ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

湯山光三郎と東京ユーナイテッド・ジャズバンド

コメントで質問を頂いたので、その返答も兼ねて纏めてみたい。 「テルミー」”Tell Me”  堀内敬三訳詞、Max Kortlander作曲  1928年4月11日録音、1929年1月新譜  マックス・コートランダーが1919年に発表したノヴェルティーソング(滑稽味のある流行歌)で、Joseph C. Smith and his Orchestraのビクター盤がミリオンセラーを記録した。わが国でも大正末期からダンスホールやカフェーでジャズバンドが演奏して好評を博していたナンバーで、バンマス時代の服部良一がこの唄を英語で歌ってダンサーから「テルミーさん」と呼ばれた、というエピソードが自伝に述べられている。  セノオ楽譜から堀内敬三の訳詞で出版されたのをいち早く二村定一が気に入り、ソロ活動をはじめていた1925年にヴァース付きでニッポノホンに吹き込んだ(1925年11月新譜)が、のちに録音し直した当ディスクが折からのジャズソングブームに乗って大ヒットした。因みに二度目の録音ではヴァースは省かれ、独唱だったものが天野喜久代とのデュエットとなっている。  東京ユーナイテッド・ジャズバンドの編成は アルトサックス、トランペット、ユーフォニウム、ドラムス(ボンゴ)、ピアノ、ヴァイオリン、スライド笛とモッコク(蛙の擬音)  というジョセフ・C・スミス楽団を多分に意識したノヴェルティー様式である。リズミカルなボンゴ、気まぐれなサックス、スライド笛(当時、ジャズ笛と称した)やギーロのように擦って蛙の鳴き声を出すモッコクが散りばめられていて、まことに楽しい。  天野が一コーラス歌い、二村が同じ歌詞をなぞって三回目はふたり仲良く共唱というパターン。天野も二村もやや愁いをふくんだ明朗な声で表情豊かに歌い上げている。二村・天野の吹込みは歌詞が明瞭である点、同時期の声楽家系の歌ったジャズソングと一線を画しており、「テルミー」もたいへんよく売れた。現在でもしばしば見かけるディスクであり、よく見るということは傑作ということだ。  ラベルを見れば分かるとおり、このディスクには歌手名が記入されておらず、「東京ユーナイテッド ジャズ、バンド」とのみ記されている。しかし現在手に入る覆刻CD「日本のジャズソング〜戦前篇・創生期のジャズ〜」(BRIDGE-066)や、この基となったコロムビアのLPでは歌手名が天野喜久代、湯山光三郎となっており、湯山光三郎の声が二村定一と同じだというので混乱をきたしている。故大川晴夫氏の「日本のジャズ・ソングは二村定一から」レコード・コレクターズにはこのディスクは記述されておらず、最初に文章で指摘したのは色川武大の「アラビアの唄」(「唄えば天国ジャズソング」ミュージック・マガジン社)かと思われる。  では天野喜久代、湯山光三郎という名前がどこから来たかというと、これは日本コロムビアに現存する録音台帳にそう記されているのを、各覆刻盤が踏襲しているのである。  ジャズソングに関する録音記録はBRIDGE社のCD「日本のジャズソング〜戦前篇・スウィングする二世歌手と戦中かくれジャズの軽音楽〜」の解説書に併載されているので見ることができるが、当該の録音は1929年4月11日に行われた旨、記されている。ただし台帳ではバンド名が「レッド・エンド・ホワイト・ジャズバンド」となっているが、発売時に東京ユーナイテッド・ジャズバンドに変更された旨、注記されている。このバンド名の違いについては後に述べよう。  録音台帳に記された湯山光三郎(1900-80)東京音楽学校出身のテナー歌手で、同い年の二村定一とともに舞台に立ったりなどしていた。山田耕筰に師事した関係で山田作品を1928年、ちょうど同じ頃ニッポノホンに録音している。ごく一般的に考えうるのは、当初「テルミー」の吹込みを湯山光三郎がする予定だったが何らかの事情で録音に来られなくなり、代わりに二村定一が歌ったということだろう。二村は過去に一度おなじ曲を吹き込んだ経験があり、そうでなくとも楽譜初見のきく歌手なので、このような急場では都合がよい。  しかし違う考え方もできる。実はもともと天野喜久代と二村定一のスタジオ入りが決まっていたが、この年ジャズシンガーとして快進撃をはじめた二村の吹き込み予定がゆらぎ、一度は湯山光三郎に変更されたものの、結局は二村が時間をこしらえてスタジオ入りした、という仮説である。  僕がそう考えるのは、日本歌曲やオペラを専門とする湯山にとって「テルミー」や同日録音の外国映画主題歌は明らかに場違いの観があり、反対に二村は「テルミー」をレコード録音前も録音後もレパートリーに加えているからである。湯山は1930年から新民謡や流行歌の作曲・吹込みを頻繁に行なっているが、それにしてもジャズソングからやや遠い位置にある歌手であったことは否めない。  この予定外のごたつきが手違いを生んだか、あるいは正しい歌手名を確認できないままラベル作成に至ったため、「テルミー」には歌手名が記載されなかったのではないだろうか。(註�@)ただしニッポノホンの1930年度総目録や月報類ではすでに「天野喜久代・二村定一」とネームが記載されており、レーベル側ではリリース後のフォローにつとめたことが判る。  ちなみに片面の「宵待草」は天野喜久代の名前がきちんと記載されている。