ニッポン・スヰングタイム

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『浅草行進曲』史

承前『道頓堀行進曲』史 - ニッポン・スヰングタイム

 

2. 浅草行進曲

 さて、次に『道頓堀行進曲』が生んだもう一つのヒット曲、『浅草行進曲』について述べたい。

 

 『浅草行進曲』は、関西の松竹座での幕間劇『道頓堀行進曲』の評判に目をつけた松竹が映画化に踏み出したもので、1928年4月7日に浅草電気館で蒲田映画『浅草行進曲』が封切られた。監督・脚本・原作は野村芳亭、出演者は人気女優の松井千枝子、藤野秀夫、武田春郎、三田英児、という顔ぶれである。当時はサイレント映画であるから主題歌は入らないが、この映画に合わせて6月新譜で発売された2枚組の映画劇レコード『浅草行進曲』(松井千枝子、三田英児、静田錦波=説明)に主題歌が入った。その主題歌が、日比繁次郎の『道頓堀行進曲』歌詞を畑耕一が改作した『浅草行進曲である。』畑耕一は小説家・文学者で、当時は明治大学教授であった。畑は1924年に松竹キネマ研究所の所長に就任しているので、主題歌をものしたのはその縁からであろう。

 畑耕一は流行歌の作詞に当たっては多蛾谷素一(耕一をたがやす+いちに分解した)ペンネームを用いたが昭和初期のレコードは作詞作曲者をラベル上に明記しないことが多く、意外なようだが多蛾谷素一の名がラベル上に見られるのは、これも大ヒットしたコロムビア流行歌『ザッツ O.K.』(1930年9月新譜)と他に一、にある程度である。

 なお、この蒲田映画『浅草行進曲』の中の浅草ロケシーンをそっくり道頓堀のロケシーンに替えたフィルム『道頓堀行進曲』が、三ヶ月後の7月14日に封切られた。当然ながら出演者は同じである。時系列で見ると、①幕間劇『道頓堀行進曲』→②『道頓堀行進曲』レコード→③映画『浅草行進曲』→④『浅草行進曲』→⑤映画『道頓堀行進曲』という順序で道頓堀に回帰しており、少しややこしい。

 

 映画劇に続いて、ニッポノホン(日本蓄音器商会)のサブレーベルであるヒコーキが『カフェー小唄 浅草行進曲』(木村時子 1928年6月新譜)、『カフェー小唄 浅草行進曲』(石田一松 1928年7月臨時発売)を立て続けに発売した。浅草行進曲は畑耕一の作詞、塩尻精八は松竹専属の作曲家・指揮者でレコード的にはフリーランスという理屈で、日本蓄音器商会でも関連レコードを作りはじめた訳である。前者は浅草オペラのスターであった木村時子がストーリー仕立ての両面で芝居を交えて歌っている。後者は歌唱のみであるが、この石田一松のレコードがまず大ヒットした。

 

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 これに負けじと大阪資本のニットーからも二村定一・天野喜久代の歌唱、ハッピー・ナイン・ジャズバンドによる『浅草行進曲』(1928年10月新譜)が登場した。ニットーは翌月11月新譜でも寺井金春による『千日前行進曲 浅草行進曲』をリリースした。

 前者は東京録音、後者は大阪録音で、ちょうどビクターからも『アラビアの唄』などを出して人気急上昇中であった二村定一の歌う前者がたいへんよく売れた。ハッピー・ナイン・ジャズバンドは立教大学の学生バンドでディック・ミネ(ドラムス)も創立時に加わっていたが、この録音時にはすでに居なかったようである。この録音時の編成はCメロサックス(?)、2テナーサックス、トランペット、トロンボーンバンジョー、ドラムス、ピアノ。一コーラスごとにブリッジで繰り返し演奏を挿入して、じっくり聴かせる構成である。この頃のニットーはライツのカーボンマイクなのでサウンドの奥行きに乏しいが、コーラスごとに若干編成を変えた凝ったアレンジを学生バンドががんばって演奏しているのがよく伝わる。最高に脂が乗っている時期の二村定一と天野喜久代コンビなのでヴォーカルも息が合っており、ノンシャランで楽しい雰囲気を醸している。

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 日本蓄音器商会の大阪文芸部であったオリエントも、『カフヱー行進曲』(山村豊子 1928年10月新譜)、『流行新小唄 藝者行進曲』(南地・金龍 1928年11月新譜)と、替え歌を発売した。このあたりになるともはや原曲が道頓堀なのか浅草なのかも判然としないが、『カフヱー行進曲』で〽恋の灯ジャズの音渦巻くなかに白いエプロンどう染まる あたしゃカフェーの愛の花よ、と歌う歌詞は明らかに『浅草行進曲』からの派生である。

 本物のカフェー女給が歌ったヒコーキ『銀座行進曲』(カフエータイガー よう子・すみ子 1929年5月新譜)もタイトルは異なるが『浅草行進曲』の替え歌で、極めて下手な歌唱のなかにプロの流行歌手では出すことのできない水商売の雰囲気が漂っている。

