ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

二村定一のレコード 5

『泊り番』 Nipponophone 15689-B

『笑ひ薬』のカップリングで、こちらも浅草オペラの少女スター相良愛子が共演している。もっとも『笑ひ薬』ではリフレインに共唱でつきあっている程度だが、この『泊り番』ではがっつり相手役として共演している。

内容は、

1)会社の泊り番で退屈しているサラリーマンがカフェーの女給から電話をもらったが途中で電話が切れたので交換手にカフェーにつなぐように頼むが、どのカフェーか分からないのでつなげられない、という寸劇。

2)は満員電車で女性に席を譲ったら荷物を託された。次の駅で女性がさっさと降りてしまい、荷物だけが手元に残った。開けてみたら赤ん坊の死体だったという事件。

が描かれている。

レコードのタイトルは1)に因んでいる。2)はあまりにもショッキングな出来事なので、あるいは実際にあった事件を風刺したネタなのかもしれない。これより前、関東大震災後の世相を描いたお伽歌劇『ちょいとお待ち』(高井ルビー・柳田貞一 1924年9月新譜)では、同じように電車に猫の死骸を遺棄するエピソードが出てくるので、その元ネタをさらに刺激的に改変したのかもしれない。

『泊り番』の原曲は、Arthur CollinsとByron G. Harlanの人気コンビが吹き込んだ"Nigger Loves his Possum"で、アメリカビクターからはBilly Goldenの"Turkey in the Straw"とカップリングになったレコードが発売されていた。1905年の初出以来、何度もプレスを重ねたロングセラーで、佐々紅華はこのビクター盤から『笑ひ薬』『泊り番』の構成をそっくり拝借したのであった。このレコードの種目がお伽歌劇や喜劇ではなく流行小唄となっているのは、内容が子供向けではなかったということもあるが、アメリカのヒット盤に素材を求めたためである。

なお"Nigger Loves his Possum"はのち、バートン・クレーンと天野喜久代の掛け合い『夜中の銀ブラ』(1931年10月新譜)にも用いられた。

二村定一のレコード 4

『笑ひ薬』Nipponophone 15689-A 1925(T14) 6月新譜

佐々紅華作詞・編曲による流行小唄。のちに二村自身がビクターで再録音して大ヒットした。近代的なナンセンスソングの嚆矢といえる歌である。

原曲はミンストレル歌手のBilly Goldenが1890年代から1920年頃までシリンダーと平円盤に幾度も吹き込んだ十八番のレパートリー"Turkey in the Strow"で、海外の流行音楽に通じていた佐々がこの流行歌を取り上げて翻案した。笑い薬というシュールな翻案は傑作で、吉田一男の「お笑ソング」(テイチク 旋律は東京節)などさまざまなエピゴーネンを生むこととなる。

二村の歌唱はおもしろおかしいさまを誇張した歌いぶりで、しかし笑う箇所を除いて余計な力が入っていない(後のビクター版では笑う箇所もナチュラルに力が抜けている)。この軽妙さが受けて、『笑ひ薬』はニッポノホンが流行小唄、現代小唄、新流行歌などの種目名で制作した近代的な歌謡レコードではいち早くヒットした。家庭で愛聴されたのだろう、今日見かけるレコードはよく聴き込まれた盤が多い。

二村定一のレコード 3

『牛若弁慶』 Nipponophone 15664 1925(T14) 5月新譜

浅草オペラの少女スターであった相良愛子との共演である。相良は達者な台詞回しと、女優連でもひときわ目立つ愛嬌のある声が特徴である。歌の上手さよりその活き活きした愛くるしい声がお伽歌劇のレコードでも重宝された。

『牛若弁慶』は阿呆陀羅経を唱える坊主が二村、比丘尼が相良という役回りで、牛若丸と弁慶の話は二人が唱える阿呆陀羅経のなかで進行するという、メタな構成をとったお伽歌劇である。佐々紅華や同時代のレコードクリエイターはお伽歌劇という名を借りてさまざまな実験を行なったが、『牛若弁慶』もその一つといえよう。

A面が二村定一の阿呆陀羅経による前説。B面になってようやく牛若丸と弁慶のくだりとなる。相良愛子の牛若と二村の弁慶によるないない尽くしは二人の芝居っ気を楽しむというより言葉遊びの楽しさで、簡素な伴奏で二村と相良がリズミカルに掛け合っている。25歳の二村の巧みな歌いまわし、間合いの取りようはすでに完成された芸である。

因みにこのレコードに出てくるないない尽くしの旋律は、のちに『福助 頭の売物』(コロムビア)にも転用されている。

二村定一のレコード 2

『あめやさん』 Nipponophone 15508 1925(T14) 正月新譜

1925年正月新譜ということは前年の録音ということになる。二村定一の名前が入った最初のレコードである。二村定一というタレントを佐々はお伽歌劇でフルに活かそうとした。ここではベテランのアルト歌手・天野喜久代を相手役としている。

