ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

チェリーランド・ダンスオーケストラ

 東欧に起源をもつ音楽、クレズマー Klezmer musik は世界中に伝播し、それぞれの国に根付いたり、その地の音楽と融合して新たな発展を遂げたりした、流浪の音楽文化である。日本でクレズマーが認知されるようになったのは1970年代、小泉文夫氏のフィールドワークによるところが大きいのではないかと思うが、それ以前、戦前すでにクレズマーの影響下にある音楽、あるいはクレズマー風の演奏技法が日本に流入していたことはあまり知られていないと思う。 「恋は曲者」"Here Lies Love"(Ralph Rainger)  長津彌(ひさし)編曲・指揮 チェリーランド・ダンスオーケストラ  長津彌は、のちに「十三夜」や「名月赤城山」などヒット作を頻出した長津義司の駆け出し時代のネームである。長津は楽歴の初期、関西・関東のインディーズレーベルを舞台に複数のネームを使い分けて編曲と音楽監督に勤しんでいた。  ことに京都のショーチク(昭蓄)には、自身のアレンジと指揮で少なくとも二十数面のチェリーランド・ダンスオーケストラ盤がある。その選曲はメジャーレーベルの安全パイ狙いの無難な企画とは異なり、当時のダンスオーケストラのセンスと演奏水準を測るうえでたいへん役立つディスク群である。  チェリーランド・ダンスオーケストラというと井田一郎が編成した同名のバンドが思い浮かぶが、名前を継承しているだけでメンバーや編成の異なる別団体である。サックス二、ブラス二、リズム三というのが標準的な編成で、録音の都度プレイヤーの顔ぶれも異なる。アンサンブルが整っておらず、スウィングする意欲は買われるが技巧がついてけずに空回りする演奏が多い。  「恋は曲者」の原曲"Here Lies Love"は、ビング・クロスビーの1932年のナンバーで、米Victorにはレイ・ノーブル楽団の録音もある。1930年代に映画音楽を数多く手がけたラルフ・レインジャーのヒット作である。そのグルーミーなメロディーは、実は一曲のクレズマーが基となっている。「ドイナ Doina」という、日本語で言うと「嘆き節」、悲しい歌である。1920年代にアメリカで活躍したクレズマーのクラリネット奏者、ナフチュール・ブランドヴァインNaftule Brandweinが1923年、米Victorに"Doina and Nachspiel"を吹き込んでおり、この時点で少なくともレコードによってアメリカにこのメロディーが齎されていたことになる。(この演奏は"Oytsres – Treasures Klezmer Music 1908-1996"(WERGO SM16212)というCDに収録されている。)ラルフ・レインジャーはユダヤ民謡を白人の好みに合わせてリファインし、白砂糖のように口当たりのよいメロディーとして流行歌に用いた。  ナフチュール・ブランドヴァイン  チェリーランド・ダンスオーケストラ盤は1935年の録音ではないかと考えられるが、日本へは単純にアメリカのヒットナンバーとして伝来したに過ぎず、演奏もクレズマーを意識したものではない。このナンバーがクレズマーに基づくものだということも恐らく当時のプレイヤーは知らなかったであろう。ドイナを奏でるそこそこ達者なトランペットや朴訥なテナーからはユダヤ風の響きが漂ってこない。  むしろそれ以前、二村定一榎本健一の掛け合いにコロムビア・ジャズバンドが競演した「エロ草紙」で高見友祥が吹いたクラリネットの方がよほどクレズマー風である。ただし、そのクラは大正期に来日したローヤル・ジャズバンドのディスクの模倣と思われるので、いずれにせよ戦前に日本人がクレズマーというものを正確に把握していたかどうかは甚だ疑問である。日本人はクレズマーをクレズマーと意識せず、またほかの国の土着の音楽も「珍しい民族音楽」として易々と受け容れた。ワールドミュージックが一気にブームとなり定着した土台には多様な音楽を咀嚼する民族性があったのである。  日本に伝来したクレズマーについては、ご縁があってユダヤ文化関連の研究会でゆるやかに纏めさせていただいた。また、来年に上梓される予定の次著でもすこし述べた。クレズマーに限らず、日本洋楽史と世界音楽の関わりは個人的にたいへん興味深いテーマである。