ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

二村定一のレコード 番外

二村定一の録音をゆっくり吟味している途中だが、ここで二村定一にちなむレコードを取り上げるついでに、民謡のジャズ化についてまとめてみたい。

先ごろ戦前の民謡アレンジを『ダンスリヨウ』と銘打ってCD化した(ぐらもくらぶ G10037)。今回は、そのダンスリヨウに少々関わるディスクである。

民謡(戦前は俚謡と呼んだ)の洋楽化は大正期に盛んになるが、昭和期になってジャズやルンバと結びついたことで、レコード界に一ジャンルを築くまでに流行した。固定した呼称はなく、レコードによって「ダンス小唄」「ダンス俚謡」「ダンスミュージック」「俚謡ジャズ」などと表記された。ダンスリヨウのあらましについては上記CDのブックレットに解説したので参照していただければ幸いである。

民謡と洋楽の出会いは明治期のことである。調和楽の名で民謡や俗曲がピアノ、ヴァイオリンの独奏曲に仕立てられたほか、和洋合奏の形をとることが多かった。大正期の俚謡オーケストラ化は、はじめは「安来節」をクラリネットソロでなぞる程度の瀬踏みからはじまった。

これはその初期のレコード。ラベルが読みづらいが、1923(大正12)年、「チョンキナ」「お江戸日本橋」などを力松(唄)、コルネット、ホルン、2クラリネット、ピッコロ、トロンボーンで伴奏したこの小唄レコードは、民謡俗曲を洋楽で伴奏した最初期の録音である。

もう一枚はニットーが「初の画期的試み」と喧伝した、クラリネットによる「安来節」が挿入された映画説明レコード「さすらひの姉妹」(花井三昌=説明 1924)である。このような民謡を洋楽器に移し替える試みは、映画の奏楽や軍楽隊の公園奏楽、ラジオやレコードによって洋楽が一般市民の生活に浸透する過程で、試行錯誤を重ねながら徐々に定着してゆくこととなる。

民謡・俗謡の洋楽化に大きく影響したものにダンス文化の流入もあげられる。大正期後半から隆盛をきわめた社交ダンスは、海外曲とともに日本民謡や俗謡のアレンジも演奏された。服部良一は、ダンスホールのほか、カフェーや自身の所属した「いづも屋音楽隊」の母体であるうなぎ屋でも日本人の耳に馴染んだ民謡や俗謡が演奏されていたことが述べられている。こうして日本人は大正末期までに、自国の民謡俗謡を(まだ形ばかりの水準とはいえ)フォックス・トロットのダンス音楽にアレンジするまで成長した。

民謡のダンス音楽化が長足の進歩を遂げたのは、昭和期になってからであった。それは、大阪のダンスホールでダンスバンドを率いてジャズアレンジに開眼した井田一郎が東京に進出したとき始まった。

1928年、井田一郎と、彼が大阪から引き連れてきたチェリー・ジャズバンドは浅草の電気館に出演し、幕間のアトラクションとしてジャズ演奏をはじめた。このとき歌手として二村定一が起用された。この電気館アトラクションは至って好評で、二村定一がボーカルを添えた民謡ジャズがたちまち流行した。

折から二村はラジオで放送した「アラビヤの唄」が評判となっていた時期なので、電気館でも「アラビヤの唄」が井田バンドの演奏とともに歌われ、井田一郎のジャズバンドの白熱したグルーヴも相まってジャズブームに火をつけたのであった。すなわち1920年代末の日本のジャズブームを解剖すると、一半は海外のナンバーの日本語歌唱にあり、一半は民謡ジャズにあったのである。インストゥルメンタルのジャズを楽しむほど日本人の耳はまだ洋楽の複雑なハーモニーについていけず、圧倒的多数のモダン人士はジャズをまず「新奇な拍子に乗って歌うもの」として認識したのであった。そのような状況であったとき、日本土着の民謡がフォックス・トロットやブルースにアレンジされたのは、ごく自然な成り行きであったといえよう。

ダンス音楽として演奏されていたジャズは電気館のアトラクションや、それ以前から始まっていたラジオによって、いちはやく「聴くための音楽」への路を歩んでいた。フォックス・トロットだブルースだストンプだといいながらも、アレンジの用途は必ずしもダンス用ではなかったわけで、その意味で井田一郎の「木曽節」や「安来節」は矛盾をはらんでいる。しかし民謡ジャズがダンスホールから生まれたのは間違いないことであり、民謡ジャズのアトラクションやレコードへの進出は、大局からみてダンス文化の延長線上にあるといってよいだろう。

電気館アトラクションにまず目をつけたのはニッポノホン(日本蓄音器商会)であった。ニッポノホンはすでに二村定一をスタジオに迎えて

「ワ゛レンチヤ」(2月25日録音)

「アラビヤの唄」「あほ空」(3月10日録音)、

「雨」「アディオス」(3月19日録音)

をレコード化していた。

その流れで、電気館ジャズが浅草で話題になっていた夏に民謡ジャズを4曲レコーディングしたのである。

1928年7月12日、井田一郎(指揮)松竹ジャズバンドの演奏で録音されたのは「木曽節」(二村定一の歌唱)「ストヽン節」(二村定一と天野喜久代の歌唱)「安来節」「小原節」(以上、岩田定子の歌唱)である。