ラベルに見られるように、二村の名前表記は二村貞一となっている。単なる表記ミスなのか意図的なものなのかは不明。なお貞一という表記は二村の本名、林貞一と同じなので、まったくの誤記とも考えられまい。

レコードの内容は、調子のよい飴やがお嬢さんを相手に芸を尽くして飴を次々に買わせ、気がついたらお嬢さんがいない。もらったお金は葉っぱになっていて狸に化かされたことを悟る、という寸劇である。

のちにビクターで平井英子と再録音している。二村が飴やに扮していい声を聞かせるというシチュエーションは「エノケンのちゃっきり金太」でも踏襲しており、またレコードでは「ポン太郎あめ」という大傑作もあるのだが、それはずっと後のお話。とにかく若い24歳の二村の歌いまわしや演技力旺盛な語りが聴きどころだ。

二村定一年譜補完計画

昭和4年の項に以下の情報を追加。

6月2日 「ジャズの夕」長野県上諏訪本町銀座 フキザワ時計店蓄音器部主催

二村定一、曽我直子、春野芳子(舞踏)、井田一郎(指揮) 日本ビクタージャズバンド

昭和3年・4年は帝国館、電気館、観音劇場、と浅草の映画館・劇場での幕間アトラクションに旺盛に出演し、夏場には歌手やジャズバンドとともに地方巡演に出るというパターンが定着した。曽我直子と春野芳子は地方巡業の定番メンバーで、二村がコロムビアに移籍(1930年秋)してからも巡業をともにしている。

 

昭和4(1929)年の補遺

では例によって時系列で二村定一の活動を追おう。この年は1月から6月にわたって石田一郎が主宰する「電気館レヴュー」に出演している。

 

・1月1日〜4日

浅草観音劇場に出演。井田一郎(指揮)チェリージャズバンドの演奏で「岡惚れは禁物よ」「スキー節」「アラビヤの唄」を歌う。「スキー節」は天野喜久代がコロムビアで吹き込んだ「スキーの唄」と同じ楽曲だろうか。

 

  • 1月5日〜9日

浅草観音劇場に出演。井田一郎(指揮)チェリージャズバンドの演奏で「ブリュースカイ」「思ひ出」「スキー節」を歌う。「ブリュースカイ」はもちろんアーヴィング・バーリンの”Blue Skies”で、二村向きのナンバーだけに、これは録音しておいてほしかった。

 

  • 1月10日〜13日?

浅草観音劇場に出演。井田一郎(指揮)チェリージャズバンドの演奏で「岡惚れは禁物よ」「ハワイの唄」「浅草行進曲」を歌う。

 

  • 1月15日 ビクターに「となり横丁」「ほがらかネ」を録音。
  • 1月17日 ビクターに「茶目子の一日」「あめや狸」を録音。

 

  • 1月22日〜25日?

浅草観音劇場に出演。井田一郎(指揮)チェリージャズバンドの演奏で「夢の通ひ路」「メリーウィドー」「木曽節」を歌う。

 

2月1日

電気館レヴュー「モダーン東京八景」に出演。

第一景 神田墨橋の夕

第二景 銀座カフェーサロン

電気館レヴューは、根岸歌劇団のマネージャーだった石田一郎が内山惣十郎と共に旧浅草オペラ出身者を糾合してはじめたレヴューである。脚本・演出・衣装考案:内山惣十郎、編曲・指揮:井田一郎、文芸部:井上紫陽、幕内主任:東五郎、というスタッフであった。もともとが淺草オペラ関連の人脈であったことや井田一郎がビクター専属となっていたことから、佐々紅華をパイプ役にしてビクターとのタイアップを取り付け、ビクター側から作詞家・時雨音羽、作曲家の佐々紅華、中山晋平、藤井清水がこのレヴューに関わることとなった。

役者は木村時子と澤カオルが二枚看板で、女優が高井ルビー、富士野登久子、吉野八重子、伊沢艶子、松山文子、小村花子、澤久子という顔ぶれ、男優は柳田貞一、萩原隆男、間野玉三郎、横山幸夫、二村定一という面々で、ダンサーとして澤カホルも出ている。カメオとしてビクター歌手の佐藤千夜子が加わっている。

 

  • 2月6日 ビクターに「神田小唄」「君よさらば」を録音。
  • 2月26日 ビクターに「夕となれば」録音。「かちどきの唄」もこの時のセッションかもしれない。

 

2月28日

電気館レヴュー第五回 小唄レヴュー「愛の古巣」に出演。

なお、このレヴューは内山惣十郎「浅草オペラの生活」では第三回となっている。

第二回「サロメはジャズる」はビクターではなくコロムビアで天野喜久代と柳田貞一が吹き込んだジャズソング「サロメ Sa-lo-may」に因んで、オスカー・ワイルドの「サロメ」のパロディが上演された。二村はこの時は急病のため出演していないらしい。

