ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

二つの追分

昨今、原稿仕事の多忙で当ブログの更新もはかばかしくないのは、まことに申し訳ないことである。

多忙のせいにしてはいけないが、また一つは物事をいいかげんに記述しては気が済まないという気質も反映して、且つなるだけ満足のいく文章をと考えるため、余計に更新が遅くなってゆくのである。

戦前、日本の民謡のジャズ化がさかんに試みられた。その嚆矢は、井田一郎によって1928年から30年代にかけてニッポノホン系、ビクター、ポリドールのレコードでおこなわれた、ヴォーカルつきのアレンジである。多くは数人編成のコンボによるもので、二村定一や天野喜久代、青木晴子などが歌唱を添えた。浅草オペラ出身で昭和期にレヴュー、ジャズソングで活躍した人々である。井田のアレンジは、新味はないが、アンサンブルが堅実でソロパートにも丁寧に気が配られていたため、それを演奏するジャズバンドの水準向上にも役立った。

井田の後を襲うのは服部良一や仁木他喜雄をはじめとする、ジャズの第二世代である。彼らは比較的若い時期からジャズに慣れ親しんだので、本場のフィーリングの片鱗をアレンジに表現することができた。特に1930年代半ばから40年代のアレンジには、目をみはる作品が続出している。

明治期の「船の楽隊」からスタートしたジャズメン、井田一郎や前野港三など第一世代のアレンジャーは、「佐渡おけさ」や「磯節」「木曽節」などアップテンポでメロディラインのはっきりした民謡、いわゆる「八木節形式」を好んで編曲した。反面、苦手としたのが、日本的なメリスマを多用した、ゆったりしたメロディーの「追分」である。メリスマは一つの母音を、音程を上下させながら演奏・歌唱する、音楽的な装飾法のことである。演歌のコブシに似ているが、より長いフレーズに用いられることが多いので、コブシとはやや異なる。

「追分」は長野県、関東から北、北海道までの地域で広く歌われた馬子唄で、リズム的に不分明な要素が強いため、「八木節形式」に対して「追分形式」と呼ばれる。どちらも日本民謡の重要な一要素である。

「追分」にもいろいろあって、各地の地名をつけた「江差追分」や「松前追分」などが有名である。馬子唄であるから、いずれものどかな民謡である。先に記したようにリズムがはっきりせず、聞かせどころ(ソリ)が目立たせにくい、また扱う音域が広いので歌唱も入れにくい、以上の点から痛快なジャズに仕立てにくく、第一世代のアレンジャーには手に余るテーマだった。

これを、鍛えられた耳とセンスですぐれたスロースウィングにアレンジしたのが、服部良一、杉井幸一、佐野鋤らである。彼らが争って追分を手がけたのは、ひとつには日本のジャズバンドがアメリカのバンドを範としたリード陣、ブラス陣、リズム陣から成る大編成に成長して、はじめて編曲が可能になったからだ。

ここでは、手元に盤を所持しない佐野鋤の「松前追分」を省いて、二枚の名盤を紹介したい。

服部良一は「松前追分」を編曲している。演奏はコロムビア・ジャズバンド。1936年9月新譜である。

ちなみに1936年といえば、「スウィングミュージック」がそれまでの黒人主体の「ジャズ」の代名詞としてアメリカでも認知されはじめた時期である。この時期から、「スウィングミュージック」は白人の、「ホットジャズ」が黒人の演奏するジャズという認識がアメリカでは定着した。もともとジャズは隠語であり、そのジャズを家庭でなんの背徳感もなく聞けるようにと編み出されたのがスウィングである。形式的にも従来のディキシースタイルとは一線を画しているが、本来、白人優位の考えから生まれた音楽なのである。

服部はずいぶん早くからスウィング時代の到来をを予見しており、1934年には早くも「道頓堀行進曲」の初歩的なスウィング化を試みている。

さて、では「追分」である。

ピアノと弦、サックス主体のリード陣とブラス陣が短い前奏を奏でたあと、まず弱音器をつけたトランペットのソロで追分のフレーズが演奏される。やはり弱音器ををつけた第二トランペットの合いの手が入る。

