ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

二村定一の「新調ステテコ」

「新調ステテコ」(木下潤作詞, 近藤十九二作曲)

 二村定一, タイヘイダンスオーケストラ

 1934年11月新譜

 二村定一は昭和初期、ジャズソングの覇者として認識されていたが、発声法や歌唱の微妙なゆらぎには端唄・小唄、俚謡の影響がみられた。邦楽的な要素の含まれた楽曲を大正期から数多く歌い、全盛期にも民謡をフォックストロットに仕立てたジャズ民謡をレパートリーとしている。しかし、井田一郎バンドと組んで吹き込んだジャズ民謡などではその邦楽的な発声がジャズバンドの演奏と齟齬をきたし、二村に取っては決して得な効果をもたらさなかった。

 その邦楽の傾向が強く現われたのがコロムビアからリリースされた「豆の枝づる」(1930年10月新譜)やポリドールの「活惚れ」(1932年7月新譜)などで、彼の歌唱力の根幹が日本的な歌謡にあったことを強く感じさせる。全盛期から二村の小唄趣味は有名で、三味線を爪弾きながら軽く唄うことなどお手のもの。AKから小唄のラジオ放送もしている。この「新調ステテコ」も、二村の邦楽レパートリーの重要な一曲である。

 二村定一のタイヘイ録音は、彼の楽歴にマイルストーン的な役割を果たす、興味深いシリーズである。

 タイヘイは関西に於いて、大阪住吉のニットーと勢力を二分するメジャーレーベルであった。前身の内外蓄音器時代から浪花節や落語、俚謡など大衆芸能で販路を確保しており、1930年にタイヘイに改組発展してからもその路線は変わらなかった。内外の後期からジャズバンド、ジャズソングのレコードも作りはじめ、その路線もまたタイヘイにも引き継がれた。二村定一は1931年、1934年、1936〜37年の三期にわたってこのレーベルに録音している。その各々についてはここでは述べない。

 34年に録音された4曲のうち、2曲は新民謡「伊那節」、ジャズ民謡「佐渡おけさ」で、この「新調ステテコ」もジャズ小唄と銘打ってはいるがジャズソングよりは小唄の要素の強い一曲である。歌詞には高速鉄道、地下鉄、飛行機、ラジオといったスピード時代が反映しているが、三番で櫻に富士というおなじみのテーマを取り上げ、古典的な小唄に回帰している。コロムビア、ビクターで吹き込んだ「ストトン」「新磯節」などが一番はオリジナルで、ニ番歌詞に当世流行の風俗を取り込んだのとは逆のパターンである。

 作曲は関西で活躍し、一時はメジャーレーベルに食いこんだ近藤十九二のオリジナルのようだ。タイヘイダンスオーケストラは

 アルト、トランペット、バンジョー、ドラムス(スネア)、鳴物、ストリングス、三味線

 という編成。6/8のトロットとはいうがバンジョーとアルトサックスのソロがほんの少し顔を出す以外、バンド演奏には重点がおかれておらず、ひたすら二村の歌唱を楽しむディスクである。

 その二村の歌唱は、流行歌手のスタイルとは大きく趣きを異にしている。メリハリの効かせ方、小唄のリズム感覚、メリスマの巧みさ、声の侘びさびは、二村が小唄の名取りクラスであったという伝聞を裏付けるのに十分である。タイヘイで録音した民謡「伊那節」「佐渡おけさ」も、井田一郎バンドと組んで録音したジャズ民謡が西欧風に声を響かせる発声であったのに対して滋味深くじっくりと歌うスタイルであり、彼のディスク群のなかでは異質な一群となっている。タイヘイの録音システムがウェスターンに交替した直後の録音で、二村の声の陰影がよく捉えられているのも良い。

 掲出のディスクの旧蔵者は踊りの師匠であったが、邦楽の要諦を踏まえた歌唱としてこの盤を長らく珍重して手本にしていたということである。