「愛の古巣」も「サロメ」の時とおなじくコロムビアで天野喜久代が吹き込んだジャズソング「愛の古巣 I’m wingin’ home」を核としたラブロマンスである。浅草オペラから映画俳優のスターとなっていた里見明が新たにレヴュー団に加入し、電気館レヴューの団員は総勢20名以上となった。このとき二村定一は病気全快出演を果たし、「当世銀座節」「ソニヤ」「月は無情」を歌った。

この公演は、週替りの混乱で衣装が出来上がってこなかった踊り子を簡単な乳隠しとズロースだけで舞台に出したことが観客に大きな刺激を与え、「ハダカダンス」として一気に人氣が沸騰したことで知られている。内山惣十郎の記述によれば、この乳隠しとズロースの踊り子が客寄せ策として常習化したため、警視庁保安係の取り締まりに遭ってきつく油をしぼられたうえ、「ズロースは股下三寸まで」という規則が作られたという。この通達が1930年11月の浅草でのエロレヴュー大取り締まりの前触れとなる。

下の画像は「愛の古巣」時かどうかは不明だが、天野喜久代との共演時のものなので掲げてみる。

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  • 3月12日 ビクターに「黒い眸」「昇る朝日」を録音。

 

3月21日

電気館レヴュー「テケツの女」に出演する。

この回は電気館レヴューの音楽監督をつとめた井田一郎の立案・作編曲で、澤カホルが振り付けをしている。

このほかにも二村は電気館レヴューに出ているのであろうが、今のところ把握しているのはこの3回のみである。

 

この年、1929年は実演やレコード録音が大忙しで病気もしたりなどしたためか、ラジオの出演は少ない。

3月16日夜、JOAKの放送レヴュウ「妄談助六銀街賑」(伊庭孝 作)に出演。

「キャフェミウラの場」という副題が添えてある。

口上 波島章次郎

医科大学生 二村定一

ミウラの女給たまき 木村時子

救世軍士官 里見明

黒心団長・髪長利権 柳田貞一

ダンボーイ 名村春操

そばかす権平 浮山藤十郎

女性的なモボ 二村定一

伴奏 電気館ジャズバンド

伴奏指揮 井田一郎

放送指揮 内山惣十郎

この顔ぶれと内容からすると電気館レヴューなのだが、前年10月の放送レヴュー「東京莫迦」の好評を受けた第二弾ラジオ企画であろう。二村は医科大学生と女性的なモボを受け持っているが、いかにも打ってつけだ。因みに浅草オペラに入る前、二村は大阪薬学校に通っている。

 

  • 4月11日 ニッポノホンに天野喜久代と「テルミー」を録音。
  • 5月2日 ビクターに「浪花小唄」を録音。
  • 5月29日 ビクターに「海の唄」を録音。
  • 6月11日 ビクターに「山の唄」を録音。
  • 6月12日 ビクターに「早稲田メロディー」「舞鶴行進曲」を録音。

 

6月15日

JOAKのお昼のジャズに出演。

田中豊明(指揮)日活ジャズバンドと共に放送出演している。

ジャズ フォックストロット「セ・リング・オン」

独唱

イ 黒い瞳よ今いづこ

ロ 君恋し

ハ 東京行進曲

  宵待草(?)

ジャズ フォックストロット「マイ・ヘイヴン・イズ・ホーム」

 というプログラムだが、放送前日になって東京逓信局から「東京行進曲」の放送が差し止められ、代替曲が歌われた。この放送中止は一ヶ月ほどしてから流行歌の是非について大論争を巻き起こすのだが、複雑怪奇に亘るその詳細は拙著「ニッポン エロ・グロ・ナンセンス」(講談社)をご参照いただきたい。

 

浅草電気館の電気館レヴューは、館の経営者と旧根岸歌劇団系のメンバーとの意見の齟齬から6月に終了した。

 

  • 6月29日 ビクターに「陽気な唄」を録音。
  • 7月8日 ビクターに「金座金座」を~録音。
  • 8月17日 ビクターに「モダン節」「野球メロディー」を録音。「モダン節」に入っているくしゃみ声は青木晴子のものだと唱える人があるが、二村と青木が共唱する録音は9月であり、わざわざくしゃみ声だけのためにスタジオに青木晴子を呼んだとはちょっと考えられない。しかし興味深い説の一つとして紹介しておく。

 

6月と8月、二村定一は岡田田鶴子(=曽我直子)と北海道函館市で公演。

7月21日からは大阪・道頓堀のカフェ・赤玉の舞台に出演した。この会そのものは好評だったのだが裏方でトラブルとなった。

これより先、二村のマネージャーは大阪の手配師と500円の報酬で独唱会を企画し、大阪方からはビクター専属として京阪神中国地方の巡演にして2000円位の仕事にしないかと勧めがあった。二村のマネージャーとしては願ってもない条件なので話がまとまりかかったところへ二村がなんの挨拶もなく赤玉で公演していったというので、顔を潰された大阪方の手配師が怒って関西地方巡演の話は立ち消えてしまった。これも金銭や契約ごとに恬淡とした二村の一面を示すエピソードだろう。

