ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

前野港造と高見友祥

 最近、ふとしたきっかけで戦前派ジャズメンのサックスプレイヤーの聴き分けに挑戦している。ちなみにトランペットの方は南里文雄、橘川正、小畑光之、小畑益男、森山久をメインにメジャーレーベルのプレイヤーくらいなら判別ができるようになった。お次はサックスを、というわけである。ゆくゆくは戦前ジャズのレコーディングテーブルを網羅したホット・ディスコグラフィーに纏めたい。  堀内敬三の「ヂンタ以来」などによると、日本に於けるジャズのサックスプレイヤーの先駆けは前野港造ということである。一つの時代というのは同期的に同じ事象がぼこぼこと現われるのが常であって前野が絶対的に日本初のジャズサキソフォニストなのか否かにはまだ研究の余地が残されているが、前野がもっとも初期にジャズのフィーリングを会得し、日本で初めてサックスのためのナンバーをレコードに吹き込んだのは間違いの無い事実である。  二村定一の研究を標榜するとあるブログに、二村定一のビクター録音「夕となれば」に現われるアルトのソロが前野港造だ、という記述があったので、果たして本当にそうなのか検証をしたいというのがそもそものきっかけだが、お蔭で井田一郎バンドの高見友祥、コロムビアで数多くのソロを残した蘆田満、それから前野の演奏上の特徴を知ることができた。  前野港造は岡山出身。1915年(大正4)、18歳で単身上京し、映画館オーケストラやチンドン屋に楽員を手配する浅草のバンド屋に身を預けた。そこから銀座金晴館で演奏していた波多野福太郎のハタノ・オーケストラにクラリネットで加わり、波多野の勧めでサックスに転向。「船の楽隊」に加わってサンフランシスコでセルマー製のサックスを購入した。関東大震災後は大阪に移り、道頓堀の松竹座管弦楽団、JOBKオーケストラなどで演奏しつつ灘萬食堂の灘萬オーケストラ、赤玉食堂の赤玉オーケストラを率いた。彼は大正末期にはすでにジャズサックスのさきがけとして有名だったので、昭和初期のジャズブームには関西の各レーベルのレコード録音に呼ばれたり、主要なダンスホールのメンバーに招かれたりした。自分のバンドを持ってからは海外のストックアレンジを蒐集して、最新のジャズアレンジの傾向を研究した。その学究的な姿勢に影響を受けて、前野の許から服部良一が育ったのである。  前野港造のサンプルとしたのは、前述のニットー録音「ホリウッド “Holly Wood”(1925年1月新譜)である。このナンバーは、ポール・ホワイトマン楽団のサキソフォニストでごく短い期間ながら天才的な才能を演奏と作曲に発露したルディ・ヴィードーフ Rudy Wiedoeftの作品である。ピアノ伴奏者が記されていないが、これは塩尻精八のようだ。  ところで話はそれるが、ヴィードーフの「サキソフォンニハトリ "Rubenola"」も新野輝雄がレコーディングしており(テイチク 1936年12月新譜)、両者を聴き比べると日本のサックスが僅か10年の間に飛躍的な上達を遂げたことが判る。  架蔵盤を当たってみたところ、前野のソロに合致する特徴をそなえていたのはニットー録音の松竹座ジャズバンド名義の「アンゼラミア Angela Mia”」「西瓜割り “I’m gonna bring Watermeron to My Girl tonight”」などであった。それから、ニットーで1929年に録音された内海一郎の一連のジャズソングは、前野港造指揮のニットー・ジャズバンドが伴奏しており、前野も当然ながらアルトやテナーで加わっている。「行進曲紐育」に出てくるソロは前野で、前述「アンゼラミア」とおなじ、渋く上品な奏風を見せている。  前野の演奏はおっとりしたスタイルで、テクニック上、目を驚かすような要素は小さい。いささか古いスタイルの奏法であるのは否めない。だが、ゆったりしたテンポながらその演奏は滑らかさに貫かれており、粋な味わいがある。和気藹々とした堅実なアンサンブルを好んだ前野港造の人柄を語るようなサックスである。  