こちらはフルート、テナーサックス、ユーフォニウム、ピアノという編成で、文字通りただの伴奏として演奏されている。  次に「東京ユーナイテッド・ジャズバンド」であるが、こちらの事情はもう少し入り組んでいる。そもそもこのバンドは実在せず、単なるレコードネームである。録音台帳の以下の録音にこのバンド名が冠されている。 11th.Apr.1928  天野喜久代、湯山光三郎 レッド・エンド・ホワイト・ジャズバンド第七天国の唄」”Diane” 「四人の息子の唄」”Little Mother” 「テルミー」”Tell Me” 「宵待草」 5th.Sept.1928  井田一郎指揮、松竹ジャズバンド 二村定一、天野喜久代 「ハレルヤ」”Hallerujah”バルセロナ”Barcelona” 「磯節」(この録音のみ井田一郎指揮 松竹ジャズバンド名義でリリース。)  すなわち、おなじ「東京ユーナイテッド・ジャズバンド」には「レッド・エンド・ホワイト・ジャズバンド」と、井田一郎の指揮する「松竹ジャズバンド」が混在しているわけである。  井田一郎の松竹ジャズバンドについて少し述べよう。  「ハレルヤ」「バルセロナ」ともに サックス2、トランペット、バンジョー、ドラムス、ピアノ、ヴァイオリン  という編成である。井田一郎のチェリー・ジャズバンド(松竹系劇場に出演する際は松竹ジャズバンドと名乗った)はこの年(1928年)の春に 蘆田満(サックス)、小畑光之(トランペット)、谷口又士(トロンボーン)、加藤一男(ドラムス)、平茂夫(ピアノ)  という五名の仲間と上京してジャズブームに着火したのだが、バンドが成功して間もない7月、メンバー四名が脱退して、新しい顔ぶれとなっていた。 高見友祥(アルト)、リノ・フランカプロ(テナー)、南里文雄(トランペット)、飯山茂雄(ドラムス)、関真次(ピアノ)  「バルセロナ」「ハレルヤ」が録音されたのは、この第二次編成の末期のようだ。アルトは高見友祥、テナーはリノ・フランカプロ(らしい)。ドラムスは他の録音サンプルから、飯山茂雄と推測される。トランペットは第二次編成の南里文雄にしては弛緩した演奏であるし、ましてや特徴的な橘川正では決してない。(註�A)総合すると、ペットが南里文雄か否か曖昧だが、これはサックス二本を備えた第二次編成のチェリー・ジャズバンドということになる。たいへん勢いのあるホットな演奏で、第三次編成よりも奔放なディキシー演奏が聴かれる。これは大阪時代の井田たちの演奏に通ずる強烈な刻印なのである。  ここでさかのぼって「テルミー」のプレイヤーはどうかというと、トランペットは「バルセロナ」「ハレルヤ」とおなじ人物。景気のいいドラムスも飯山茂雄である。また「宵待草」のテナーサックスも同一人物がまたがっている。レッド・エンド・ホワイト・ジャズバンドには井田一郎の息がかかっていると見てよさそうだ。ここで想像をめぐらすと、「レッド・エンド・ホワイト」というのは紅白である。紅白とくればめでたいもの繋がりで松竹に対応する。したがって井田一郎の松竹ジャズバンドからプレイヤーをピックアップした別働隊ではないかという仮説に辿り着く。  ではなぜどちらの録音も「東京ユーナイテッド・ジャズバンド」と名乗ったか。  井田の第二次編成も、まもなく南里が抜け、飯山茂雄とリノ・フランカプロが抜けて崩れてしまった。そこで高見友祥のみ残して第三次編成が組まれた。(註�B) 高見友祥(サックス)、橘川正(トランペット)、河野研一(トロンボーン)、泉君男(ドラムス)、加藤辰男(ピアノ)  という腕きき揃いで、彼らによってビクター録音とポリドールの初期の録音が行なわれた。  「東京ユーナイテッド・ジャズバンド」と銘打たれたディスクはおそらく第二次編成の末期に録音され(トランペットが南里ではない説明もつく)、発売時にはすでにチェリー・ジャズバンドが第三次編成となってビクターやポリドールに録音していたため、いくら悠長な昭和初期でもレーベル側が旧名でのリリースを躊躇したのであろう。トランペットなど欠員の出たパートに外部から応援プレイヤーを加えたのがユーナイテッドUnitedの由来ではないかと考える。  以上、いささかコアな内容となったが質問への返答とともに、以前より気になっていた点を纏めてみた。 註�@ 二村のディスクで「アラビアの唄」「あほ空」、「新訳ワ゛レンチヤ」にも歌手名が記載されていないではないか、という指摘があるかもしれない。しかしこれらはヴォーカルよりバンド演奏に主眼が置かれた時代のなごりとして説明することができる。(「ニッポン・スウィングタイム」連載内で述べているので参照されたい)  また「他社(ビクター)との契約上、二村定一という名前を出せなかったのではないか」という説もあるかもしれないが、先に録音を行なったニッポノホンが他社に配慮する必要はなく、ネーム無記載のディスクの前後にはばっちり二村の名が刷られている。ただしこのような創生期的事情とは別に、契約上の問題でネームを隠したディスクもある。 註�A 過去の記事http://navy.ap.teacup.com/zero/62.htmlで南里文雄という説を提示したが、どうも南里とは言い切れない没個性なプレイなので保留する。 註�B 僕の別のサイトhttp://www.geocities.jp/nipp17734/ida.htmでは第二次のままになっているが誤りなので訂正する。(リンク先の情報を訂正しました。16日21時)