 

  • 9月12日 ビクターに「都会交響楽」「バッカスの唄」「キルク草履」を録音。「都会交響楽」は青木晴子との共唱で、青木の唯一のビクター録音である。筆者が青木晴子を知ったのも「都会交響楽」によるのだが、いま聴いても青木晴子のもっとも輝いているレパートリーだと感じる。「キルク草履」は歌詞中に問題のある文言が入っているので覆刻されていない。
  • 8月〜9月 日にちは未詳だがビクターに「洒落男」を録音。この名セッションにしてレコーディング日が記録されていないのは不思議だ。金属原盤も見つかっておらず、一抹の謎を投げかけている。

 

9月14日〜20日

神田日活館「音楽ボードビル新秋諧謔週間」に出演。

二村のほか天野喜久代、日活ジャズバンドが出演している。「黒い眸」「山の唄」を独唱、「神田小唄」を天野と共唱した。

 

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9月19日

JOAKより「お昼休みにジャズジャズジャズ」に井田一郎ジャズバンドとともに出演。BK(大阪)その他でも全国中継された。

掲上画像はそのラジオ欄に載った写真。

  1. フォックストロット 「ザッツ・ヒア・ナウ」
  2. 独唱
  3. ツェッペリン行進曲 (内山惣十郎作詞、井田一郎作曲)
  4. 踊れタンゴ (時雨音羽作詞、井田一郎作曲)
  5. タンゴ・ミロンガ 「コケット」
  6. 独唱
  7. 浪花小唄
  8. 神田小唄
  9. フォックストロット 「ザッツ・ホワイ」

ツェッペリン行進曲」は奥田良三がポリドールでレコード化している。「踊れタンゴ」は未レコード化作品かと思う。

 

9月30日

新潟劇場「ジャズと舞踏の夕」に曽我直子、ダンサーの春野芳子、日本ビクター・ジャズバンド(7名)と出演。地元のビクター販売店と新潟の新聞四紙が後援したため、たいへんな盛況となった。

演目は

一 ジャズバンド数曲 井田一郎指揮ビクタージャズバンド

二 独唱 曽我直子

  イ 青い芒

  ロ 鎮西小唄

三 舞踊 春野芳子

  鉾をおさめて

四 独唱 二村定一

  青空

五 舞踊 春野芳子

  スプリングソング

六 独唱 二村定一

  ペトルウシュカ

 休憩

七 ジャズ数曲 井田一郎指揮ビクタージャズバンド

八 舞踊 春野芳子

  タンゴ

九 独唱 二村定一

  黒い眸

十 独唱 春野芳子

  イ 金のグラス

  ロ 君よ去らば

十一 舞踊 春野芳子

   バルセロナ

十二 独唱 二村定一

   山の唄

 休憩

十三 ジャズ数曲 井田一郎指揮ビクタージャズバンド

十四 独唱 二村定一

   東京行進曲

   浅草行進曲

   当世銀座節

   神田小唄

十五 舞踊 春野芳子

   憧れのハワイ

十六 独唱 曽我直子

   悲しき踊子

   モンパリ

十七 二村定一

   君恋し

十八 独唱 春野芳子 (舞踊の誤記か?)

   焰の舞

番外小唄数十曲(新曲発表)各氏

 

 というとんでもなく長大なプログラムで、新潟での期待度がよく伝わる。一行は大歓迎で迎えられたことだろう。

 

次の画像は新潟新聞9月30日付紙面。公演前に新潟新聞社を訪問した際の撮影で、右端の女性は春野芳子、中央の女性は曽我直子である。

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  • 10月10日 ビクターに「久助の舟」を録音。

 

11月1日

浅草電気館で小唄レヴューに出演。

半年ぶりの浅草出演ということで話題となった。「大島ぶし」「マノンレスコオ」「野球メロディ」「浪花小唄」を歌っている。

 

11月8日

浅草電気館に出演。このときもワンマンショーであるが曲目未詳。

 

  • 12月4日 ビクターに「護れよ祖国」を録音。
  • 12月12日 ビクターに「慶應義塾応援歌」を録音。イントロにカップリングの「大学生活 Collegiate」(作間毅, ラッカンサンジャズバンド 1928年9月14日録音)の一部を援用したアレンジ(編曲=堀内敬三)である。
  • 12月24日 ビクターに「海原千里」を録音。漫才師のようなタイトルだ。
  • 12月28日 ビクターに「千の酒倉」「踊る黒猫」を録音。

 

1929年の活動の詳細は以上である。

1930年から二村定一の活動はさらに繁忙を極める。追ってゆるゆると纏めていきたい。 

 

