ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

「歌へ若人」のサウンド

1. 主人公は歌手

10月15日にリリースされたぐらもくらぶの歌へ若人 東海林太郎 1934-1948に関連して、補遺のようなものを記したい。といっても自分が述べるのは主人公の東海林太郎のほうではなく、その伴奏の方である。収録曲の個々については小針侑起氏の簡にして要を得た解説に委ねたい。

 ここでまず特筆しておきたいのは、流行歌の主人公は歌手だという点である。伴奏はその歌唱を引き立てる裏方の存在でしかない。

 戦前、昭和10年代前後はすでに音楽の大量消費時代であった。レコーディングスタジオでのレコード録音は流れ作業であり、レコード会社各社の専属オーケストラは、流行歌の伴奏をそつなく淡々とこなすのが仕事であった。とはいっても各社のレコーディングオーケストラはジャズソング編成をベースとして編まれていたので、ジャズソングや楽器のソロが入るテイクはジャズメンのエモい演奏を聴くことができる。筆者が戦前ジャズ研究でさまざまなレコードの編成を録音から聞き分けられたのも、ジャズメンの演奏のクセがジャズ系レコードでは際立っているからである。

 ところが流行歌は逆に目立たないことが命題となっていた。特に効果的な指定のないかぎり、流行歌のレコードで目立つのはよくない。いわゆるなつメロのサウンドで戦前の録音がそっけないと感じることがあるとすれば、それは常に一定の水準を要求される、音楽的感情とは無縁の職能的・流れ作業的伴奏だからだ。ときどき耳に馴染みのある音が去来して「このフルートは岡村雅雄だ」「ギターはまた角田孝だな」「トランペットはニコライ・マルチェフ」などと判別がつく程度である。南里文雄などは昭和10年代にはカメオ出演くらいのインパクトがある。こういった一掴みのプレイヤーを例外として伴奏用のレコーディングオーケストラは、レーベルカラーとなるアンサンブルを個性をなるべく殺してみんなで作り上げていたのである。

 昭和初期、ジャズソング時代はバックバンドの演奏も一つの聴かせどころであったが、昭和6、7年から江口夜詩、古賀政男らを筆頭に流行歌が確立し、それと同時にプレイヤーの顔が出ないレコーディングオーケストラが必要とされたのであった。昭和10年代にはコロムビアは内幸町の東拓ビルにあるAスタジオとBスタジオを連日フルに稼働して、テイチクは杉並の広大なスタジオで4つも5つもテイクを取りながら、流行歌を日々大量生産していた。

 

2. ポリドールの立ち位置

 このように既に音楽が流れ作業化していた昭和10年前後、例外的に日本独自の発展を遂げたのが日本ポリドール管弦楽団である。すなわちポリドールの流行歌はほかのレーベルとは異なる「何か」を感じられた。それは作曲陣、編曲陣もあるが、作家陣も含めてポリドールの生み出すサウンドに大きく負っている。コロムビア、ビクター、テイチク、キング、タイヘイのレコーディングオーケストラはいずれも10〜12ピースのジャズ・オーケストラを基本として、20名ほどで編成されている。ストリングスを強化し、管楽器を増やし、リズムは減らすという具合で、特にコロムビアやビクターの流行歌は平均的なサウンドで統一された。和風の作品の場合に三味線や尺八を入れた和洋合奏になる程度である。いわば、洋風のサウンドを基調としていたといえよう。

 それに対してポリドール管弦楽団はバンドからジャズ色を払拭して、各楽器の員数は少ないが楽器の種類が豊富な編成であった。他社のようにサックスやブラス、ストリングスの合奏で押し流すのではなく、個々の演奏者の顔が見える編成である。その結果として、歌手に寄り添うようなきめ細かい伴奏が可能となったのである。これを端的に言えば他社の「機能美」に対するポリドールの「用の美」と表現することができよう。

 

3. 日本ポリドール管弦楽団の変遷

 「歌へ若人」の解説ではインパクトの強烈だった「国境の町」を取り上げてポリドール・サウンドの一例を描写してみたが、手元に来た音源はいちおう全て編成を書き出し、特徴を書き留めてみた。最もエモーショナル(感情的)なテイクをひとつ挙げろといわれたら、「ジプシイの月」を選ぶだろう。

 「ジプシイの月」はクラリネット、ギター、ベース、ドラム、ヴァイオリン、ピアノという編成。ギター、ベース、ドラム、ピアノはリズム陣で、メロディーはクラリネット(佐野鋤)とヴァイオリン(前田璣)の独壇場だから、いやでもエモくなるわけである。

 「月夜の港」はフルート、オーボエクラリネット、ギター、スティールギター、マンドリン、ヴァイオリンという編成。このテイクは撥弦楽器が三種も用いられ、夏の夜のメロンのような甘くメロウな雰囲気を表現している。このテイク(1935年8月新譜)あたりを境として、ポリドール管弦楽団オーボエマンドリンの効果に開眼する。

 収録曲の「歌へ若人」(cl, bjo, vn, p)、「丘の微風」(2sax, tp, tb, bjo, b, vn)、「ジプシイの月」はまだ初期ポリドールのジャズバンド編成を保っているが、「国境の月」からレーベル独自のサウンドの模索がはじまる。

 「国境の町」はfl, ob, fg, tp, tb, bjo, b, tub, ds, vn, 鈴という編成。このへんからファゴットを音の背景に流す手法が現われる。このアレンジについては解説書にも書いたが、東海林太郎の歌唱の背景に曠野が広がる絵画的なサウンドである。ここでのファゴットの効果は大きい。「旅笠道中」(fl, cl, fug, mdn, sg, b, 尺八, 柝, カスタネット)も歌唱に寄り添うファゴットが隠し味となっている。