前野は大正期のニットー、昭和初期のバタフライにソロを録音したほか、前述のようにニットーとコロムビア関西文芸部(大阪)で多くのジャズバンドに加わった。コロムビアの大阪スタジオで吹き込まれたディスクはコロムビア、オリエント、ヒコーキの各レーベルから発売されていた。ラベル上でK.Mジャズバンドと記されたものは前野港造のバンドで、それ以外は前野がサックス要員としてよせ集めのレコーディングバンドに加わったものである。なおK.Mジャズバンドは初期のテイチクにもMKジャズバンドの名で録音している。  ちなみに前野は1925年、千日前ユニオンで井田が組織していた「チェリーランド・ダンス・オーケストラ」で演奏していたことはあるが、1928年の東上組には加わらず、ニットー東京スタジオでレコーディングをする以外は大阪で活動した。したがって二村定一と井田一郎バンド(チェリー・ジャズバンド)のレコーディングに加わった可能性はきわめて低いと言わざるを得ない。  「夕となれば」を含め、井田一郎と「日本ビクター・ジャズバンド」名義のほとんどの録音に加わっているのは、高見友祥であった。 高見友祥も前野とおなじく岡山出身。1919年(大正8)、上京してやはり波多野に入門しハタノ・オーケストラに加わる。1922年(大正11)、井田一郎の誘いで宝塚オーケストラに入り、井田とともに「ラフィングスターズ」「松竹座ジャズバンド」を結成。その後、井田とくっついたり離れたりしながら昭和初期のジャズブームを牽引した。戦後、政照と改名。  高見の演奏のサンプルとしたのは録音のタイムテーブルが明らかな「アラビアの唄」「青空」「ストトン」(1928年7月録音)などである。 高見友祥のサックスは濃厚な雰囲気をまとい、メリスマを効果的に用いることで非常に特徴的な演奏をする。指がよく回り、テクニックも同時期のフィリピン系プレイヤーを別にすれば第一流の腕前である。たとえば井田一郎が完膚なきまでに緻密な構成をほどこした二村定一の「君恋し」では高見のアルトが氏名未詳のテナーとともに重要な役割を果たすが、最後にワンフレーズ現われるソロの存在感はいかばかりだろう。(「君恋し」のアレンジについては「ニッポン・スウィングタイム」の連載で簡単なアナリーゼを行なったのでそちらをご覧頂きたい。)  高見友祥の聴かせどころは多い。ビクターの「エスパニョール」ではアルトを氏名未詳の人物に任せ、高見はテナーを担当している。(このアルトは生硬であまり良くない。)ポリドールで録音した同曲「スパニッシュ・セレナーデ」ではアルトとテナーの持ち替えをしており、アルトを聴き比べると、ビクター版との演奏の差が歴然としている。ビクターの「雨の中に唄ふ」でもアルトとソプラノを持ち換えしている。冒頭のインストではストレートに奏でるが、二村のヴォーカルにオブリガートをつける箇所ではメリスマを利かせ、楽曲の引き立て方に工夫を凝らしていることが分かる。二村以外の録音では、佐藤千夜子の「愛の調べ "Where Is the Song of Songs for Me?"(1929年5月新譜)で、ねっとりとまといつくような情緒豊かなソロを聴かせてくれる。井田一郎バンドは1929年から30年の一年間、ポリドールでもレコーディングを行なったので、たとえば青木晴子の「アフガニスタン 」(“Afghanistan”(1930年6月新譜)などにも高見のソロを聴くことができる。  1929年秋、コロムビア・ジャズバンドが結成された当初、高見はファーストで加わっていたが比較的早く脱退した。雑に聴いたところでは、とりあえず「恋と女」(曾我直子 1930年7月新譜)のソロにすこし高見とテナーの橋本淳が出てくるのを確認した。  高見友祥が抜けたあとの1stサックスは蘆田満が受け、のち、テナーの名手・松本伸が1stに入るとセカンドとなって活躍を続けた。二村の録音だと、「スタインソング」「暁の唄」のアルト、「エロ草紙」のクラは高見ではなく蘆田満である。蘆田の代表的なソロには、バートン・クレーンの「雪ちゃんは魔物だ」や川畑文子の「泣かせて頂戴」などが挙げられよう。淡谷のり子の「エロ行進曲」(1931年4月新譜)の間奏に挿入される「ティティナ “Titina”」も蘆田のソロだ。