二村定一のレコード 1

昨年、大阪から東京へ転居しました。東京での仕事も軌道に乗ってようやく身辺が東京という地に馴染んできたのですが、大阪を引き払うときにプロバイダを変更したため、2000年代半ばから長らく使ってきたホームページが消滅してしまいました。 思えばまだ昭和初期の歌謡やジャズソング、二村定一の情報がウェブ上に少なかった時代がわずか10年前。先人の道を辿ってこつこつと年譜やディスコグラフィを作って公開し、ラベル写真を添えて内容紹介につとめたものです。そうした甲斐もあって二村はいまや戦前歌手でもかなりメジャーな人気者となりました。長年の念願であった二村の評伝『沙漠に日が落ちて 二村定一伝』(講談社 2012)を上梓し、ホームページを開設した頃からの仲間である保利透さんとCDを制作するようになってから二村定一の魅力があまねく知られるようになったことは、実に感慨無量です。 旧ホームページ、ミラーサイトは一応ありますが、もうずいぶん情報も古くなってしまっていたのでおさらいの意味も兼ねて、メインテーマであった二村定一のコレクションを一枚ずつ定期的に開陳してゆきたいと思い立ちました。 評伝の内容については新たにはてなブログで補完を始めましたが、レコードに関しては単なるコレクション自慢に堕しないよう、簡単な説明を加えつつこちらで述べてゆきます。 ディスコグラフィーは既に自著に盛り込みましたから新しく作る手間は今のところ省きますが、いずれweb上での公開も視野に入れています。著作を出してから見つけた2,3の録音については、こちらで新たに紹介したいと思っています。たまCDなど覆刻で聴くことができる音源についても紹介します。 でははじまりはじまり。 二村定一の最初の録音から。 『地獄祭り』 Nipponophone 15195/15196 1924(T13) 12月新譜 根岸歌劇団名義であるが、現在確認できる限りで最古の二村定一の録音である。 従来は佐々紅華作のお伽歌劇『あめやさん』がレコードデビューとされていた。このあと1925年から二村定一は陸続とニッポノホンにお伽歌劇を録音することとなる。 『地獄祭り』の内容については『浅草オペラ 舞台芸術と娯楽の近代』(杉山千鶴・中野正昭=編著 森話社)中の「浅草オペラから舞踊小唄まで - 佐々紅華の楽歴」に詳述したので参考にしていただきたい。 また2枚4面の全篇を『和製オペレッタの黎明 浅草オペラからお伽歌劇まで』(ぐらもくらぶ)に収録したので聴くことができる。二村はレコードデビューにして、このオペレッタのかなり目立つ役どころを与えられている。そうしてのちのちまで人気を支えることとなる豊かな表現力をすでに備えている。当時、佐々紅華の書生をしながら舞台に出ていた二村が佐々から嘱望されていたことを示す録音ともいえよう。

二村定一年譜補完計画

昭和3(1928)年の補遺事項

昭和3年の項(p.242)に以下の情報が加わる。

2月5日 

独唱会 (詳細は未詳)

 

6月24日 

「映画と独唱の夕べ」丸の内・時事新報社講堂 主催:静田錦波講演会

この会では『当世娘気質』(西村小楽天)、『蝙蝠草紙』(大和田錦光・小田錦城)、『感激時代』(近江錦堂・静田錦波)が上映された(カッコ内は弁士)ほか、二村定一の独唱、鈴木傳明・松井千枝子・瀧田静枝・田中絹代の御挨拶、というアトラクションが行なわれた。二村が歌った曲目は不明である。

 

昭和3(1928)年のすべて。

昭和3(1928)年の二村定一の活動をより詳しく補足しながら時系列で追ってみよう。

前提として、二村は昭和2(1927)年、独唱会やJOAKの放送オペラ、映画館での独唱/コーラス指導といった活動を通して新進テナー歌手として楽壇に現われている。

 

・1月9日 JOAKで正午より「独唱と管絃樂」の時間に出演。

アタゴオーケストラの伴奏で「ドリゴの小夜曲」「ヴォルガの船頭歌」「スペインの小夜曲」「キャラバン」を歌う。いずれも大正期から得意とするレパートリーであった。

 

・1月20日 日比谷公園大音楽堂で独唱会。この時の曲目は未詳。

 

・2月5日 ふたたび独唱会があったようだが詳細は分からない。

 

・2月23日 JOAKの正午の「ジャズ・フォックストロット七曲」に出演。JOAKジャズバンドの演奏で

1. どうする気なの? What’ll you do

2. 愉快になさい Is Everybody Happy Now

3. 残る思ひ出 Justs memory

4. ビューティフル Beautiful

5. 壁を眺める Four Walls

6. アラビアの唄 Sing me song of Araby

7. みんな私のものだ It All Belongs to Me

を歌唱。「アラビアの唄」だけが大評判になるが、実はこのとき他に6曲もアメリカのポピュラーソングを歌っていたのだ。(原曲名の表記揺れは出典元の新聞記事による)

