニッポノホン盤ではアレンジが異なり、演奏も学生バンドのハッピー・ナインとプロの松竹ジャズバンドでは力量に差があるのが当然で、ジャズブームにあった当時はともかく今日の耳で聴くとその差は歴然としている。井田一郎の松竹ジャズバンドはスピード感にあふれ、技術も(昭和初期としては)確かで、メンバー全員がジャズをいきいきと心から楽しんでいるさまが窺われる。 日本のジャズ・アレンジャーのさきがけとして名高い井田一郎は大正末期、関西で活動していたが、1928年(昭和3)になってユニオン・ダンスホールで率いていた「チェリーランド・ダンスオーケストラ」から五名(註�A)を選抜して上京。三越百貨店のアトラクションで脚光を浴びて松竹にスカウトされ、浅草電気館はじめ松竹系の劇場・映画館で「松竹ジャズバンド」としてアトラクションをおこなった。このとき外国風にバンド演奏にヴォーカルを入れようということになり招かれたのが二村定一である。二村の都合がつかない場合は天野喜久代が呼ばれ、28年から翌年にかけて浅草電気館をメインステージに演奏した。 その間、28年6月にバンマスの井田を除く五名がバンド方針に不満を抱いて脱退した。井田は電気館の週代わりプログラムに合わせて一週間の休みをもらい、その間に新しいバンドを編成しなければならなかった。 松竹ジャズバンドの新メンバーは 高見友祥(sax,cl.), リノ・フランカプロ(カプロとも。sax), 南里文雄(trumpet), 飯山茂雄(drums), 関真次(piano), 井田一郎(banjo) で、引き続き電気館のアトラクションに出演したほか、レコード録音もこのメンバーで開始した。しかし南里が二ヵ月後に飛び出し、飯山、リノ、関もほどなくして去って、バンドの顔ぶれは次のようになった。 高見友祥(sax,cl.), 橘川正(trumpet), 河野研一(tronborne), 泉君男(drums), 加藤辰男(piano), 井田一郎(banjo) 最後の顔ぶれは主としてビクターの数多くの録音でお目にかかることができる。 「ハレルヤ」のレコーディングは、ちょうど南里がバンドを飛び出す前後に行なわれた。音を聴く限りでは橘川のトランペットとは思えず、豪快で野放図な奏法、イントネーションが南里のペットを思わせる。サックスもアルトとテナーが聴き取れるので、サックス陣に高見とフランカプロを擁した第二次編成の可能性がある。 テイクはすくなくとも3回録られ、ファーストテイクと第三テイクの存在が確認されている。ファーストテイクはさすがに押し出しと勢いがよく、多少のアラも気にならない力強いスピード感がある。第三テイクは各パートがやや控えめになってソロを引き立たせ、メリハリが効いている。形は整っているが、なんとなく小ぶりな演奏になった感がなくもない。ちなみにテイク別の演奏時間は一秒と違わない。アルトやペットのアドリブも寸分違わない。その演奏精度は素晴らしい。 (註�@) 同じ東京ユーナイテッド名義でリリースされた「テルミー」のみレッド・エンド・ホワイト・ジャズバンドが実体とされるが、これまた実在したのか疑わしいバンドである。 (註�A)蘆田満(sax), 小畑光之(trumpet), 谷口又士(tromborne), 平茂夫(piano),加藤一男(drums)