ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

『浅草行進曲』史

承前『道頓堀行進曲』史 - ニッポン・スヰングタイム

 

2. 浅草行進曲

 さて、次に『道頓堀行進曲』が生んだもう一つのヒット曲、『浅草行進曲』について述べたい。

 

 『浅草行進曲』は、関西の松竹座での幕間劇『道頓堀行進曲』の評判に目をつけた松竹が映画化に踏み出したもので、1928年4月7日に浅草電気館で蒲田映画『浅草行進曲』が封切られた。監督・脚本・原作は野村芳亭、出演者は人気女優の松井千枝子、藤野秀夫、武田春郎、三田英児、という顔ぶれである。当時はサイレント映画であるから主題歌は入らないが、この映画に合わせて6月新譜で発売された2枚組の映画劇レコード『浅草行進曲』(松井千枝子、三田英児、静田錦波=説明)に主題歌が入った。その主題歌が、日比繁次郎の『道頓堀行進曲』歌詞を畑耕一が改作した『浅草行進曲である。』畑耕一は小説家・文学者で、当時は明治大学教授であった。畑は1924年に松竹キネマ研究所の所長に就任しているので、主題歌をものしたのはその縁からであろう。

 畑耕一は流行歌の作詞に当たっては多蛾谷素一(耕一をたがやす+いちに分解した)ペンネームを用いたが昭和初期のレコードは作詞作曲者をラベル上に明記しないことが多く、意外なようだが多蛾谷素一の名がラベル上に見られるのは、これも大ヒットしたコロムビア流行歌『ザッツ O.K.』(1930年9月新譜)くらいなものである。

 なお、この蒲田映画『浅草行進曲』の中の浅草ロケシーンをそっくり道頓堀のロケシーンに替えたフィルム『道頓堀行進曲』が、三ヶ月後の7月14日に封切られた。当然ながら出演者は同じである。時系列で見ると、①幕間劇『道頓堀行進曲』→②『道頓堀行進曲』レコード→③映画『浅草行進曲』→④『浅草行進曲』→⑤映画『道頓堀行進曲』という順序で道頓堀に回帰しており、少しややこしい。

 

 映画劇に続いて、ニッポノホン(日本蓄音器商会)のサブレーベルであるヒコーキが『カフェー小唄 浅草行進曲』(木村時子 1928年6月新譜)、『カフェー小唄 浅草行進曲』(石田一松 1928年7月臨時発売)を立て続けに発売した。浅草行進曲は畑耕一の作詞、塩尻精八は松竹専属の作曲家・指揮者でレコード的にはフリーランスという理屈で、日本蓄音器商会でも関連レコードを作りはじめた訳である。前者は浅草オペラのスターであった木村時子がストーリー仕立ての両面で芝居を交えて歌っている。後者は歌唱のみであるが、この石田一松のレコードがまず大ヒットした。

 

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 これに負けじと大阪資本のニットーからも二村定一・天野喜久代の歌唱、ハッピー・ナイン・ジャズバンドによる『浅草行進曲』(1928年10月新譜)が登場した。ニットーは翌月11月新譜でも寺井金春による『千日前行進曲 浅草行進曲』をリリースした。

 前者は東京録音、後者は大阪録音で、ちょうどビクターからも『アラビアの唄』などを出して人気急上昇中であった二村定一の歌う前者がたいへんよく売れた。ハッピー・ナイン・ジャズバンドは立教大学の学生バンドでディック・ミネ(ドラムス)も創立時に加わっていたが、この録音時にはすでに居なかったようである。この録音時の編成はクラリネット、アルトサックス、2テナーサックス、トランペット、トロンボーンバンジョー、ドラムス、ピアノ。一コーラスごとにブリッジで繰り返し演奏を挿入して、じっくり聴かせる構成である。この頃のニットーはライツのカーボンマイクなのでサウンドの奥行きに乏しいが、コーラスごとに編成を変えた凝ったアレンジを学生バンドががんばって演奏しているのがよく伝わる。最高に脂が乗っている時期の二村定一と天野喜久代コンビなのでヴォーカルも息が合っており、ノンシャランで楽しい雰囲気を醸している。