 1936年7月新譜「雨の夜船」(fl, cl, acc, b, vn, ‘cello, ts)のあたりからポリドール管はアコーディオンを導入する。アコーディオンはこのあと、大いにポリドール流行歌で活躍することとなる。オーケストラと和洋合奏で終始する他社のオーケストラに対して、ポリドールはアコーディオンマンドリンオーボエファゴットといった楽器が多用され、色彩を豊かにしている。いわば軽音楽的なサウンド作りをしているといえるのだが、反面、インストゥルメントのみの企画は弱体化し、ダンスレコードではコロムビアやキングに大きく水を開けられた。

 

 ちょっとここで日本ポリドール管弦楽団のメンバー変遷をたどってみよう。

1932年9月に元軍楽隊帳の辻順次を楽長として7名で結成された。そのメンバーは以下の通り。

高麗貞雄(fl)、佐野鋤(sax, cl)、谷口安彦(tp)、後藤純(bjo)、小島一雄(b)、山本清一(=山田栄一か。 p, acc)、前田璣(vn)。必要に応じて泉君男(ds)なども加わった。

 1935年に改編が行なわれ、高麗(fl)、佐野(sax, cl)、谷口(tp)、小島(b)、前田(vn)はそのままだがバンジョー細田定雄になり、ピアノに菊地博が、ドラムに栗原進次が加わる。ポリドール管弦楽団キングレコードの伴奏を請け負っていたのだが、キングが新会社として独立するにあたって自前の楽団を持つことになったため、ポリドールの編成にも余波が及んだのである。

 翌1936年にふたたび大きな改編があった。

高麗(fl)、佐野(sax, cl)、谷口(tp)、小島(b)、前田(vn)は据え置きで、鈴木福二郎(sax)、河野絢一(tb)、小暮正雄(acc)、高勇吉(‘cello)が加入した。それから、ピアノの菊地博は米山正夫に、ドラムの栗原進次は大島喜一となる。

 このうち鈴木(sax)と河野(tb)はポリドール管が結成される以前、井田一郎ジャズバンドがポリドールで録音する際にレコーディングに加わっていた。河野のトロンボーンはポリドール流行歌でも特徴的でいい味を出すこととなる。

 1938年、ヴァイオリンに山口郁雄、松本信三が加わり、楽団は13名にふくれあがる。この頃には前田璣はヴァイオリンから指揮者に転じていたようだ。

 1940年、またまたバンド改編があり、高麗貞雄(fl)、佐野鋤(sax)、宮越篤俊(sax)、谷口安彦(tp)、小島一雄(b)、大島喜一(ds)、山口郁雄(vn)、高勇吉(’cello)、小暮正雄(acc)の9名編成となった。

 以上の基本的な編成に、ファゴット木管などのトラ(応援楽士)が外部から加わったようだ。当時、ポリドールでは元新響の高麗貞雄やタンゴバンドのリーダー宗知康が楽士の差配を行なっており、クラシック音楽とポピュラー音楽の垣根を超えたメンバーが集まってきた。コロムビアでは宮田清蔵や斎藤秀雄が楽士の差配を行なったというが、面白いのは新交響楽団が1931年のコロナ事件で分裂し、その粛清派(新響に残った方)はコロムビア、脱退派はポリドールに集まったという点だ。こうした人間の動き、楽士間の勢力図は表面上は見えないが、各レーベルのサウンド作りの根幹に影響しているのである。

 

4. 名月赤城山のアナリーゼ

 これまで述べたようにポリドール流行歌のアレンジは独自のカラーを持っていたのだが、とりわけ凝ったアレンジが施されているのが「名月赤城山」である。菊地博の作・編曲は東海林太郎の歌唱に呼応して細かく表情づけがされており、ここに描かれている心情をみごとにサウンドに変換している。歌唱とオーケストラが有機的に結びついており、互いに効果を高めあう仕掛けになっているのだ。

 以下、歌詞(矢島寵児, PD)を一節ずつ引用しながらバックサウンドを紐解いてみよう。

 日本ポリドール管弦楽団の編成は2フルート、クラリネットオーボエファゴット、ギター、ベース、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、アコーディオン、ピアノ、三味線、尺八、鈴、柝、ハンドベル

 

 イントロはクラリネット、尺八、ギター、ベース、アコーディオン、ヴァイオリンのピツィカート、三味線。ファゴットで歌に入る。このあと、3番までファゴットの合図で歌に入るのは共通している。また、1番ではフレーズをヴァイオリンとヴィオラが優雅につないでいる。
「男ごゝろに男が惚れて」→オーボエファゴットで掛け合い。イントロから入っていた三味線はこのフレーズで消える。
「息が融け合う赤城山」→アコーディオンの通奏。ここからは三味線の代わりに弦楽のピツィカートが入る。
「澄んだ夜空のまんまる月に」→オーボエの通奏。前半にのみファゴットが薄く入り、満月をかすめて去る薄雲を思わせる。
「浮世横笛 誰れが吹く」→頭に一瞬ファゴットが現われるがフルート、後半クラリネットに受け継がれる。最後にハンドベルが入る。ここも冒頭のファゴットが心乱れるような効果を醸している。

 

 間奏は前半が尺八、三味線、ギター、後半はストリングスとアコーディオンが受け持っている。

 

 2番はフレーズの間をオーボエ、2フルートがつないでいる。2番全体を通して三味線が入るのが特徴。
「意地の筋金 度胸のよさも」→チェロの通奏。つなぎはオーボエ
「いつか落ち目の三度笠」→チェロの通奏が続く。ここまでチェロなのは雌伏している心象か。なお、ここからフレーズ間のつなぎは2フルートとなる。
「云われまいぞえ やくざの果と」→アコーディオンの通奏。前半にファゴットがうすくかぶる。ファゴットの響きは心の乱れ。
「悟る草鞋に散る落葉」→コルネットヴァイオリンにフルートが絡む。ハンドベルで締め。2番を通して地味で、耐え忍ぶような雰囲気のサウンドだ。

 

 間奏は前半、尺八、三味線、ベースと柝、後半はファゴット、ギター、ピアノ、ストリングス。

 