 ところで『道頓堀行進曲』と『浅草行進曲』の分類であるが、歌詞に明瞭に現われることが多いほか、『浅草行進曲』には共通した前奏がついているので、それと分かる。ここに挙げた替え歌もほぼ全てに共通した前奏が備わっている。

 

 浅草が舞台ということからか『浅草行進曲』の人気は東京で沸騰し、それは東京に集中するレコード会社にも影響を及ぼした。

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 1929年正月新譜でニッポノホンからリリースされた『松竹映画 説明レヴュー』(静田錦波 松竹和洋合奏団)、『流行歌ポッポリー』(島田晴譽=指揮 松竹和洋合奏団)には共に『浅草行進曲』が含まれている。島田晴譽が楽長を務める松竹管絃楽団/松竹和洋合奏団は約20名の楽士で映画の伴奏を行なうほか、幕間の休憩音楽を演奏した。島田は折々の流行曲をポッポリー(メドレー)形式に編んで休憩音楽で発表し、観客の好評を集めた。この録音では、2フルート、クラリネットコルネットトロンボーンテューバ、弦四部(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ベース)、三味線、締太鼓、鉦という大規模な編成が採られ、A面では「浅草行進曲」〜「月は無情」〜「アラビヤの唄」が、B面では「籠の鳥」〜「モガモボソング」〜「モン巴里」〜「浅草行進曲」が演奏されている。この楽団は1928年から松竹が招聘した井田一郎のチェリー・ジャズバンド(松竹下では松竹ジャズバンド/電気館ジャズバンドと呼称)とたいへん折合いが悪く、ジャズとの明確な区分けを意識したのかサックス属の楽器を全く用いなかった。

 

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 ジャズでは『アラビアの唄、浅草行進曲』(アーネスト・カアイ=スティールギター、ディ・フェルナンデス=ギター 1929年3月新譜)がニッポノホンとコロムビアから同時発売された。カアイは1927年にハワイから来日したギターの名手で、ギターに限らず多数の楽器をマスターしており、日本のジャズ界に大きな影響を与えた。ここではウッド・スティール・ギターで軽快にスウィングしている。

 さらに1930年に至っても『ポッポリー 映画流行小唄集』(川崎豊・曽我直子 島田晴譽=指揮 松竹管絃楽団)のなかで曽我直子が歌っている(映画流行小唄集は17626と17709の2種あり、浅草行進曲は後から出た17709のポッポリーに含まれる)。

 

 

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 『道頓堀行進曲』『浅草堀行進曲』のメロディーは、そのあまりの流行から直接関係のないレコードにも余波を及ぼしている。その一つは淡谷のり子の初期のレコード『夜の東京』(加奈木隆司=作詞、井田一郎=作・編曲 淡谷のり子 井田一郎=指揮 日本ポリドール・ジャズバンド 1930年4月新譜)の間奏で、ここにちゃっかりと「東京行進曲」(中山晋平=作曲)と並べて引用されている。このときは「夜の東京」がテーマだから、引用されたのは必然的に『浅草行進曲』ということになるだろう。ちなみに「東京行進曲」は井田一郎がビクターで初めて編曲した作品であり、「浅草行進曲」の塩尻精八は井田が大阪で松竹座ジャズバンドを組んで舞台に出ていた時代に松竹座の音楽を司っていたので、両方とも縁がないわけではない。

 大ヒット曲『女給の唄』(西條八十=作詞、塩尻精八=作曲 羽衣歌子=歌 日本ビクター管絃楽団 1931年1月新譜)は作曲者が塩尻精八なので堂々と後奏に自作のメロディーを用いている。この歌の原作である広津和郎『女給』は銀座のカフェー・タイガーを舞台としているから浅草でも道頓堀でもないが、夜の盛り場の印象的記号としてこのメロディーを当て嵌めたのであろう。

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 最後にとどめを刺すかのように1932年に『タンゴ 浅草行進曲(道頓堀行進曲)』(東京フロリダ・ダンスホール 巴里ムーラン・ルージュ楽員 1932年8月新譜)が発売された。1932年、東京の赤坂溜池にあったダンスホール「フロリダ」に招聘されて来日していた巴里ムーラン・ルージュ楽員の4名による録音である。この楽団はフロリダでの演奏も評判が高かったがレコード人気も高く、第一次編成(4名)、第二次編成(5名)、モーリス・デュフールのアコーディオン独奏含めて総計160面余の録音を残した。この録音は第一次編成で、シャール・パクナデル(ヴァイオリン)、モーリス・デュフォール(アコーディオン)、ジャン・ジェラール(ギター)、ガストン・トーマ(ドラムス)の4名が和やかに演奏している。

 このときは歌詞が無いので道頓堀行進曲にも花を持たせたかたちだが、かくして道頓堀行進曲と浅草行進曲は仲良くラベル上に並んだのであった。 (続)