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 日本蓄音器商会の大阪文芸部であったオリエントも、『カフヱー行進曲』(山村豊子 1928年10月新譜)、『流行新小唄 藝者行進曲』(南地・金龍 1928年11月新譜)と、替え歌を発売した。このあたりになるともはや原曲が道頓堀なのか浅草なのかも判然としないが、『カフヱー行進曲』で〽恋の灯ジャズの音渦巻くなかに白いエプロンどう染まる あたしゃカフェーの愛の花よ、と歌う歌詞は明らかに『浅草行進曲』からの派生である。

 本物のカフェー女給が歌ったヒコーキ『銀座行進曲』(カフエータイガー よう子・すみ子 1929年5月新譜)もタイトルは異なるが『浅草行進曲』の替え歌で、極めて下手な歌唱のなかにプロの流行歌手では出すことのできない水商売の雰囲気が漂っている。

 ところで『道頓堀行進曲』と『浅草行進曲』の分類であるが、歌詞に明瞭に現われることが多いほか、『浅草行進曲』には共通した前奏がついているので、それと分かる。ここに挙げた替え歌もほぼ全てに共通した前奏が備わっている。

 

 浅草が舞台ということからか『浅草行進曲』の人気は東京で沸騰し、それは東京に集中するレコード会社にも影響を及ぼした。

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 1929年正月新譜でニッポノホンからリリースされた『松竹映画 説明レヴュー』(静田錦波 松竹和洋合奏団)、『流行歌ポッポリー』(島田晴譽=指揮 松竹和洋合奏団)には共に『浅草行進曲』が含まれている。島田晴譽が楽長を務める松竹管絃楽団/松竹和洋合奏団は約20名の楽士で映画の伴奏を行なうほか、幕間の休憩音楽を演奏した。島田は折々の流行曲をポッポリー(メドレー)形式に編んで休憩音楽で発表し、観客の好評を集めた。この録音では、2フルート、クラリネットコルネットトロンボーンテューバ、弦四部(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ベース)、三味線、締太鼓、鉦という大規模な編成が採られ、A面では「浅草行進曲」〜「月は無情」〜「アラビヤの唄」が、B面では「籠の鳥」〜「モガモボソング」〜「モン巴里」〜「浅草行進曲」が演奏されている。この楽団は1928年から松竹が招聘した井田一郎のチェリー・ジャズバンド(松竹下では松竹ジャズバンド/電気館ジャズバンドと呼称)とたいへん折合いが悪く、ジャズとの明確な区分けを意識したのかサックス属の楽器を全く用いなかった。

 

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 ジャズでは『アラビアの唄、浅草行進曲』(アーネスト・カアイ=スティールギター、ディ・フェルナンデス=ギター 1929年3月新譜)がニッポノホンとコロムビアから同時発売された。カアイは1927年にハワイから来日したギターの名手で、ギターに限らず多数の楽器をマスターしており、日本のジャズ界に大きな影響を与えた。ここではウッド・スティール・ギターで軽快にスウィングしている。

 さらに1930年に至っても『ポッポリー 映画流行小唄集』(川崎豊・曽我直子 島田晴譽=指揮 松竹管絃楽団)のなかで曽我直子が歌っている(映画流行小唄集には2種あり、後に出た方の小唄集に浅草行進曲が含まれる)。

 

 

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 『道頓堀行進曲』『浅草堀行進曲』のメロディーは、そのあまりの流行から直接関係のないレコードにも余波を及ぼしている。その一つは淡谷のり子の初期のレコード『夜の東京』(加奈木隆司=作詞、井田一郎=作・編曲 淡谷のり子 井田一郎=指揮 日本ポリドール・ジャズバンド 1930年4月新譜)の間奏で、ここにちゃっかりと「東京行進曲」(中山晋平=作曲)と並べて引用されている。このときは「夜の東京」がテーマだから、引用されたのは必然的に『浅草行進曲』ということになるだろう。ちなみに「東京行進曲」は井田一郎がビクターで初めて編曲した作品であり、「浅草行進曲」の塩尻精八は井田が大阪で松竹座ジャズバンドを組んで舞台に出ていた時代に松竹座の音楽を司っていたので、両方とも縁がないわけではない。