 3番は三味線の代わりに絃のピツィカートが全編に入る。フレーズごとにストリングスが入るのは1番と同じだが3番は高く調弦されていて、格調高いのが特徴。孤高の心象を表しているのだろう。
「渡る雁がね乱れて啼いて」→オーボエクラリネットで分担。
「明日は何処の塒やら」→オーボエファゴットで分担。オーボエは飛びゆく雁のテーマに充てられているようだ。ファゴットはここでも不安の象徴として機能している。
「心しみじみ吹く横笛に」→頭にファゴットが入るが、すぐにコルネットヴァイオリン→尺八が歌を取る。横笛ではない。ここがこの歌一番のクライマックスと感じさせる凝ったアレンジで、「心しみじみ」という歌詞とは裏腹に乱れる心を表現しているように筆者には思われる。
「またも騒ぐか夜半の風」→ベース、フルート、薄いストリングスに消え行くピツィカート。歌の最後にハンドベルが入るのが不思議だったが、この最後のベルの澄んだ音で荒涼とした涼しさが描かれるのだ。


 後奏はフルート、ベース、三味線、ギター、尺八の順で楽器が退場してゆき、最後はピアノで締められる。

 

 この歌ではコルネットヴァイオリンやクラリネット、ピアノなどほんの僅かしか登場しない楽器もぜいたくに散らしてある。しかし最後のピアノの一音はこの歌の凛とした格調高さを保つとともに、僅かな希望を垣間見せている。前奏・間奏やフレーズごとに楽器に役割を持たせてさまざまな組み合わせで充てているのがこのアレンジの一大特徴である。前に『国境の町』は音の遠近法だと記したが、『名月赤城山』はとりどりの更紗で装丁した絵巻物をするすると解き広げているようなストーリー性をバックサウンドに感じるのである。

 

 長くなったが、「歌へ若人」はこのような聴き方もできる、というモデルケースを示してみた。東海林太郎の歌唱の素晴らしさは今さら言うまでもないが、バックサウンドと渾然一体となって、東海林太郎の歌が完結するといっても過言ではないだろう。

 

 

 

 

 

二村定一のレコード 9

『東京見物』Nipponophone 16157 1926(大15)年6月新譜

歌詞カードと月報では『彌次郎喜多助 東京見物』と登場人物の名が小さく入っているがラベルでは『東京見物』とのみ記されている。

お伽歌劇のレコードではすっかり常連となった佐々紅華の作並びに指導で、このレコードでは二村定一(彌次郎)に井上起久子(喜多助)が共演している。

佐々はニッポノホンで企画や楽曲の作詞作曲だけでなく録音時のディレクターもこなしていたので、(作並指導)という表記になっている。後にこの表記は分かりにくいということになったのか、昭和期のニッポノホン目録では(伴奏 佐々紅華)(佐々紅華 作並指揮)という書き方に改められている。

田圃の帰りにひょっこり逢った彌次郎と喜多八が意気投合して東京見物に出る、というお話で、東京で丸ビルが丸くないのに驚いたり、帝劇の観劇切符を値切ろうとしたり、二重橋で遥拝ついでに賽銭をお堀に投げ込んだり(以上A面)、という定形通りの田舎者描写をこれでもかとばかり投入している。こうした大東京賛美・地方卑下というスタイルは、大正期の当時はともかく地方都市がそれなりに発達している今日では成立しづらいだろう。

B面でも汁粉が高いとこぼしたり、サンドイッチ三十銭を「サンドイッショで三十銭なら一度で十銭」とボケたり、銀座の喧騒にとまどったりなどしている。銀座松屋の屋上から(おそらく望遠鏡で)浅草観音を眺めて、最後に浅草で映画館に入る展開は巧みだ。映画の中で泥棒が家に忍び込むシーンを見て彌次郎が「泥棒泥棒」とさわぐ。腹の減った彌次郎が最後まで食べ物にありつけず「アー腹減ったあ」のひと言でお終い。

月報では、

お伽歌劇の名作者佐々さんの筆になる「東京見物」と云ふのは飄逸の田舎者二人を引張り出して大東京の文化施設に魂の宙返りをさせると云ふ滑稽至極の物語り、起久ちやんと二村君が大車輪となり本場裸足のダンベー言葉を使つて天晴れ山家のオッさんとなりすまし皆様のお臍の宿替をさせやうの魂胆、合ひ間合ひ間は軽快なオーケストラが流れるやうに織り込まれております。

と紹介されている。

ここで特に注意を喚起していることからも分かるように、『東京見物』ではオーケストレーションがひとつの見せどころで、音楽描写に大きな意味を持たせたお伽歌劇である。私事だが、このレコードは筆者が聴いた最初のお伽歌劇だった。そのサウンドが豊富で全編に流れるように響いていることに耳を奪われた。1980年代でさえそうなのだから、1926年当時にはこの豊富な旋律と凝ったサウンドは画期的だったと考えられる。

事実、このレコードを境にお伽歌劇の伴奏は音楽的に豊かに変化している。佐々自身『東京見物』の作曲は気に入っていたらしく、ほかのレコードにも引用している。日比谷公園のシーンの旋律をそのまま流行小唄『女心』に転用しているのである。

録音時のニッポノホンオーケストラの編成は、ピッコロ、フルート、コルネットトロンボーンテューバ、弦楽(ヴァイオリン、チェロ、ベース)、ピアノ、というもので、自動車や路面電車の擬音が加わっている。銀座の交差点で音楽を背景に「彌次さんヤア」「オヽ喜多助どん」と呼び合って命からがら横断するシーンで、二村定一が吹込みラッパの遠くから叫んで距離感を表現しているのは、当時のレコーディング・テクニックとして注目点だ。(ちなみに二村は電気録音となってからもビクターの『ヴォルガの船歌』で、遠くから近づいてくる歌声を表現している)