この主旋律はサックスを交えたブラス陣に受け継がれ、アンニュイな雰囲気の間奏をはさんで入るアルトサックスの渋いソロが、ひとつの聴かせどころを作っている。アルトサックスからさらにトロンボーンにソロが移り、リード、ブラス、リズムの全合奏で美しいハーモニーが形作られる。

終結部は弦とピアノで美しく纏め上げられている。

全体に弦楽がやさしく背景を描いており、優美さの引き立ったアレンジである。もう一つ、合いの手には鈴が入って馬子唄らしさをかもしている。

服部カラーの強く出たアレンジで、同時期の「草津ジャズ」と並ぶ名演ではないだろうか。コロムビア・ジャズバンドの演奏もソロ、アンサンブルともに瑕がなく、申し分ない。

 もう一枚、杉井幸一の「追分」は、「江差追分」の前唄をテーマとしている。このメロディーは昭和初期、山田耕筰門下の伊藤祐司が歌曲用に編曲した「船頭唄」と同じメロディーで、藤原義江のレパートリーとして広く知られた。

 こちらは服部の「追分」から五年後の1941年7月新譜。日本のスウィング・エラの最良の瞬間を垣間見ることが出来る、すばらしくソフトでメロウな編曲だ。演奏はキング・ノベルティオーケストラ。このオケも標準的なスウィングオーケストラ編成となっている。

はじめにピアノとリード陣の前奏と主旋律の呈示がある。

次いで強いリズムを従えたブラス陣がメロウに旋律を奏で、サックスを加えて盛り上がる。合いの手に弱音器ををつけたトランペットがはさまるのは服部アレンジと同じで、あるいは服部の「追分」を手本としたのかもしれない。

それから、尺八をまねたフルートソロがある。ここが一番雰囲気に富んでいる箇所である。その後、間奏をはさみ、リード陣、ブラス陣の全合奏が変奏と転調を繰り返しながら優美なクライマックスを形成する。

後半に入ってヴァイオリンのソロが入り、サックス、合いの手のトランペット、ピアノと絡んで終結する。アンサンブルは上の服部「追分」よりも更にこなれており、リード陣、サックス、ブラス陣、リズム陣の溶け合ったハーモニーがたいへん美しい。

杉井幸一(1906-42)は、戦前〜戦時下に活躍したアレンジャーの中でも出色の才能を示した。商船会社から音楽家に転身した珍しい例で、もともとラテン音楽、ことにアルゼンチンタンゴの研究者として知られていた。

キングオーケストラでアコーディオン奏者として雌伏していたが、やがて映画音楽の編曲など下積みを経て、タンゴやルンバからジャズのアレンジに活躍の舞台を広げた。少量だが作曲もした。また、ソフトな美声でヴォーカルでも活躍した。

しかし本領はアレンジャーであって、特にキングの専属となってから二枚ずつのアルバムで発売された「サロンミュージック」は、多彩なアレンジの才能を駆使して1939年から41年まで続いた、大好評のシリーズであった。(杉井の没後、宇川隆三や佐野鋤に引き継がれた)

彼はめちゃくちゃにホットなアレンジをする人ではなく、むしろ気品の漂う、「サロンミュージック」という呼び名がまことに似合う作風を示したが、服部良一、仁木他喜雄、杉原泰蔵らとともにスウィングミュージックの第一人者となった。

ちなみに戦時下となってもサックス主体のスウィングスタイルの楽団は活躍を続けており、ホットジャズこそ演奏の機会が減ったものの、サロンミュージック、軽音楽という名に隠れて、日本民謡などをアメリカ風のスウィングミュージックに仕立てて演奏していた。こうした傾向はごく公的には1942年も半ば過ぎまで続くのである。