ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

四ホール連盟ダンスオーケストラ

戦前、大阪府兵庫県をむすぶ国道四号線の兵庫県側、尼崎から西宮にかけて、中規模・大規模なダンスホールが林立していた。尼崎に尼崎ホール(1927年開業)、キング(29年)、パレス(30年)、杭瀬ホール(30年頃。33年に「タイガー」に改装・改称)の四大ホールがあり、西宮には「ガーデン」、「西宮」(31年)があった。 その一方、大阪府内には一軒のホールもなかった。大末期、大阪では道頓堀、千日前を中心としてダンスホールが繁盛した。だが、こともあろうに大正天皇崩御とクリスマスイヴが重なった夜、徹宵さわいで踊り続けたため大阪府警の逆鱗に触れて非常に厳しい弾圧を浴びることとなったのである。大阪市内でもユニオンだけは最後まで抵抗を示したが、1930年までに全てのダンスホールが営業禁止となった。もともと大阪府警はむしろダンスホールには寛容な態度を示していたのだが、このように厳しい態度に豹変した裏面には、料亭組合、商工会議所、府議員をめぐる利権が絡んでいたともいわれる。 弾圧されたダンスホールの経営者たちが次に目をつけたのが、ダンスに対する規制が緩く土地も安い尼崎、西宮であった。広い土地を使うことが出来たため、繁華街の真っ只中に店を構えた時代よりダンスホールは巨大化し、ダンスバンドも精選されたプレイヤーをそろえて、ときには10名以上の大編成をとるようになった。「パレス」の場合、平茂夫、中澤寿士、浦郷(橘川)正らによるコンボと長谷川顕のコミックバンド、タンゴバンド、絃を入れたダンスオーケストラがチェンジングバンドとして稼動していた。 西宮の「ガーデン」には前野港造のバンドが、また「西宮」には服部良一のバンドが出演していたが、前野は昭和10年代半ばには「パレス」の浦郷バンドに出演していたし、服部良一も昭和6,7年に「西宮」でバンマスをしながらサックス奏者として「キング」にも出演していた。中澤寿士も「杭瀬ホール」「パレス」を掛け持ちしていた。このように、関西のダンスホールはプレイヤーがどのホールも一定の顔ぶれとなる傾向があった。 尼崎の四大ホール「尼崎」「杭瀬」「キング」「パレス」には殊に優れたプレイヤーが集中しており、1934年に、四大ホールの選抜メンバー12名により「四ホール連盟ダンスオーケストラ」が結成された。そのメンバーは  ヴィディ・コンデ(sax, cond)、グレゴリオ・コンデ(sax)、レイモンド・コンデ(sax)、テオドロ・ジャンサリン(tb)、ジョニー・ハーボットル(guitar,vocal)、トニー・アレヴァルロ(piano, arr.)、中澤寿士(tb)、安井清(tb)、ジミー原田(drums)、平川銀之助(bs)、岡田利典(vn, cond)ほか    という顔ぶれで、バンドの中核をコンデ兄弟らフィリピン系プレイヤーが占めていた。彼らは1934年11月に「ホール連盟ジャズオーケストラ」の名でJOBKに出演したほか、テイチクに6面のレコード録音を行なった。 「ベニスの謝肉祭」"Carnival of Venice”は、パガニーニの原曲をトニー・アレヴァルロがアルトサックスのためにアレンジし、ヴィディ・コンデがソロを取っている。間奏を挟んで変奏を第三変奏まで重ねているが、豊かな音で技巧的にも流麗である。ヴィディは「パレス」でカウント・ヴィディと名乗ってバンドを率いていたほか、この四ホール連盟ダンスオーケストラの指揮も行なっている。(テイチク録音ではヴィディと岡田利典が指揮をしている) 四ホール連盟のテイチクへの録音では「ハットスタッフ」”Hot Stuff”がミディアムなナンバーながらよく練られたアンサンブルで、アドリブソロやサックス合奏も充実しており、関西のジャズシーン最高峰を伝えてくれる。四ホール連盟をクライマックスとして、その後コンデ兄弟や中澤寿士らは東京を活躍の場に移すこととなる。 関西で活動したバンド、プレイヤーについては引き続き述べてみたい。