このお伽歌劇も大正末期のお子たちには喜んで迎え入れられたようで版を重ねた。

『浅草行進曲』史

承前『道頓堀行進曲』史 - ニッポン・スヰングタイム

 

2. 浅草行進曲

 さて、次に『道頓堀行進曲』が生んだもう一つのヒット曲、『浅草行進曲』について述べたい。

 

 『浅草行進曲』は、関西の松竹座での幕間劇『道頓堀行進曲』の評判に目をつけた松竹が映画化に踏み出したもので、1928年4月7日に浅草電気館で蒲田映画『浅草行進曲』が封切られた。監督・脚本・原作は野村芳亭、出演者は人気女優の松井千枝子、藤野秀夫、武田春郎、三田英児、という顔ぶれである。当時はサイレント映画であるから主題歌は入らないが、この映画に合わせて6月新譜で発売された2枚組の映画劇レコード『浅草行進曲』(松井千枝子、三田英児、静田錦波=説明)に主題歌が入った。その主題歌が、日比繁次郎の『道頓堀行進曲』歌詞を畑耕一が改作した『浅草行進曲である。』畑耕一は小説家・文学者で、当時は明治大学教授であった。畑は1924年に松竹キネマ研究所の所長に就任しているので、主題歌をものしたのはその縁からであろう。

 畑耕一は流行歌の作詞に当たっては多蛾谷素一(耕一をたがやす+いちに分解した)ペンネームを用いたが昭和初期のレコードは作詞作曲者をラベル上に明記しないことが多く、意外なようだが多蛾谷素一の名がラベル上に見られるのは、これも大ヒットしたコロムビア流行歌『ザッツ O.K.』(1930年9月新譜)と他に一、にある程度である。

 なお、この蒲田映画『浅草行進曲』の中の浅草ロケシーンをそっくり道頓堀のロケシーンに替えたフィルム『道頓堀行進曲』が、三ヶ月後の7月14日に封切られた。当然ながら出演者は同じである。時系列で見ると、①幕間劇『道頓堀行進曲』→②『道頓堀行進曲』レコード→③映画『浅草行進曲』→④『浅草行進曲』→⑤映画『道頓堀行進曲』という順序で道頓堀に回帰しており、少しややこしい。

 

 映画劇に続いて、ニッポノホン(日本蓄音器商会)のサブレーベルであるヒコーキが『カフェー小唄 浅草行進曲』(木村時子 1928年6月新譜)、『カフェー小唄 浅草行進曲』(石田一松 1928年7月臨時発売)を立て続けに発売した。浅草行進曲は畑耕一の作詞、塩尻精八は松竹専属の作曲家・指揮者でレコード的にはフリーランスという理屈で、日本蓄音器商会でも関連レコードを作りはじめた訳である。前者は浅草オペラのスターであった木村時子がストーリー仕立ての両面で芝居を交えて歌っている。後者は歌唱のみであるが、この石田一松のレコードがまず大ヒットした。

 

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 これに負けじと大阪資本のニットーからも二村定一・天野喜久代の歌唱、ハッピー・ナイン・ジャズバンドによる『浅草行進曲』(1928年10月新譜)が登場した。ニットーは翌月11月新譜でも寺井金春による『千日前行進曲 浅草行進曲』をリリースした。

 前者は東京録音、後者は大阪録音で、ちょうどビクターからも『アラビアの唄』などを出して人気急上昇中であった二村定一の歌う前者がたいへんよく売れた。ハッピー・ナイン・ジャズバンドは立教大学の学生バンドでディック・ミネ(ドラムス)も創立時に加わっていたが、この録音時にはすでに居なかったようである。この録音時の編成はCメロサックス(?)、2テナーサックス、トランペット、トロンボーンバンジョー、ドラムス、ピアノ。一コーラスごとにブリッジで繰り返し演奏を挿入して、じっくり聴かせる構成である。この頃のニットーはライツのカーボンマイクなのでサウンドの奥行きに乏しいが、コーラスごとに若干編成を変えた凝ったアレンジを学生バンドががんばって演奏しているのがよく伝わる。最高に脂が乗っている時期の二村定一と天野喜久代コンビなのでヴォーカルも息が合っており、ノンシャランで楽しい雰囲気を醸している。

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 日本蓄音器商会の大阪文芸部であったオリエントも、『カフヱー行進曲』(山村豊子 1928年10月新譜)、『流行新小唄 藝者行進曲』(南地・金龍 1928年11月新譜)と、替え歌を発売した。このあたりになるともはや原曲が道頓堀なのか浅草なのかも判然としないが、『カフヱー行進曲』で〽恋の灯ジャズの音渦巻くなかに白いエプロンどう染まる あたしゃカフェーの愛の花よ、と歌う歌詞は明らかに『浅草行進曲』からの派生である。

 本物のカフェー女給が歌ったヒコーキ『銀座行進曲』(カフエータイガー よう子・すみ子 1929年5月新譜)もタイトルは異なるが『浅草行進曲』の替え歌で、極めて下手な歌唱のなかにプロの流行歌手では出すことのできない水商売の雰囲気が漂っている。

 ところで『道頓堀行進曲』と『浅草行進曲』の分類であるが、歌詞に明瞭に現われることが多いほか、『浅草行進曲』には共通した前奏がついているので、それと分かる。ここに挙げた替え歌もほぼ全てに共通した前奏が備わっている。

 

