ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

大正昭和の来日バンド�U

大正末期にはフィリピン人のバンドが何組も来日して、日本のジャズシーンに大きな影響を与えているのだが、いったい何組のバンドが来日したのか、それぞれのバンドがどのような顔ぶれであったのかは、まだ全貌が掴みがたい。

彼らは、震災前から日本に起こっていたダンス熱と、震災後に関西に移ったダンスブームに乗じて来日し、昭和初期まで本場ものに近いジャズのフィーリングを、日本人プレイヤーに伝えた。

1925年(大正14)7月新譜としてニットーレコードから発売された次のレコードは、"NITTO JASS BAND"と名乗っているが、おそらくこのころ日本にいたフィリピン系のバンドが吹き込んだものと思われる。

"Walla Walla"  

"My Carton Girl"

ラベル面のJAZZの表記が、JASSとなっているのに注目。ジャズは初期には綴りが一定せず、ときにJASSと記されることもあったが、それが1925年となっても残っていた珍しい例である。

バンドの編成は、トランペット、2サックス、トロンボーン、ピアノ、ドラムスというところで、ディキシーランドスタイルのジャズをやっている。前半は軽い序奏と英語のヴォーカルで、後半、トロンボーンのフェイクを挟んでアップテンポとなり、トランペットのリードにサックスとトロンボーンが絡むホットな演奏となる。

なお裏面は「ミネトンカの湖畔」が原曲のワルツで、こちらも確かな腕で美しく演奏されている。

1927年(昭和2)に来日した(※)カールトン・ジャズバンドは、松竹が上海から招いた、六人組のフィリピン人バンドであった。その顔ぶれは、

ジャン・カディス pf.、エステーヴァン・アランブロ vn.、ホッシェ・トレイシュ banjo、イェロー・マリアノ 1st.sax.、ポニー・ファッショ 2nd.sax.、エイト・サンジャン drums

というもので、この規模のコンボには珍しくトランペットやコルネットがいない。あるいはサックスの持ち替えでトランペットを吹いたのかもしれない。その代わり、上記のニットージャズバンドよりも個性豊かな面々がそろっている。

彼らは1927年(昭和2)夏、関西の松竹系映画館、劇場のアトラクションに出演した。そのさい、ニットーレコードに3枚6面のレコードを残している。

バレンシア」"Valencia" / 「チチナ」"Titina" NITTO 2585

「テルミー」"Tell Me" /「カラバン」"Karavan" NITTO 2656

「フー」"Who?" /「バルセロナ」"Barcelona"  NITTO 2670

演奏は純然たるディキシーランドジャズのスタイルで、ドラムスとバンジョーが刻むフォックストロットのリズムに乗って、軽妙に賑やかに繰り広げられる。

たとえば「テルミー」は歌のフレーズが8回繰り返されるが、そのなかで2サックス&バンジョーバンジョーのソロ、2サックスとバンジョーに軽くヴァイオリンがかぶさる、バンジョーをしたがえたヴァイオリンソロ…というふうにさまざまなバリエーションで楽器が組み合わせられている。フレーズの合いの手に派手なパーカッションが入り、楽器の組み合わせが変わる。ドラムスはあまり暴れていないが、各ナンバーをからしのように引き締めるパーカッションで、存在感を示している。

「カラバン」は銅鑼の音とリズム陣のゆったりしたリズム、サックスのソロで始まり、アルゼンチンタンゴともジプシーヴァイオリンともつかぬ癖のあるヴァイオリンソロでフレーズが奏でられたあと、パーカッションの合図でアレグロに変じてホットな演奏になる。このへんはジャンゴ・ラインハルトステファン・グラッペリのフランス・ホット五重奏団の演奏でも聴くようである。

いずれの曲もバンジョーとヴァイオリンのソロがフューチャーされており、本場ものらしい雰囲気をかもし出している。サキソフォンはたいがい2サックスで絡み合っているが、ときにはソロを披露する。

6人がさまざまな見せ所を披露したあと、ヴォーカルが入る。ヴォーカルの部分はピアノ以外は楽器を休んでコーラスになるのである。

レコード発売時の記事では「その歌詞が覚えられるといふのも非常な好評である」(ニットータイムス 1927年9月号)とセールスポイントが強調されているが、実際に聴くとフィリピン訛りの強い英語で、しかもモゴモゴと歌っているので不明瞭きわまりない。これでは歌詞は覚えられない。ヴォーカルのあと、ステージの実働バンドらしく全合奏でひと騒ぎして締め。

松竹系列でのアトラクションのあと、バンドは道頓堀のカフェー、美人座で演奏していたようだ。その後バンドは上海へ帰っていったが、一団の中でサックスプレイヤーのイェロー・マリアノは日本にとどまり、マリアノ・マウラインという名前で長い期間、ジャズプレイヤーとして活躍した。1936年頃から40年のダンスホール全国閉鎖まで、国華ダンスホールの「中村憲一とナイン・スターズ」で1st.saxを吹いていたが、その後の消息は未詳である。

瀬川昌久氏の著書によると、カールトン・ジャズバンドは1923年(大正12)、関東大震災の直後に松竹が日本に招いたという。しかし1927年当時のニットータイムスには「今度本場の上海からカールトン・ジャズバンドが来たので」とあり、記述に食い違いをみせている。