すこし離れて9月5日にも「磯節」(岩田定子)が録音された。[註 ちなみに9月5日には「バルセロナ」「ハレルヤ」も録音している。]

そうして、少しややこしいのだが、「木曽節」「ストヽン節」はコロムビアで、「安来節」「磯節」はニッポノホンのブランドで1928年11月新譜として発売された。

 

コロムビアの「木曽節」の楽器編成は2サックス、トランペット、トロンボーンテューババンジョー、ドラムス、ヴァイオリン。9月13日にはビクターでもほぼ同じ編成の日本ビクター・ジャズバンド(テューバがピアノに替わっている)で録音された。松竹ジャズバンドは、井田一郎が大阪から連れてきたチェリー・ジャズバンドが電気館に出演する際の名称で、ビクターに録音するときはそのまま日本ビクター・ジヤズバンドと名乗った。したがってメンバーもほぼ同じと考えられるが、後発のビクター録音はニッポノホン盤と比較して華美なアレンジであり、勢いも桁違いにいい。民謡ジャズがアトラクションでレパートリーとして定着してゆく間にショーアップしていった変化が読み取れる。

 

おなじく1928年7月12日録音の「ストヽン節」。こちらも9月13日にビクターで再録音された。ビクター盤は二村定一が一人で歌っている。

このテイクの編成は「木曽節」に同じだが、ニッポノホン録音はサックス(高見友祥)のソロの見せ場がある。録音の違いもあるが、コロムビアのテイクはビクターよりアップテンポで、ややそっけない感じがするのはやはり電気館アトラクションでの初期形なのだろう。この2曲、レコードとしての条件は後発のビクターが恵まれていたといえそうである。もっともコロムビア版は、二村定一と天野喜久代のデュエットが聴けるという強みがあるが。

次いで井田一郎指揮、松竹ジャズバンドによるもう2面のテイクを取り上げるが、これらは以前はコロムビアのジャズソングディスコグラフィと故大川晴夫氏が二村定一の録音として記事に挙げていたテイクである。

あるいは予定では二村定一が歌うはずだったのでは?という考え方もできるが、筆者はおそらくそうではないと考える(後述)。

安来節

ラベル上の表記は井田一郎(指揮) 松竹ジャズバンドであるが、編成はサックス、トランペット、トロンボーンテューバ、ヴァイオリン、三味線、太鼓、という和洋合奏である。ジャズバンドといっているものの、和洋合奏ではやりづらそうで、アレンジもこなれていない。ブリッジで高見友祥のサックス(Cメロディー・サックスか?)が悠々と長くソロを取っているのが特徴的だ。

歌手の岩田定子は俚謡歌手で、ティピカルな民謡のレコードも吹き込んでいる。民謡ジャズのレコードで正調の民謡歌手を起用することは、昭和初期の当時は新たな試みであったが、やがて民謡の伴奏の洋楽化、民謡そのものの流行歌化へとつながってゆく。地方民謡の変容に対する反動として正調民謡を保存しようという動きも戦前からすでに現われるのであるが、それはまた別の文脈で語られることもあろう。

「磯節」

1928年9月5日に録音されたが、発売時は7月12日録音の「安来節」とカップリングされた。

のちに二村定一が異なる歌詞を用いてビクターで「新磯節」(1928年10月5日録音)として録音する。

和洋合奏の編成だが、ブリッジに楽器のチェーサーによる聴きどころが作られている点はジャズバンド編曲のビクター録音と共通する。ただしニッポノホンはトロンボーンとトランペットであるのが、ビクターではアルトサックス(高見)とトロンボーンになっている。このテイクも「ストトン」同様、ニッポノホン盤よりゆったりとしたテンポで丁寧にねっとりと演奏されている。

同じ日にジャズバンドにアレンジされた「木曽節」「ストヽン節」を録音しているから、「安来節」「磯節」の三味線、太鼓、囃子入りのアレンジは、岩田定子のために用意されたものである可能性が高い。電気館ジャズで飛ぶ鳥を落とす勢いを得ていた二村定一と井田一郎がこのタイミングで和洋合奏の俚謡ジャズを目指す意味はさして無いからだ。日本蓄音器商会は、株主である外資系のコロムビア二村定一を、旧来のニッポノホンで岩田定子を別々に売ろうと目論んだのに違いなく、これら2枚のディスクは1928年11月新譜として同時にリリースされた。

この2面の和洋合奏ジャズは、二村とのセッションほどグルーヴに富んでいるわけではないが、異質な音楽の融合という点では耳に刺激を与える。

民謡ジャズの行き方として、民謡を完全洋楽化するアレンジとは別に、和の要素と洋の要素をマリアージュするアレンジも行なわれた。CD『ダンスリヨウ』に収録したテイクでは、〆の家〆太の「かっぽれ」がちょうど同じ方向性であるが、井田一郎=松竹ジャズバンドの方がさすがプロのジャズバンドらしく、和洋の折り合いをうまくつけている。

コロムビア・ジャズバンドが1928年12月10日に録音した「夏すぎれば」「かなしやサリー」は、本来ならば海外のナンバーのカバーであったはずであるが、どういう手違いか、内容が「デッカンショ」などの和洋合奏ジャズになってしまっている。たいへんなミステークであるが、そのまま市販されたレコードは君塚篁陵(薩摩琵琶)が加わる和洋合奏とジャズバンドの溶け合わない融合がまことにエモいサウンドを生み出している。