 浅草が舞台ということからか『浅草行進曲』の人気は東京で沸騰し、それは東京に集中するレコード会社にも影響を及ぼした。

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 1929年正月新譜でニッポノホンからリリースされた『松竹映画 説明レヴュー』(静田錦波 松竹和洋合奏団)、『流行歌ポッポリー』(島田晴譽=指揮 松竹和洋合奏団)には共に『浅草行進曲』が含まれている。島田晴譽が楽長を務める松竹管絃楽団/松竹和洋合奏団は約20名の楽士で映画の伴奏を行なうほか、幕間の休憩音楽を演奏した。島田は折々の流行曲をポッポリー(メドレー)形式に編んで休憩音楽で発表し、観客の好評を集めた。この録音では、2フルート、クラリネットコルネットトロンボーンテューバ、弦四部(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ベース)、三味線、締太鼓、鉦という大規模な編成が採られ、A面では「浅草行進曲」〜「月は無情」〜「アラビヤの唄」が、B面では「籠の鳥」〜「モガモボソング」〜「モン巴里」〜「浅草行進曲」が演奏されている。この楽団は1928年から松竹が招聘した井田一郎のチェリー・ジャズバンド(松竹下では松竹ジャズバンド/電気館ジャズバンドと呼称)とたいへん折合いが悪く、ジャズとの明確な区分けを意識したのかサックス属の楽器を全く用いなかった。

 

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 ジャズでは『アラビアの唄、浅草行進曲』(アーネスト・カアイ=スティールギター、ディ・フェルナンデス=ギター 1929年3月新譜)がニッポノホンとコロムビアから同時発売された。カアイは1927年にハワイから来日したギターの名手で、ギターに限らず多数の楽器をマスターしており、日本のジャズ界に大きな影響を与えた。ここではウッド・スティール・ギターで軽快にスウィングしている。

 さらに1930年に至っても『ポッポリー 映画流行小唄集』(川崎豊・曽我直子 島田晴譽=指揮 松竹管絃楽団)のなかで曽我直子が歌っている(映画流行小唄集は17626と17709の2種あり、浅草行進曲は後から出た17709のポッポリーに含まれる)。

 

 

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 『道頓堀行進曲』『浅草堀行進曲』のメロディーは、そのあまりの流行から直接関係のないレコードにも余波を及ぼしている。その一つは淡谷のり子の初期のレコード『夜の東京』(加奈木隆司=作詞、井田一郎=作・編曲 淡谷のり子 井田一郎=指揮 日本ポリドール・ジャズバンド 1930年4月新譜)の間奏で、ここにちゃっかりと「東京行進曲」(中山晋平=作曲)と並べて引用されている。このときは「夜の東京」がテーマだから、引用されたのは必然的に『浅草行進曲』ということになるだろう。ちなみに「東京行進曲」は井田一郎がビクターで初めて編曲した作品であり、「浅草行進曲」の塩尻精八は井田が大阪で松竹座ジャズバンドを組んで舞台に出ていた時代に松竹座の音楽を司っていたので、両方とも縁がないわけではない。

 大ヒット曲『女給の唄』(西條八十=作詞、塩尻精八=作曲 羽衣歌子=歌 日本ビクター管絃楽団 1931年1月新譜)は作曲者が塩尻精八なので堂々と後奏に自作のメロディーを用いている。この歌の原作である広津和郎『女給』は銀座のカフェー・タイガーを舞台としているから浅草でも道頓堀でもないが、夜の盛り場の印象的記号としてこのメロディーを当て嵌めたのであろう。

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 最後にとどめを刺すかのように1932年に『タンゴ 浅草行進曲(道頓堀行進曲)』(東京フロリダ・ダンスホール 巴里ムーラン・ルージュ楽員 1932年8月新譜)が発売された。1932年、東京の赤坂溜池にあったダンスホール「フロリダ」に招聘されて来日していた巴里ムーラン・ルージュ楽員の4名による録音である。この楽団はフロリダでの演奏も評判が高かったがレコード人気も高く、第一次編成(4名)、第二次編成(5名)、モーリス・デュフールのアコーディオン独奏含めて総計160面余の録音を残した。この録音は第一次編成で、シャール・パクナデル(ヴァイオリン)、モーリス・デュフォール(アコーディオン)、ジャン・ジェラール(ギター)、ガストン・トーマ(ドラムス)の4名が和やかに演奏している。

 このときは歌詞が無いので道頓堀行進曲にも花を持たせたかたちだが、かくして道頓堀行進曲と浅草行進曲は仲良くラベル上に並んだのであった。 (続)

『道頓堀行進曲』史

  • 道頓堀行進曲

 二村定一年譜の補完計画は暇なときにします。今回は道頓堀行進曲について。

 長らく探求盤であった松島詩子『道頓堀行進曲』/マイフレンド『銀座行進曲』(ニットー 6522 1934年9月新譜)を手に入れることができた。松島詩子の『道頓堀行進曲』はニットーが1936年からリリースした廉価盤のSシリーズでもプレスされ、そちらは今日でもしばしば見かける。再発でヒットしたパターンだが、カップリングのマイフレンド『銀座行進曲』は再発されなかったため、オリジナルの黒盤でしか聴けない。このレコード、なんでもない黒ラベルでいかにもその辺に転がっていそうだが実は大変な難物で、ニットー盤大コレクターのN氏も「見たことがない、京都の某氏が持っていたかもしれないがそれも怪しい」というレベル。そういう探求盤をN氏が故人となってから手に入れたのも何かの縁だと感じ、『道頓堀行進曲』とその周辺のレコードについて述べることにする。

 

1. 道頓堀行進曲

『道頓堀行進曲』(日比繁次郎=作詞, 塩尻精八=作曲)はそもそも日活映画『椿姫』(1927)撮影中に俳優の竹内良一と駆け落ちした岡田嘉子が、もろもろの騒動を経て復帰主演した松竹チェーン劇場の幕間劇『道頓堀行進曲』の主題歌である。

この復帰公演は1928年1月7日より神戸松竹座、その次の週に京都松竹座、さらに翌週の1月20日より大阪松竹座で行なわれた。徐々に客足を伸ばしていったのだと思うが、大阪公演で大評判となって、東京にまでその評判は届いた。

 

 レコードとなったのは木田牧童(説明), 若山千代, 瀧すみ子, 河原節子, 大阪松竹座管絃団という面々によるニットーのモダンスケッチ2枚組(1928年3月1日臨時発売)が最初であった。このレコード、JOBKのお昼のジャズの時間に"Titina"を演奏するシーンが挟まれていたりして、なかなかリアルである。ストーリー自体は夢オチで、原作が幕間劇であったから軽妙な喜劇に仕上がっているわけである。

