ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

東京のジャズバンド

フィリピン系バンドが来日し、日本人がよちよち歩きながらフォックス・トロットとジャズの演奏に踏み出した大正末期、日本のジャズの中心地は関西であった。

これは前にも記したようにダンスホールとその客とともに、伴奏音楽を演奏する楽士たちも関西に移ったからである。

では、その間の東京のジャズバンドはどんな演奏をしたのであろうか?

昭和のジャズブームの幕開けを飾ったもっとも初期のレコードは、コスモポリタンノベルティー・オーケストラが1928年、ニッポノホンに吹き込んだ一連のジャズソングである。以下のような録音がある。

ティティナ Titina         少女合唱

16842b / 15.Feb.1928

ワ゛レンチヤ Valencia       三輪慎一

16842a / 15.Feb.1928

フゥー Who?             深沢五郎

17155a / 15.Feb.1928

ドリゴネスク

17155b / 26.Apr.1928

荒城の月 

16883a / 15.Feb.1928        

ユカレレ・ベビー Uklele Baby

16883b / 15.Feb.1928

荒城の月

16883a / 18.Apr.1928

ユカレレ・ベビー

16883b / 18.Apr.1928

印度の子守唄 Indian Cladre Song 天野喜久代・三輪真一

17074b / 26.Apr.1928

思ひ出 My Amoung Souvenir   天野喜久代

17074a / 26.Apr.1928

コスモポリタンノベルティー・オーケストラは、東京神田の商家の若旦那、石井善一郎が主宰したジャズバンドで、関東大震災のあと組織され、1930年代まで、もっとも豊富な楽器編成で知られたアマチュアバンドであった。

彼らはホールや舞台での発表はせず、ごく身内でジャズ演奏の研究をしていたのみだという。ちょうどメズ・メズロウやジーン・クルーパがジャズの研究を志して、南部の黒人ジャズを聴き漁っては自分たちでも演奏を試みていたようなものだろう。

彼らがニッポノホンに一回目のレコードを録音した時には、井田一郎バンドは上京直前であり、ホットなジャズプレイの中心は大阪にあった。したがって、コスモポリタンノベルティー・オーケストラのレコード群は、井田一郎バンドや大学の学生バンドが隆盛を極める直前の過渡期の、ちょうど大正期から昭和にかけての日本人ジャズバンドの演奏を今日に伝えてくれるのである。

「ティティナ」「ワ゛レンチヤ」(1928年2月15日録音、同年4月新譜)

「ティティナ」"Titina"は、Daninerffが1925年に発表したダンス曲で、世界的に流行した。ダンスホールや映画館のアトラクションでもたいへん人気のある曲目であった。これをジャジーに演奏したレコードは実はあまり多くはない。アメリコロムビアのThe Knickerbockersがホットな演奏をしたのがある。日本では、三根徳一のアレンジで、川畑文子の歌唱、テイチクジャズオーケストラの演奏がディキシーランドスタイルのすぐれた編曲であった。

このレコードは、

トランペット、クラリネット、テナーサックス、トロンボーンテューバ、ピアノ、ヴァイオリン、打楽器群(シンバル、ウッドブロック、木琴)

だいたい以上のような編成で録音されている。

トランペットがフューチャーされており、クラリネットなどが絡むが、いかにも鈍重である。歌唱は少女2〜3人、男声1人。歌唱のあとサックスのソロが入る。このソロも定型通りでゆとりがない。合奏もぎこちない。最後はザイロフォンのソロと、ザイロフォンをフューチャーした全合奏だが、アップテンポになるわけでもホットになるわけでもない。インテンポでアンサンブルを固めるのに一生懸命で、ジャズというよりはダンスレコードに分類されるべき演奏だろう。

日本の電気録音最初期の録音だが、同時代のほかのレコードと比較すると、ダントツに華やかな音響である。「ワ゛レンチヤ」は「ティティナ」と較べたら少人数の編成で、トランペット、コルネットトロンボーンテューバ、ヴァイオリン、カスタネット、ピアノという感じではないかと思う。 演奏は、いささか軽いが、それでもリズムは鈍重で、大正期の日本人のフォックス・トロットと比較したら達者になっているとしか言いようがない。

「ワ゛レンチヤ」には三輪慎一(真一)の歌唱が入っている。歌い始めにだんだん録音機の回転スピードがあがっていく、居心地の悪いレコードである。かつて復刻LPが発売された折に二村定一の変名といわれていた(故森本敏克氏の著書にもそのように記述されていた)が、声質と発声が二村とはまるで異なり、歌唱法も一目瞭然で異なるので、この説は今日では葬り去られている。思うに、同時期に録音された正真正銘の二村版「ワ゛レンチヤ」と混同したのではないかと思われる。ニッポノホンの一連の二村の歌唱はかなり勢いの良い発声であるから、威勢のよい歌唱と口跡の明瞭さから間違われたのかもしれない。

三輪慎一の正体は不明瞭だが、歌い回しの泥臭さや発声の特徴から、おそらく浅草オペラ系の歌手ではないかと思われる。この名を使って複数の吹き込みをしている。「思ひ出」"Among my souvenir"「ドリゴネスク」が同定確認できた。

ジャズの流行の一端は浅草電気館など映画館のアトラクションや泡沫レビューが担っていたが、その現場で歌っていた浅草オペラ出の歌手たちが、レコードにも声を留めたのではないかと考えている。

「思ひ出」"Among my souvenir"/「印度の子守唄」"Indian Cradle Song" (1928年4月28日録音、同年12月新譜)

こちらははるかにジャジーでホットな一枚である。

編成は、トランペット、アルトサックス、トロンボーンテューバ、ドラムス、ヴァイオリン、木琴、といったところで、井田バンドなどのような標準的コンボの編成である。軽快なリズム、鋭角的なトランペット、全体にただようジャジーな雰囲気は、プリミティヴなジャズレコードとして及第点に達している。「ティティナ」と較べてこの変わりようはどうだろう?

推測だが、1928年の2月から4月の間に、彼らは上京した井田一郎バンドのホットな演奏を聴いて、目から鱗の落ちる体験をしたのではないだろうか? もともとジャズ研究を道楽でしていて技量的にはすぐれていたのだから、ジャズのフィーリングがそこに加わったら文句はない。「ティティナ」や「フー」とは、確かに何かが違う、1枚剥けた演奏なのである。

この2曲には天野喜久代の歌唱が入っている。(「思ひ出」は三輪真一との共唱)

"Among my souvenir""Indian Cradle Song"の天野喜久代の歌唱は、彼女のレコードの中でも傑作に属する。曲が彼女向きということもあるが、楚々としていながら弱弱しくなく、情感のよく出たすばらしい歌唱である。