 大ヒット曲『女給の唄』(西條八十=作詞、塩尻精八=作曲 羽衣歌子=歌 日本ビクター管絃楽団 1931年1月新譜)は作曲者が塩尻精八なので堂々と後奏に自作のメロディーを用いている。この歌の原作である広津和郎『女給』は銀座のカフェー・タイガーを舞台としているから浅草でも道頓堀でもないが、夜の盛り場の印象的記号としてこのメロディーを当て嵌めたのであろう。

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 最後にとどめを刺すかのように1932年に『タンゴ 浅草行進曲(道頓堀行進曲)』(東京フロリダ・ダンスホール 巴里ムーラン・ルージュ楽員 1932年8月新譜)が発売された。1932年、東京の赤坂溜池にあったダンスホール「フロリダ」に招聘されて来日していた巴里ムーラン・ルージュ楽員の4名による録音である。この楽団はフロリダでの演奏も評判が高かったがレコード人気も高く、第一次編成(4名)、第二次編成(5名)、モーリス・デュフールのアコーディオン独奏含めて総計160面余の録音を残した。この録音は第一次編成で、シャール・パクナデル(ヴァイオリン)、モーリス・デュフォール(アコーディオン)、ジャン・ジェラール(ギター)、ガストン・トーマ(ドラムス)の4名が和やかに演奏している。

 このときは歌詞が無いので道頓堀行進曲にも花を持たせたかたちだが、かくして道頓堀行進曲と浅草行進曲は仲良くラベル上に並んだのであった。 (続)

『道頓堀行進曲』史

  • 道頓堀行進曲

 二村定一年譜の補完計画は暇なときにします。今回は道頓堀行進曲について。

 長らく探求盤であった松島詩子『道頓堀行進曲』/マイフレンド『銀座行進曲』(ニットー 6522 1934年9月新譜)を手に入れることができた。松島詩子の『道頓堀行進曲』はニットーが1936年からリリースした廉価盤のSシリーズでもプレスされ、そちらは今日でもしばしば見かける。再発でヒットしたパターンだが、カップリングのマイフレンド『銀座行進曲』は再発されなかったため、オリジナルの黒盤でしか聴けない。このレコード、なんでもない黒ラベルでいかにもその辺に転がっていそうだが実は大変な難物で、ニットー盤大コレクターのN氏も「見たことがない、京都の某氏が持っていたかもしれないがそれも怪しい」というレベル。そういう探求盤をN氏が故人となってから手に入れたのも何かの縁だと感じ、『道頓堀行進曲』とその周辺のレコードについて述べることにする。

 

1. 道頓堀行進曲

『道頓堀行進曲』(日比繁次郎=作詞, 塩尻精八=作曲)はそもそも日活映画『椿姫』(1927)撮影中に俳優の竹内良一と駆け落ちした岡田嘉子が、もろもろの騒動を経て復帰主演した松竹チェーン劇場の幕間劇『道頓堀行進曲』の主題歌である。

この復帰公演は1928年1月7日より神戸松竹座、その次の週に京都松竹座、さらに翌週の1月20日より大阪松竹座で行なわれた。徐々に客足を伸ばしていったのだと思うが、大阪公演で大評判となって、東京にまでその評判は届いた。

 

 レコードとなったのは木田牧童(説明), 若山千代, 瀧すみ子, 河原節子, 大阪松竹座管絃団という面々によるニットーのモダンスケッチ2枚組(1928年3月1日臨時発売)が最初であった。このレコード、JOBKのお昼のジャズの時間に"Titina"を演奏するシーンが挟まれていたりして、なかなかリアルである。ストーリー自体は夢オチで、原作が幕間劇であったから軽妙な喜劇に仕上がっているわけである。

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 驚いたことにタイミングを同じくして名古屋のツルレコードも山崎錦城(説明), 一條歌子, 河原節子, アサヒジャズバンドによるスケッチレコード2枚組(同年3月発売)を発売した。大変な素早さであるが、おそらく風評のみで慌てて製作したためだろう、ストーリーはオリジナルのニットー盤とはかけ離れたものとなっている。原作は悲劇が夢オチで喜劇になるのだが、ツル版は悲劇のまま終了するのである。ときおり挿入される『道頓堀行進曲』も陰鬱な雰囲気である。これは珍盤だ。

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  このツル盤は関係者の許可なく製作された上、レコード発売の宣伝ポスターに「竹内良一・岡田嘉子主演」を堂々と謳っていたため、3月20日、幕間劇『道頓堀行進曲』原作者の中井泰孝が「レコードの製造販売禁止ならびに二千円の損害賠償」を求めて大阪地方裁判所に提訴している。そのためツル側は早々にこのセットを廃盤とした。