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 驚いたことにタイミングを同じくして名古屋のツルレコードも山崎錦城(説明), 一條歌子, 河原節子, アサヒジャズバンドによるスケッチレコード2枚組(同年3月発売)を発売した。大変な素早さであるが、おそらく風評のみで慌てて製作したためだろう、ストーリーはオリジナルのニットー盤とはかけ離れたものとなっている。原作は悲劇が夢オチで喜劇になるのだが、ツル版は悲劇のまま終了するのである。ときおり挿入される『道頓堀行進曲』も陰鬱な雰囲気である。これは珍盤だ。

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  このツル盤は関係者の許可なく製作された上、レコード発売の宣伝ポスターに「竹内良一・岡田嘉子主演」を堂々と謳っていたため、3月20日、幕間劇『道頓堀行進曲』原作者の中井泰孝が「レコードの製造販売禁止ならびに二千円の損害賠償」を求めて大阪地方裁判所に提訴している。そのためツル側は早々にこのセットを廃盤とした。

この二種のレコードを追って、オリエントから松竹座管絃団によるインスト盤『道頓堀行進曲』(1928年3月25日発売=4月新譜)が、またニットーからも『巴里行進曲』(松竹座管絃団 7月新譜)が出た。ニットー盤『巴里行進曲』(松竹座管絃団 7月新譜)は『モンパリ “Mon Paris”』推しのインスト盤だが、中間部でけっこう長めに道頓堀行進曲を挟み込んでいるので、巴里とも道頓堀ともつかない内容となっている。このレコードの録音時は大阪住吉神社に隣接したニットーのスタジオで公開録音したため、見物客が殺到し、係員が「録音中はお静かに」と注意を喚起せねばならなかった。

 

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 以上の前史を経て発売されたニットーの『道頓堀行進曲』(筑波久仁子=歌、片岡正太郎=ハーモニカ、清水昌=ピアノ 1928年5月新譜) は全国的な大ヒットを記録した。

 このニットー盤は大阪のスタジオではなく、東京の日本青年館で録音された。古い文献では歌手の筑波久仁子は井上起久子の変名とされ、筆者も以前はそれを鵜呑みにしていたが、現在では別人と判明している。筑波久仁子はほかにも松竹楽劇部のレヴュー主題歌をレコーディングしているので、松竹楽劇部の筑紫國子の変名ではないだろうか。ニットーは1920年代後半に澤文子という歌手もさかんに起用しているが、澤もまた松竹楽劇部に属していた。

 ニットー盤の大ヒットを追って、尼崎でセルロイド製の小型レコードを製造していたバタフライが1929年に『道ブラ行進曲』(小島鈴子=歌 松竹座ジャズバンド)を発売した。これは松竹座ジャズバンドが演奏していることからも明白なように、松竹座関連の録音ということでお咎めがなかったのだろう。松竹楽劇部の澤文子も松竹管絃楽団の伴奏で、特許レコード(小型盤)から『道頓堀行進曲』を出している。

 

 道頓堀行進曲はニットーが歌詞の権利を保持したため他社ではレコード化されず、筑波久仁子盤に次いで製作した内海一郎盤(内海一郎=歌、日東ジャズバンド 1929年5月新譜)も二十万枚を記録する大ヒット盤となった。

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 内海一郎(1898-1972)は浅草オペラ出身のテナー歌手で浅草時代は宇津美清を名乗った。レコードも大正期からあるが、昭和期には二村定一に対抗するように甘いテナーでオリエント、ニットーにジャズソングをおびただしく吹き込み、ジャズソングブームを支えた。『道頓堀行進曲』は内海のスマートでノンシャランなヴォーカルが耳に心地よく、佳作が多い彼のジャズソング中でも一頭群を抜く名盤となった。 

 このディスクは1929年当時のジャズ水準を考慮すると、アレンジもたいへん興味深い。アレンジは浅草オペラ時代から指揮・編曲を手がけていた篠原正雄(1894-1981)で、このディスクではフィドル風のヴァイオリンを入れたディキシースタイルにアレンジしている。篠原はリズム感覚の鋭いアレンジャーで、服部良一を除けば最も早くルンバを咀嚼してダンスアレンジに応用したし、1930年代半ばからはいち早くスウィングアレンジも手掛けた。

 日東ジャズバンドは、テナーサックス、バリトンサックス、バスサックス、トランペット、トロンボーンバンジョー、ドラムス、ピアノ、2ヴァイオリン、という編成で、難波の赤玉食堂で楽団を率いていた前野港造(sax)が指揮している。この編曲が甚だ複雑なので書き留めておこう。

イントロ…トランペット、バンジョー、ドラムス、ピアノ、2ヴァイオリン

1番コーラス…バンジョー、ピアノ、ヴァイオリン

ブリッジ…トランペット、トロンボーン、テナーサックス、バンジョー、ピアノ、ヴァイオリン

2番コーラス…バリトンサックス、バンジョー、ドラムス、ピアノ、ヴァイオリン

ブリッジ…トランペット、トロンボーン、テナーサックス、バンジョー、ドラムス、ピアノ、2ヴァイオリン

3番コーラス…バスサックス、バンジョー、ドラムス、ピアノ、ヴァイオリン

fin…テナーサックス、トランペット、バンジョー、ドラムス、ピアノ、2ヴァイオリン

 ドラムスはバンジョーの影に隠れて聞き取りにくいがたしかに居る。ヴァイオリンは二人で重奏するシーンと、オブリガート一人、トランペットと合奏する一人に分かれるシーンとがあり、これもやや判別しにくいと思う。サックスはおそらくバンマスの前野による持ち替え演奏であろう。テナーからバリトン、バスへと流れる、凝った使い方だ。そもそも1929年の国内録音のジャズでバリトンやバスが使われるのは極めて珍しい。

