ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

曽我直子の「月の沙漠」

井上起久子の録音に就いて早く述べたいのですが、今月も関西発ラジオ深夜便「SP盤コーナー」で取り上げるレコードを紹介します。10月10日am.02:05〜。 「月の沙漠」(加藤まさを作詩,佐々木すぐる作曲・編曲) 浅香つる江-vocal, 佐々木すぐるcond.ジャズバンド伴奏 ヒコーキ 1930年1月新譜(1929年録音) この有名な童謡についてはすでに充分な情報がウェブ上でも得られる。挿絵画家の加藤まさをが1923年(大正12)、「少女倶楽部」に挿絵附きの詩を発表。病気療養のために滞在した千葉県の御宿海岸の風景に発想を得たため、「沙漠」は「砂漠」ではなく砂浜を意味する「沙」の字が使われたのだという。 この詩に佐々木すぐるが作曲。諸情報では詩の発表年とおなじ1923年に作曲され、音楽教育の現場で用いられた。作曲年月はやや曖昧である。24年(大正13)から佐々木が発行していた教育音楽楽譜「青い鳥楽譜」シリーズの一篇として出版され、27年(昭和2)にJOAKから放送されて広く知られた由である。 レコード化は、従来、32年6月新譜の井田一郎編曲・柳井はるみ(=松島詩子)吹き込みのヒコーキ盤が初出とされているが、おなじヒコーキの浅香つる江盤の方が2年も早い。 このレコードを含め、曽我は「椰子の実」「青い鳥」「ねんねのお里」の4曲、佐々木すぐる作品を吹き込んでいる。興味深いのは作曲者の佐々木すぐる自身が指揮するジャズバンドが伴奏している点で、あるいは初録音の意気込みとでもいうものがあったのかもしれない。ただしジャズバンドとはいうものの、その実態は弦楽とブラス主体の小アンサンブルで、ジャズの要素は限りなく小さい。 浅香つる江=曽我直子は本名、岡田田鶴(たづ)(1905-95)。豊橋市出身。 淡谷のり子、青木晴子とおなじく東洋音楽学校声楽科出身で、本来、正統派の声楽家を志していたという。 帝国劇場歌劇部の研究生を経て、帝劇女子管絃楽団でアルバイトとしてクラリネットを吹いていたが、昭和初期に歌手に歌手に転身。帝国劇場との契約上、本名の岡田田鶴の名が使用できないため、曽我直子という芸名で活動した。また、ほぼデビュー時からコロムビアとヒコーキレコードで浅香つる江の変名も用いている。最初期のレコードには名前すら出ていないが、やはり帝劇との兼ね合いからだろう。 1928年(昭和3)から30年(昭和5)にかけてニッポノホン、コロムビア、ヒコーキに旺盛に吹き込みをし、天野喜久代、井上起久子、河原喜久恵らとともに女声歌手のレギュラー陣となった。「ジャズソングの女王」と謳われた割りにジャズソングは少なく、海外曲は「南へ南へ "Down South"」「夢の恋人 "I’m a Dreamer aren’t we all?"」「夢の家 "Dream House"」がある程度である。ただし杉山長谷夫や佐々木すぐるの抒情歌や堀内敬三の映画主題歌、流行小唄などをジャズバンド伴奏で歌って、そのヒット率が高かったため、ことさらに「ジャズソングの女王」に祭り上げられたものと思われる。レコードリリースと同時に浅草電気館など松竹系劇場のアトラクションに二村定一淡谷のり子などと出演し、人気を煽った。 1929年(昭和4)から30年(昭和5)にかけて映画主題歌、流行小唄、新民謡を多く録音した。川崎豊とのデュエットによる「沓掛小唄」「蒲田行進曲」、独唱の「金のグラス」「麗人の唄」「尖端的だわね」がそれぞれヒットし、とりわけ「麗人の唄」はコロムビアに河原喜久恵盤があるにもかかわらず、ニッポノホンで曽我による2種類の吹き込み盤(うち1種は川崎とのデュエット)が作られるほどの人気を示した。 ヒット曲を連発したことで彼女の人気は一気に盛り上がったが、その後は関種子、丸山和歌子、渡邊光子、淡谷のり子コロムビア女声陣の充実とともにいち早く消えていった。30年(昭和5)、結婚を機に人気絶頂でレコード歌手から引退したためである。 とりわけ同時期にデビューした東京音楽学校出身の河原喜久恵は曽我と似通った個性を持っており、曽我よりもさらに安定した技巧とメリハリを有していた。曽我の引退した30年に河原が放った「ザッツ・O・K」(30年8月新譜)の大ヒットを契機に、曽我の人気は河原喜久恵に継承されたといってよい。 曽我の歌唱は女性らしい繊細さと伸びの良さ、楽譜に忠実な点が特徴として挙げられる。晩年の藤山一郎氏に伺ったところ、「楽譜に忠実に歌われた方でした」という藤山氏らしいコメントを頂戴した。その発声は、邦楽の素養が影響しているのではないかと思われるが、声に鼻にかかったか弱い色気があり、川崎豊の男性的な力強いテナーと好対照であった。写真を見てもすんなりした線の細い美人で、いかにも恋に思い悩む女の唄にふさわしい容姿である。ご遺族から聞いた話では、実際たいへんよくもてたという。 曽我直子はもともと声楽家志望であったのだが、当時のクラシカルな声楽家の多くがそうであるように、経済的な理由から流行歌吹き込みのアルバイトを余儀なくされた。ごく少量ながら抒情歌・歌曲を録音することができた曽我はまだ恵まれていた方であった。 オペラの舞台やクラシカルな曲目による独唱会の経験はないが、声質は叙情性に富んだリリコ・ソプラノであり、マイクロフォンを駆使したフレキシブルな感情表現も心得ていた。ほかの昭和初期の歌手にもいえることだが、これも先に触れたように邦楽の発声法を心得ていたからではないだろうか。何度もテイクを重ねた「忘れな草」は彼女の吹き込みで一、二の傑作。また「夜の柴笛」「月の沙漠」などの抒情歌も、同時代の天野喜久代、井上起久子、青木晴子らとは異なる魅力ある個性をうつしだしている。 全盛期には「ジャズソングの女王」と喧伝されたものの、実演で顔を合わせることが多かったためか声楽家、オペラ歌手に知己が多かったそうである。浅草オペラ出身の清水金太郎や、同じ東洋音楽学校出身の淡谷のり子と交流があり、特に淡谷とは戦後までつながりがあった。(しばしばレコードで共演をした川崎豊もオペラ志望のテナー歌手で、イタリア留学費用を捻出するために仕方なくレコード吹き込みをしていた。このコンビのレコードは、昭和初期の洋楽壇の厳しさをうつし出す鏡でもあるのだ。) 舞台での公演活動についてはあまり詳らかではないが、全盛期に全国を巡演したほか、戦時中には軍の慰問にも加わった。中国大陸で慰問を行ない、原子爆弾が投下される直前の広島でも慰問活動を行なった。 戦後は保母さんのようなことをしながら、音楽を教える道を選んだ。晩年まで個人経営の音楽教室で歌やピアノを教え、音楽家として生き抜いたのであった。1995年7月24日歿。