 

・2月24日〜3月2日

浅草帝国館に一週間、一日2回の幕間アトラクションに出演して「ヴァレンシア」「サヨナラ」を歌う。伴奏は沼田北方(指揮)帝国管絃楽団。

 

・2月25日 

 日本蓄音器商会で「新譯ワ゛レンチヤ」を録音。

 

・3月19日 

 日本蓄音器商会で「雨」「アラビヤの唄」「あほ空」「アディオス」を録音。

 この日付はコロムビアのLPセットのブックレットに掲載された「コロムビア・ジャズ・ディスコグラフィー」に拠るのだが、筆者が監修した同社のCDセット「スウィング・タイム 1928〜1941」では3月10日となっている。CDセットの時もコロムビアからデータを貰ったので、いずれかが誤りということになる。

 

・3月13日〜20日

ひきつづき浅草帝国館に出演。

この時は一日3回出演で、しかも好評だったため19日までの予定が20日までに日延べされた。上映された米ワーナー映画「マノン・レスコオ When a Man Loves(1927)」に因んで「マノン・レスコオの歌」「美しきマノン・レスコオ」「マノンの歌」が歌われた。このときも伴奏は沼田北方(指揮)帝国管絃楽団。なお、新宿武蔵野館での同作上映では中村慶子が歌った。

 

・4月22日〜28日

浅草・電気館でのアトラクション「ジャズバンド演奏」に出演。

電気館のアトラクションは島田晴譽(指揮)松竹大管絃楽団和洋大合奏による「奏楽」と、井田一郎(指揮)電気館ジャズバンドの「ジャズバンド演奏」に分かれていた。二村は井田バンドの演奏で、「フー?」「イエス、サー、ザッツ、マイ、ベビー」「シング・ミー・ア・ソング・オブ・アラビー」「ティティナ」を歌った。

井田のバンドはこの年の春に大阪から上京した。バンド名は当時の文献でも電気館ジャズバンドとチェリージャズバンド(大阪時代のバンド名)が混在し、仲間内ではチェリージャズバンドが正式名称とされていた。

二村定一が井田のバンドに出演するに至った経緯は、

「浅草電気館が松竹の封切館だつた一九二八年、宝塚にゐた井田一郎氏がジャズのメンバアを揃へてステイジ演奏をやる時、外国式に歌手を使つて歌はせろといふので、飛び出したのが僕だつたのです。」(『プロムプタア悲劇』週刊朝日 新春読物号 一九三三)

と述べられている。

 

・4月27日

ニッポノホンより「新譯ワ゛レンチヤ」「あほ空」「アラビヤの唄」が発売される。(5月新譜)

 

・4月29日〜5月5日

上記の電気館デビューがあまりにも好評であったため、同じプログラムで一週間続演された。

この間、二村はほかの映画館にも出演している。

 

・4月27日〜5月3日

芝園館(芝・新堀町)と神田南明座で「マノン・レスコオ」からの歌を独唱。芝園館では伊庭孝の指導(指揮)で天野喜久代との二重唱もあった。渋谷キネマ館でも同じ期間に「マノン・レスコオ」が上映されたが、そちらには二村・天野は出演していない。

 

・4月27日〜29日

木挽町歌舞伎座で井田一郎指揮ジャズバンドと共に出演。曲目未詳。

 

・4月29日〜5月5日

歌舞伎座でも大好評を受けて同じプログラムで一週間続演した。

 

・4月下旬 ニッポノホンより「新譯ワ゛レンチヤ」「あほ空」「アラビヤの唄」発売。(5月新譜)

 

・5月6日〜11日

浅草・電気館に井田一郎指揮ジャズバンドが戻るがこの週は二村はお休み。

 

・5月12日〜17日

浅草・電気館の井田バンド演奏に二村が復帰する。曲目未詳。

 

・5月18日〜24日

浅草・電気館、井田バンド。「スタムペッド」「宵待草」「バレンシア」を歌う。

 

・5月25日〜31日

浅草・電気館、井田バンド。「カレッヂエート」「レザーエッヂ」「ストトン」を歌う。

 

・6月1日〜7日

浅草・電気館、井田バンド。この週は二村が出演しているか分からなかった。

 

・6月7日

有楽町の松竹系劇場・邦楽座で天野喜久代とともにジャズ大会に出演。このときのバンドについては未詳だが楽員20名という大編成であった。

この時は「帰れソ連とへ」「花嫁人形」「アラビヤの唄」「世界の足下に」「愉快になさい」などを歌った。

 

・6月8日〜14日

浅草・電気館、井田バンド。「プロミスミー」「愉快になさい」「感激の歌」を歌う。「感激の歌」は同名の松竹映画主題歌を川崎豊がコロムビアに吹き込んでいるが、同曲だろうか。

 