 

 このあと、ニットーから再三『道頓堀行進曲』(松島詩子=歌、N.O.楽団 1934年9月新譜)が現われる。

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 このディスクはニットー東京スタジオのディレクターに就いた服部良一(1907-93)の編曲で、1934年当時ニットーの女性歌手の看板であった松島詩子(1905-96)を起用している。のちに服部が自伝で「道頓堀行進曲を完全にジャズに編曲した」と述べているのは、このテイクのことである。松島詩子の世間ずれしていないお嬢さんのようなウブな歌唱が微笑ましい。

 神月春光が指揮するN.O.オーケストラは、3サックス、トランペット、トロンボーン、ギター、ドラムス、ベース、という編成である。イントロはサックス陣とブラスの掛け合いでちょっとトランペットのソロが入る。1番コーラスはその延長でサックス陣にブラス陣が絡むバック、そのあとのブリッジはカサ・ロマ・オーケストラのジョン・ギフォードばりの分解的なアレンジで旋律が処理される。2番コーラスはサックス陣の独壇場で、流麗なハーモニーに包まれる。ブリッジではトロンボーンによる弱いオブリガート付きでトランペットが『アラビアの唄 Song of Araby』を高らかに歌う。『道頓堀行進曲』とおなじ1928年のヒット曲ということで挿入したのだろうが、深読みすれば服部良一がバンドを率いて活躍していた大阪時代のジャズ風景を回顧しているようにも思われる。トロンボーンソロを受けての3番はリズムに薄くブラスが乗って、ヴォーカルを引き立てる。この控えめな伴奏のあと、ブラス・サックスの元気な全合奏、サックス陣とブラス陣(特にトランペット)の見せ場で華麗に締めとなる。この松島盤は全体にフレッチャー・ヘンダーソンのカラーを踏襲したホットなアレンジで、アメリカ本国で台頭してきたスウィングをいち早く採り入れたディスクとして注目に値する。

 冒頭にも書いたが、この松島詩子盤は、1936年にニットーのはじめた大衆盤で再発され、そちらはしばしば見かける。思うに1934年と1936年の間に、スウィングの意識が高まった結果、初出では売れなかった実験的なレコードが1936年にヒットしたのだ。これは日本ジャズ史的に見ても面白い現象だと思う。

 

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 ニットーは1935年5月新譜を第一回として、サブレーベルの日本クリスタルから邦楽盤をリリースしはじめた。大正時代から関西の大レーベルであったニットーレコードが洋楽にもレパートリーを広げようと設立したのが日本クリスタルで、海外の洋楽盤をプレスするだけではなく、既存の枠組みにしばられない新機軸のレコード制作も目指した。そのクリスタルで企画から制作まで音楽監督をつとめたのが服部良一だが、今回の日本クリスタル・ファイブ・スターズとはあんまり関係はない。(クリスタルの責任者は服部龍太郎で、その下で服部良一が自由に采配を振るった)

 日本クリスタルは七回の新譜を出したところで邦楽のリリースを終了したが、その最後に『道頓堀コーラス』(日本クリスタル・ファイブ・スターズ 1935年11月新譜)をリリースした。これもニットーが『道頓堀行進曲』の権利を持っていたからできたことだが、ファイブ・スターズが自由にアレンジし奇抜なジャズコーラスに仕立てている。

 このジャズコーラスのグループは藤川光男(=林伊佐緒 1912-95)、志村道夫、友野俊一、館野信平の四名にギターorウクレレ一人を加えた五人組で、メンバーはそれぞれソロで活躍する実力の持ち主である。なお彼らは日本クリスタルだけでなく、ニットーでニットー・リズムボーイズ、タイヘイでフォア・リズム・ジョーカーズやウエスタン・ファイヴスターなどのグループ名を名乗って吹き込んだので、録音総数は20面あまりに及ぶ。藤川、友野、館野は作曲や編曲も堪能であったが、特にジャズコーラスに関しては藤川光男がアレンジを担当したのではないかと考えられる。のちにキングで藤川が手がけたアレンジと、このグループのアレンジには共通するセンスが感じられるのだ。

 ウクレレ一本の伴奏でまず2コーラス、クイックテンポでストレートに歌われる。そのあとマウストランペットのブリッジが挟まり、3、4コーラスは藤川光男のソロにほかの3人のスキャットやハモりが絡む。5コーラスめはスキャット、6コーラスめで全員でハモってお終い。軽妙洒脱なジャズコーラスだ。

 

 戦前の『道頓堀行進曲』はおおむね以上である。他にもマイナーレーベルにあるかもしれず、替え歌もあるかもしれないが、漏れについてはご寛恕いただきたい。また戦前戦後に数曲ある「新道頓堀行進曲」については、全くの別曲なのでここでは取り扱わなかった。

 戦後の『道頓堀行進曲』のレコードについてはあまり情報を持っていないが、日本マーキュリーの『軽音楽 道頓堀行進曲』(近藤正春=編曲・指揮 大阪キューバンバンド)が一風変わったレコードとして記憶されよう。

 

※文中、新譜年月の誤りがあったので訂正した。(2018年12月17日)

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道頓堀からの『浅草行進曲史』はこちら→

『浅草行進曲』史 - ニッポン・スヰングタイム

二村定一のレコード 8

『ラヂオの小父さん』 Nipponophone 15991 1926(T15) 正月新譜

前年の1925(大正14)年7月12日に本放送が開始されたラジオをテーマとしたお伽歌劇である。

なお7月12日は現在、ラジオの日に制定されているのだが、JOAKはこれに先立つ同年3月22日から仮放送を行なってラジオの周知につとめていた。大阪のJOBKは仮放送が6月1日から、本放送はさらに半年遅れて1926年12月1日からであった。名古屋のJOCKは1925年6月23日に仮放送開始、7月15日から本放送を稼働している。