この二種のレコードを追って、オリエントから松竹座管絃団によるインスト盤『道頓堀行進曲』(1928年3月25日発売=4月新譜)が、またニットーからも『巴里行進曲』(松竹座管絃団 7月新譜)が出た。ニットー盤『巴里行進曲』(松竹座管絃団 7月新譜)は『モンパリ “Mon Paris”』推しのインスト盤だが、中間部でけっこう長めに道頓堀行進曲を挟み込んでいるので、巴里とも道頓堀ともつかない内容となっている。このレコードの録音時は大阪住吉神社に隣接したニットーのスタジオで公開録音したため、見物客が殺到し、係員が「録音中はお静かに」と注意を喚起せねばならなかった。

 

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 以上の前史を経て発売されたニットーの『道頓堀行進曲』(筑波久仁子=歌、片岡正太郎=ハーモニカ、清水昌=ピアノ 1928年7月臨時発売) は全国的な大ヒットを記録した。

 このニットー盤は大阪のスタジオではなく、東京の日本青年館で録音された。古い文献では歌手の筑波久仁子は井上起久子の変名とされ、筆者も以前はそれを鵜呑みにしていたが、現在では別人と判明している。筑波久仁子はほかにも松竹楽劇部のレヴュー主題歌をレコーディングしているので、松竹楽劇部の筑紫國子の変名ではないだろうか。ニットーは1920年代後半に澤文子という歌手もさかんに起用しているが、澤もまた松竹楽劇部に属していた。

 ニットー盤の大ヒットを追って、尼崎でセルロイド製の小型レコードを製造していたバタフライが1929年に『道ブラ行進曲』(小島鈴子=歌 松竹座ジャズバンド)を発売した。これは松竹座ジャズバンドが演奏していることからも明白なように、松竹座関連の録音ということでお咎めがなかったのだろう。松竹楽劇部の澤文子も松竹管絃楽団の伴奏で、特許レコード(小型盤)から『道頓堀行進曲』を出している。

 

 道頓堀行進曲はニットーが歌詞の権利を保持したため他社ではレコード化されず、筑波久仁子盤に次いで製作した内海一郎盤(内海一郎=歌、日東ジャズバンド 1929年5月新譜)も二十万枚を記録する大ヒット盤となった。

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 内海一郎(1898-1972)は浅草オペラ出身のテナー歌手で浅草時代は宇津美清を名乗った。レコードも大正期からあるが、昭和期には二村定一に対抗するように甘いテナーでオリエント、ニットーにジャズソングをおびただしく吹き込み、ジャズソングブームを支えた。『道頓堀行進曲』は内海のスマートでノンシャランなヴォーカルが耳に心地よく、佳作が多い彼のジャズソング中でも一頭群を抜く名盤となった。 

 このディスクは1929年当時のジャズ水準を考慮すると、アレンジもたいへん興味深い。アレンジは浅草オペラ時代から指揮・編曲を手がけていた篠原正雄(1894-1981)で、このディスクではフィドル風のヴァイオリンを入れたディキシースタイルにアレンジしている。篠原はリズム感覚の鋭いアレンジャーで、服部良一を除けば最も早くルンバを咀嚼してダンスアレンジに応用したし、1930年代半ばからはいち早くスウィングアレンジも手掛けた。

 日東ジャズバンドは、テナーサックス、バリトンサックス、バスサックス、トランペット、トロンボーンバンジョー、ドラムス、ピアノ、2ヴァイオリン、という編成で、難波の赤玉食堂で楽団を率いていた前野港造(sax)が指揮している。この編曲が甚だ複雑なので書き留めておこう。