・6月15日〜21日

浅草・電気館、井田バンド。「バイ、バイ、ブラックバード」「ハワイアンラブソング」を歌う。

 

・6月24日

「映画と独唱の夕」時事新報社講堂(丸の内) / 静田錦波後援会

 この会については冒頭に詳しく記した。

 

・6月22日〜7月6日

この間、電気館でのジャズ演奏は行なわれなかった。というのも、なんと井田一郎のチェリージャズバンドのメンバーが全て井田の許を去ってしまい、新しくバンドを組む必要があったからである。バンドメンバーの変遷については「沙漠に日が落ちて」か「ニッポン・スウィングタイム」をご参照いただきたい。

 

・6月下旬 オリエントより「枯れ枯れ」発売。(7月新譜) この「枯れ枯れ」は大正15年11月新譜のニッポノホン録音の再発である。

 

・7月7日〜13日

浅草・電気館、井田バンド。新しい編成の井田バンドでジャズ演奏が再開される。二村は不出演で、天野喜久代が「青空」「ヴァレンシア」「ハバナ」を歌った。

 

・7月12日 

日本蓄音器商会に井田の新チェリージャズバンド、天野喜久代とともに「ストヽン節」「木曽節」を録音(天野との共唱はストヽン節のみ)。

井田のバンドはこの時は「松竹ジャズバンド」を名乗っている。電気館が松竹系の映画館だからだ。なお同日、井田一郎(指揮)松竹ジャズバンドと岩田定子によって「安来節」「磯節」「小原節」が録音されている。かつてこれらは二村の変名盤とされていたが全くの別人である。

 

・7月14日〜26日

浅草・電気館、井田バンド。「エロー・アロハ」「佐渡おけさ」「テルミー」を歌う。

 

・7月27日〜8月2日

浅草・電気館、井田バンド。「リオ・リタ」「チャイニーズムーン」「木曽節」を歌う。

 

・7月下旬 ニッポノホンより「アディオス」「雨」発売。(8月新譜)

 

・8月3日〜9日

浅草・電気館、井田バンド。「ペルシャン・ラグ」「冬来たりなば」「ティティナ」を歌う。

 

・8月9日

JOAKより伊庭孝=作のラジオリヴュー「ファウスト・イン・ブルウ」(全7景)を放送する。ゲーテの「ファウスト」をレヴュー化した作品で、二村は老博士役の主役。ほかには木村時子、天野喜久代、黒木憲一、波島章二郎が出演し、福田宗吉(指揮)JOAKジャズバンドが演奏した。

 

・8月10日〜16日(?)

浅草・電気館、井田バンド。蒲田映画「彼と田園」主題歌を歌う。

 

 ・8月中旬に二村定一と天野喜久代、立教大学の学生バンド「ハッピー・ナイン・ジャズ・バンド」がニットーレコードの東京スタジオで「浅草行進曲」「アルゼンチンの踊」「第七天国」「リオリータ」「スペインの思出」などを録音する。

この東京スタジオは後に神田の九段下ビルに構える大スタジオと異なって狭苦しく、真夏の吹込みでは往生したという。

 

・8月24日〜30日

浅草・電気館、井田バンド。「モンナ・ヴンナ」「バルセロナ」「カタリナ」

 

・8月31日〜9月6日

浅草・電気館、井田バンド。「ダイナ」「モンナ・ヴンナ」「ボルガの薔薇」というプログラムだが、二村も出ているのか曖昧である。

 

・9月5日

日本蓄音器商会へ、天野喜久代とともに「バルセロナ」「ハレルヤ」を録音する。この時のジャズバンドは市販レコードには「東京ユーナイテッド ジャズバンド」と印刷されたが、コロムビアの資料によれば井田一郎(指揮)松竹ジャズバンドということである。

 

・9月13日

ビクターへ「ストトン」「木曽節」「青空」「アラビアの唄」を録音。演奏は井田のバンドだが、7月の改変から更にメンバーが一新されている。ビクター録音時/ビクター関連の実演の折は「日本ビクタージャズバンド」と名乗ることとなる。

 

・9月14日〜20日

浅草・電気館、井田バンド。「カンヂスの明月」「カタリナ」「ハレルヤ」を歌う。

 

・9月20日

ビクターへ「笑ひ薬」「平凡節」を録音する。「平凡節」は佐藤千夜子との共唱であるが、市販レコードには名が記されなかった。

 

・9月21日〜27日

浅草・電気館、井田バンド。14〜20日と同じプログラム。

 

・9月28日〜10月4日

浅草・電気館、井田バンド。「レイン」「バルセロナ」「ヴォルガの船歌」

 

・9月下旬 ニットーより「浅草行進曲」「アルゼンチンの踊」発売。(10月新譜)

 

・10月1日 

ビクターから「ストトン」「木曽節」「青空」「アラビアの唄」発売(10月新譜)

 

