ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

百萬圓

二村定一ファンの間でなかば神格化されているコミックソングである。

アコーディオン、ギター、カスタネット、ヴァイオリンという簡素な伴奏を舞台として、ナンセンスな歌詞、宴のあとの空虚さを思わせるような曲、過不足ない表現の歌唱、と三位一体そろったレコード。二村の活躍がただ歌手でだけであったら決して生まれなかった唄だろう。作詞、作曲者は二村とエノケンが二人座長をつとめていたプペ・ダンサントの舞台と深いかかわりのある人々であり、二村のパーソナリティを知悉した人々であってはじめて、この脱力したようで力の漲ったレコードができあがったのである。

1931、32年にコロムビア、ヒコーキ、パーロホンなどでエノケンと組んだ諸レコードが作られるが、概して内山惣十郎がからむと面白くなる。井田の作曲はときおりルーティンワークに堕するが、「百萬圓」やアレンジ作品の「こんな間抜けたことはない」「エロ草紙」はそのいい加減さがぴったり嵌まって成功した例だろう。これがちょっと外れると「サイノロ行進曲」や「相当なもんだね」のような若干詰まらなさを感じさせるナンバーになってしまう。

この、いかにも戯作風の脱力したいい加減さというのは、ちょうどカフェー女給の吹き込んだ「君恋し」のレコードと同質である。(この発狂しそうな盤については以前述べた)

百萬圓というのは思い切ってとびぬけた金額だが、実は「これだけあれば学校も建つだろう」という、意外にリアルな金高である。宝塚少女歌劇団の資本金が百六十万円といえば、この歌詞があながち出鱈目でないことがわかるだろう。当時、吉本明光がジャーナリスティックに音楽界やレコード業界をルポルタージュする記事がしばしば雑誌に出ていて、レヴュー団や少女歌劇の資本的内幕も曝け出されていたから、そんなところから拾ったネタでないだろうか。(吉本明光の父親は海軍軍楽隊長の吉本光蔵。「観艦式行進曲」などの作品がある。)

一番歌詞に出てくる「ハダカダンス」というのは、東京では警視庁のお達しがきつくてあまり露出度の高い格好やいやらしい振り付けができなかったのだが、関西以西では比較的取締りが緩かったため、エロを前面に押し出したレヴューが跋扈したことに由来する。

たとえば広島の羽田歌劇団などというのはその最たるもので、東京公演や大阪公演では、「ハダカゲキダン」とでかでかと宣伝して興行を行なった。松竹少女歌劇も東京と大阪ではずいぶん露出度が異なり、大阪松竹少女歌劇団(OSSK)の売りは、そのきらびやかな衣装と若い肢体、スピード感のあるダンスであった。現存するフィルムで目視確認するかぎり、お白粉を塗りたくった肉体がぶんぶん激しく動き回って、衣装なんかきらきらとまとわりついているだけという、たいへん、なんというかエロな代物である。

三番歌詞で歌われた、「女給にチップを十銭ずつ」というのはまた、ずいぶん貧相な額で、銀座のカフェーで遊ぶとなると「チップ二十銭-リャンコ-で惚れやせぬ」(「当世銀座節」佐藤千夜子)というように、銭単位では幅がきかなかった。銀座では一人あたま二、三円から五円は吐き出さないといい顔をして貰えなかったし、そんな女給が二十人ばかりも控えているので、少し財布が分厚いからとたかをくくって入るとえらい目に遭ったりした。それを十銭で通そうというのである。百萬圓拾ってもけちな庶民感覚が生きているところがオチとなっている。