ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

原信子のFonotipia録音

原信子(1892-1979)は藤原義江と同様、浅草オペラから雄飛してイタリアの歌劇場に立ったソプラノである。 1913年、東京音楽学校のピアノ科を中退。その後、ハンカ・ペツォールトやアルフレド・サルコリーに師事して声楽を修めた。はじめローシーの帝劇オペラに出演したが、帝劇はローシーの性格や経営手腕に由来するごたごたが絶えず、すでにスター格であった原信子を筆頭に、多くの歌手が浅草で大衆的なオペレッタを上演、いわゆる浅草オペラの一時代を築いた。 オペレッタに飽き足らず本格オペラを目指した原は、1919年からアメリカ、カナダを経由してイタリアに留学、サルヴァトーレ・コットーネに師事した。コットーネは歌曲の作曲家として知られている。この間、渡欧の途上でマンハッタンオペラに出演する幸運に恵まれ、イタリア留学中もプッチーニやマスカーニの知遇を得た。1928年から33年までミラノ・スカラ座に所属した。1934年に帰国後はプリマドンナ、教師として活躍し、原信子歌劇団を組織してオペラ運動に尽力した。 原信子はビクターの出張録音、日本蓄音器商会の初期のレコードに唱歌を、大正期に東京レコードへ浅草オペラの演目から代表的なアリアを吹き込んだ。その後、留学し、スカラ座に所属した1928年にイタリアフォノティピアに4曲2枚のレコードを録音した。 上の写真は、プッチーニの「蝶々さん」より「或る晴れた日に」のイタリアオリジナル盤、下の写真は、1931年に日本オデオンでプレスされた「関の夕ざれ」(本居長世)である。この「或る晴れた日に」はやや線が細い感があるが、裏面の「可愛い坊や」は押し出しの利いた、立派な歌唱である。現在、準備に入っているロームの「日本SP名盤復刻選集」に入る筈である。 「関の夕ざれ」はすでにヤマハの「日本洋楽史」のセットで復刻されている。原のキーが高いためか発音のせいか歌詞が聞き取りにくく、正直なところあまり鑑賞して楽しいレコードではない。 プッチーニ蝶々夫人」〜「ある晴れた日に」1928年1月11日録音 ミラノ プッチーニ蝶々夫人」〜「可愛い坊や」  1928年1月12日録音 ミラノ 古謡,本居長世作曲「関の夕ざれ」 1928年5月29日 ミラノ 野口雨情作詩,本居長世作曲「別後」1928年5月29日 ミラノ 伴奏は4曲とも Albergoni指揮のオーケストラ。 ※録音データはhttp://www1.pbc.ne.jp/users/hmv78rpm/宮本博和さんからご教示頂きました。 二枚ともに、邦人音楽家の海外録音では珍しいものの一つである。フォノティピアのレーベルに日本人アーティストが入っている唯一の例であり、ラベル上の原信子の表記が Nobuco Hara とイタリア風になっているのも面白い。(下の日本プレスではNobukoに直されている)