イントロ…トランペット、バンジョー、ドラムス、ピアノ、2ヴァイオリン

1番コーラス…バンジョー、ピアノ、ヴァイオリン

ブリッジ…トランペット、トロンボーン、テナーサックス、バンジョー、ピアノ、ヴァイオリン

2番コーラス…バリトンサックス、バンジョー、ドラムス、ピアノ、ヴァイオリン

ブリッジ…トランペット、トロンボーン、テナーサックス、バンジョー、ドラムス、ピアノ、2ヴァイオリン

3番コーラス…バスサックス、バンジョー、ドラムス、ピアノ、ヴァイオリン

fin…テナーサックス、トランペット、バンジョー、ドラムス、ピアノ、2ヴァイオリン

 ドラムスはバンジョーの影に隠れて聞き取りにくいがたしかに居る。ヴァイオリンは二人で重奏するシーンと、オブリガート一人、トランペットと合奏する一人に分かれるシーンとがあり、これもやや判別しにくいと思う。サックスはおそらくバンマスの前野による持ち替え演奏であろう。テナーからバリトン、バスへと流れる、凝った使い方だ。そもそも1929年の国内録音のジャズでバリトンやバスが使われるのは極めて珍しい。

 

 このあと、ニットーから再三『道頓堀行進曲』(松島詩子=歌、N.O.楽団 1934年9月新譜)が現われる。

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 このディスクはニットー東京スタジオのディレクターに就いた服部良一(1907-93)の編曲で、1934年当時ニットーの女性歌手の看板であった松島詩子(1905-96)を起用している。のちに服部が自伝で「道頓堀行進曲を完全にジャズに編曲した」と述べているのは、このテイクのことである。松島詩子の世間ずれしていないお嬢さんのようなウブな歌唱が微笑ましい。

 神月春光が指揮するN.O.オーケストラは、3サックス、トランペット、トロンボーン、ギター、ドラムス、ベース、という編成で、トランペットを白系ロシア人のニコライ・マルチェフが吹いている。イントロはサックス陣とブラスの掛け合いでちょっとトランペットのソロが入る。1番コーラスはその延長でサックス陣にブラス陣が絡むバック、そのあとのブリッジはカサ・ロマ・オーケストラのジョン・ギフォードばりの分解的なアレンジで旋律が処理される。2番コーラスはサックス陣の独壇場で、流麗なハーモニーに包まれる。ブリッジではトロンボーンによる弱いオブリガート付きでマルチェフのトランペットが『アラビアの唄 Song of Araby』を高らかに歌う。『道頓堀行進曲』とおなじ1928年のヒット曲ということで挿入したのだろうが、深読みすれば服部良一がバンドを率いて活躍していた大阪時代のジャズ風景を回顧しているようにも思われる。トロンボーンソロを受けての3番はリズムに薄くブラスが乗って、ヴォーカルを引き立てる。この控えめな伴奏のあと、ブラス・サックスの元気な全合奏、サックス陣とブラス陣(特にトランペット)の見せ場で華麗に締めとなる。この松島盤は全体にフレッチャー・ヘンダーソンのカラーを踏襲したホットなアレンジで、アメリカ本国で台頭してきたスウィングをいち早く採り入れたディスクとして注目に値する。

 冒頭にも書いたが、この松島詩子盤は、1936年にニットーのはじめた大衆盤で再発され、そちらはしばしば見かける。思うに1934年と1936年の間に、スウィングの意識が高まった結果、初出では売れなかった実験的なレコードが1936年にヒットしたのだ。これは日本ジャズ史的に見ても面白い現象だと思う。

 

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 ニットーは1935年5月新譜を第一回として、サブレーベルの日本クリスタルから邦楽盤をリリースしはじめた。大正時代から関西の大レーベルであったニットーレコードが洋楽にもレパートリーを広げようと設立したのが日本クリスタルで、海外の洋楽盤をプレスするだけではなく、既存の枠組みにしばられない新機軸のレコード制作も目指した。そのクリスタルで企画から制作まで音楽監督をつとめたのが服部良一だが、今回の日本クリスタル・ファイブ・スターズとはあんまり関係はない。(クリスタルの責任者は服部龍太郎で、その下で服部良一が自由に采配を振るった)

 日本クリスタルは七回の新譜を出したところで邦楽のリリースを終了したが、その最後に『道頓堀コーラス』(日本クリスタル・ファイブ・スターズ 1935年11月新譜)をリリースした。これもニットーが『道頓堀行進曲』の権利を持っていたからできたことだが、ファイブ・スターズが自由にアレンジし奇抜なジャズコーラスに仕立てている。