ラジオ放送開始はメディアの大革新であったから当然のことながら一般的にも大騒ぎをした。スピーカーから今現在喋っている生の声が流れ出すというラジオは同じように音声を扱うメディアであるレコードのネタにもしやすかったようで、ラジオをテーマとしたレコードがいくつも作られた。その種目はお伽歌劇、漫談、童謡。大人も子供も聴いて理解できて楽しめるレコードでもって、率先して新メディア・ラジオの普及を図ったようにも思われる。

海外ではラジオの登場によってレコード産業は窮地に立たされるのではないか、と懸念された。その考えは日本でも同様に起こって、たとえば吉本興業の芸人はラジオには出ないという主張が唱えられたり、ラジオから音を録ったラジオレコードが作られて権利上で一悶着あったりなどしたのだが、それはもうすこしあとのお話。大正14年のラジオ開始直後は、こうしてレコードでラジオ登場の啓蒙を行なっている。ラジオとレコードは切っても切れない関係にあったのだ。

『ラヂオの小父さん』は例によって佐々紅華の作品である。高井ルビー、竹内まり子の共演。二村定一はもちろんラジオの役である。ラジオを擬人化しているのである。

二村定一のラヂオが高井ルビーのお嬢さんとお話をするという非現実的なシチュエーションで、いい加減な天気予報を流したりする。しかもラヂオのお小父さんはお台所のおたけどんからの情報を受けて、本日のお弁当の献立をべらべらと喋る。お嬢さんが鰯の干物やスルメの漬け焼きに拒否感を示すとラヂオのお小父さんはおたけどんと相談までして、ゆで卵、エビフライ、くわいのキントンにかまぼこにコロッケを用立てる。お嬢さんは大喜びでラジオを称える歌を歌う。後半ではよいとまけの唄(竹内まり子)、二村の広告屋の唄が配されている。佐々紅華のあふれるようなアイデアが詰め込まれた、楽しいお伽歌劇である。

こうしたお伽歌劇のレコードは当時たいへんよく売れて、盤面に刻印された数字からは何度も何度も追加プレスされたさまが窺える。

二村定一のレコード 7

『大つきな蛙』 Nipponophone 15735-B 1925(T14) 7月新譜

『エンサカホイ』『ノンキナトウサン』とカップリングの漫画童謡で、佐々紅華作詞・編曲。

原曲はフランスの作曲家レオナール・ゴーティエ Leonard Gautier (1866〜1955)が1890年代に発表したピアノ曲"Le Secret"である(拙著の二村評伝では作曲年を1904年としており、海外でも版によって諸説あるが、出版譜は1890年代まで遡ることができる)。

ゴーティエは大衆的なピアノ曲を数多く作曲したことで知られており、そのなかでも"Le Secret"は最も成功した作品である。ピアノソロで演奏されるほか、ヴァイオリンとピアノの二重奏や簡素な室内楽に編曲されている。現在でも演奏される機会があるようでyoutubeで容易に聴くことができる。

しかし『大つきな蛙』がLe Secretと同じ曲であるというところへ辿り着くには時間がかかった。平易な西欧風のメロディーなので佐々紅華の作品というよりは既存の楽曲の転用であろうと目星をつけていたところ、1925年10月新譜のニットー盤で『シークレット』(前田環=ママ=提琴, 仁木武雄=シロホン, 岡本末蔵=クラリネット, 阿部萬次郎=ピアノ)を聴いて、同曲だと同定することができた。それで『大つきな蛙』の原曲を問われてそれに答えたこともあるが、判明している物事を人から教えてもらうよりも自分の手で見つけた時の喜びは比較にならないほど大きい。二村定一のさまざまなレパートリーの原曲探しを思い出すにつけ、小さな発見の積み重ねこそが自分にとっての宝だと感じる。

個人的な方向に話が逸れてしまった。『大つきな蛙』は二村定一の独唱で、ゴーティエの原曲に佐々紅華がナンセンス趣味の歌詞を当て嵌めている。ピアノとヴァイオリンの簡素な伴奏が付けられている。やや詰め込み気味の歌詞なので二村も遅れないよう一生懸命歌っているのがおかしい。単純な旋律をリズミカルにだれないよう歌っているのも注目すべき点だ。

二村定一のレコード 6

『エンサカホイ』『ノンキナトウサン』 Nipponophone 15735-A 1925(T14) 7月新譜

佐々紅華作詞・作曲の漫画童謡。浅草オペラの少女スター岩間百合子との共演である。『エンサカホイ』では二村は岩間百合子の歌唱の合いの手とリフレインの合唱をつとめる程度のはたらきだが、合いの手をいちいち表情を変えて面白おかしく歌っている。のち、1929年に平井英子の歌唱でビクターで再レコード化された。

『ノンキナトウサン』は夕刊報知新聞で1922(T11)年から連載された同名漫画に因んだ童謡で、漫画童謡という曲種の由来となっている。このレコードが作られた1925年に漫画映画『ノンキナトウサン 龍宮参り』と実写映画『ノンキナトウサン 花見の巻』『ノンキナトウサン 活動の巻』が作られ、後者は9月18日に公開されたということなので、その主題歌的な意味合いもあったのかもしれない。

こちらも岩間百合子が歌い、二村はのんきな父さんの役でとぼけた台詞を入れている。小針侑起『あゝ浅草オペラ』(えにし書房)によれば岩間は1897年生まれということなので、このレコーディング時は二村より3つ年上の28歳。浅草オペラ濫觴期からのベテラン女優で、美貌と実力を兼ね備えていた。お伽歌劇の録音もそこそこある。浅草オペラのテナー千賀海寿一の妻である由。

発売月のニッポノホン月報には「報知新聞連載の漫画ですつかり名物親爺になりすました『ノンキナトウサン』にちよいと御手伝ひを願つて面白い童謡レコードをつくりました、『エンサカホイ』『大つきな蛙』と共にお臍の宿替へ請合の滑稽なもので例の如く「紅華さん」の作曲並に指導にかゝるものです。」と記されている。