・10月1日

ビクターへアーネスト・カアイ・ジャズバンドとともに「ハワイの唄」「アマング・マイ・スーヴニーア」「ウクレルベビー」を録音。

ビクター台帳に録音日が記録されていない「ブラームスの子守唄」「荒城の月」も或いはこの時の録音かもしれない。

 

・10月5日

ビクターへ井田一郎(指揮)日本ビクタージャズバンドとともに「佐渡おけさ」「新磯節」「君恋し」「ヴォルガの船唄」を録音

 

・10月5日

JOAK 19:25〜

「喜劇の夕」全3作中の第2作 放送リヴュー「東京莫迦」(伊庭孝=作)に出演。

二村以外の出演者は天野喜久代、木村時子、波島章二郎、谷五郎、石田守衛、和田弘、柳文代、明石須磨子、冨士野登久子、吉野八重子。井田一郎(指揮)松竹ジャズバンドの演奏。この放送レヴューで歌われた「AさんBさん」「愛の古巣」は天野喜久代がコロムビアでレコード化している。

 

・10月5日〜12日

浅草・電気館、井田バンド。前週と同じプログラム。

 

・10月13日〜19日

浅草・電気館、井田バンド。「アイルランド」「新磯節」「オリエンタル・ジャズ」予告記事には二村の名は無い。

 

・10月20日〜26日

浅草・電気館、井田バンド。「ホット・シート」「サキセマ」(サックス独奏)「新磯節」この週も新聞の予告には二村の名が無い。

 

・10月27日〜11月2日

浅草・電気館、井田バンド。「ソニア」「都を離れて」「君恋し
この回で録音したての「君恋し」が披露されることに注意。

 

・10月下旬 ニッポノホンより「バルセロナ」「ハレルヤ」発売。(11月新譜)

 

・10月下旬 コロムビアより「木曽節」「ストヽン節」発売。同時に「新譯ワ゛レンチヤ」「あほ空」「アラビアの唄」を再発売。(いずれも11月新譜)

 

・10月下旬 ニットーより「第七天国」発売。(11月新譜)

 

・11月3日〜9日

浅草・電気館、井田バンド。「ソニア」「ウクレレベビー」「出船の港」を歌う。

 

・11月10日〜16日

浅草・電気館、井田バンド。「ワンステップ・ツー・ヘヴン」「出船の港」「ヘドラスカ」「栄冠の歌」(映画「陸の王者」主題歌)

 

・11月17日〜23日

浅草・電気館、井田バンド。「スヰーチスト・ガール」「出船の港」「リオ・リタ」を歌う。

 

・11月下旬 ニットーより「リオリータ」「スペインの思出」発売。(12月新譜)

 

・12月1日

ビクターから「ハワイの唄」「アマング・マイ・スーヴニーア」「笑ひ薬」「平凡節」「新磯節」「佐渡おけさ」発売。(12月新譜)

 

・12月1日〜7日

浅草・電気館、井田バンド。「ムーンライト、エンド、ローズ」「スパニッシュ、エスパニョル」を歌う。

 

・12月11日〜17日

浅草・電気館、井田バンド。「アイム・ソーリー・サリー」「白帆」「当世銀座節」を歌う。

 

・12月20日

ビクターから「君恋し」「ヴォルガの船唄」発売。(1月新譜)

 

・12月20日〜25日

浅草・電気館、井田バンド。11〜17日と同じプログラム。

6日間という半端な日数なのは、26日から松竹映画の上映が浅草・観音劇場に移るためである。井田のバンドも観音劇場に引越し、電気館の奏楽は近藤正(指揮)電気館管絃団が引き継いだ。

 

・12月26日〜

浅草・観音劇場、井田バンド。「応援歌」ほか。

 

・12月29日

JOAK 正午12:05〜「ジャズの時間」に出演。JOAKジャズバンドの演奏で「さびしい影」「昨日のバラ」「流れの浮木」「都離れて」(いずれも伊庭孝訳詞)を歌う。

 

以上でこの年は終わりである。

 

電気館での演目はバンド演奏と二村のボーカル入りとが混在しているが、便宜上、予告に載ったタイトルをそのまま写した。

ラジオや浅草・電気館で歌ったレパートリーは、初期の二村レコードにけっこう多く残されている。初期の二村レパートリーが実演の演目からレコード化されたことがよく分かるので、年譜を眺めながら聴くのもまた一興である。以下のCDにこの頃の二村レパートリーが収められている。

 

「スウィング・タイム」(日本コロムビア)には「あほ空」「アラビヤの唄」を、「私の青空二村定一ジャズ・ソングス」(ビクターエンタテインメント)には電気館で井田一郎のチェリージャズバンドと歌った多くのナンバーを収録した。ぐらもくらぶの「帰ってきた街のSOS!」と「大東京ジャズ」では、ニットーレコードに吹き込んだレパートリーがほぼ全て聴けるし、ビクターのCDに入れられなかった電気館ナンバーも補完できた。

 

(続く)