 このジャズコーラスのグループは藤川光男(=林伊佐緒 1912-95)、志村道夫、友野俊一、館野信平の四名にギターorウクレレ一人を加えた五人組で、メンバーはそれぞれソロで活躍する実力の持ち主である。なお彼らは日本クリスタルだけでなく、ニットーでニットー・リズムボーイズ、タイヘイでフォア・リズム・ジョーカーズやウエスタン・ファイヴスターなどのグループ名を名乗って吹き込んだので、録音総数は20面あまりに及ぶ。藤川、友野、館野は作曲や編曲も堪能であったが、特にジャズコーラスに関しては藤川光男がアレンジを担当したのではないかと考えられる。のちにキングで藤川が手がけたアレンジと、このグループのアレンジには共通するセンスが感じられるのだ。

 ウクレレ一本の伴奏でまず2コーラス、クイックテンポでストレートに歌われる。そのあとマウストランペットのブリッジが挟まり、3、4コーラスは藤川光男のソロにほかの3人のスキャットやハモりが絡む。5コーラスめはスキャット、6コーラスめで全員でハモってお終い。軽妙洒脱なジャズコーラスだ。

 

 戦前の『道頓堀行進曲』はおおむね以上である。他にもマイナーレーベルにあるかもしれず、替え歌もあるかもしれないが、漏れについてはご寛恕いただきたい。また戦前戦後に数曲ある「新道頓堀行進曲」については、全くの別曲なのでここでは取り扱わなかった。

 戦後の『道頓堀行進曲』のレコードについてはあまり情報を持っていないが、日本マーキュリーの『軽音楽 道頓堀行進曲』(近藤正春=編曲・指揮 大阪キューバンバンド)が一風変わったレコードとして記憶されよう。

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道頓堀からの『浅草行進曲史』はこちら→

『浅草行進曲』史 - ニッポン・スヰングタイム

二村定一年譜補完計画

◯昭和4年の項に以下の情報を追加。

6月2日 「ジャズの夕」長野県上諏訪本町銀座 フキザワ時計店蓄音器部主催

二村定一、曽我直子、春野芳子(舞踏)、井田一郎(指揮) 日本ビクタージャズバンド

昭和3年・4年は帝国館、電気館、観音劇場、と浅草の映画館・劇場での幕間アトラクションに旺盛に出演し、夏場には歌手やジャズバンドとともに地方巡演に出るというパターンが定着した。曽我直子と春野芳子は地方巡業の定番メンバーで、二村がコロムビアに移籍(1930年秋)してからも巡業をともにしている。

 

昭和4(1929)年の補遺

では例によって時系列で二村定一の活動を追おう。この年は1月から6月にわたって石田一郎が主宰する「電気館レヴュー」に出演している。

 

・1月1日〜4日

浅草観音劇場に出演。井田一郎(指揮)チェリージャズバンドの演奏で「岡惚れは禁物よ」「スキー節」「アラビヤの唄」を歌う。「スキー節」は天野喜久代がコロムビアで吹き込んだ「スキーの唄」と同じ楽曲だろうか。

 

  • 1月5日〜9日

浅草観音劇場に出演。井田一郎(指揮)チェリージャズバンドの演奏で「ブリュースカイ」「思ひ出」「スキー節」を歌う。「ブリュースカイ」はもちろんアーヴィング・バーリンの”Blue Skies”で、二村向きのナンバーだけに、これは録音しておいてほしかった。

 

  • 1月10日〜13日?

浅草観音劇場に出演。井田一郎(指揮)チェリージャズバンドの演奏で「岡惚れは禁物よ」「ハワイの唄」「浅草行進曲」を歌う。

 

  • 1月15日 ビクターに「となり横丁」「ほがらかネ」を録音。
  • 1月17日 ビクターに「茶目子の一日」「あめや狸」を録音。

 

  • 1月22日〜25日?

浅草観音劇場に出演。井田一郎(指揮)チェリージャズバンドの演奏で「夢の通ひ路」「メリーウィドー」「木曽節」を歌う。

 

2月1日

電気館レヴュー「モダーン東京八景」に出演。

第一景 神田墨橋の夕

第二景 銀座カフェーサロン

電気館レヴューは、根岸歌劇団のマネージャーだった石田一郎が内山惣十郎と共に旧浅草オペラ出身者を糾合してはじめたレヴューである。脚本・演出・衣装考案:内山惣十郎、編曲・指揮:井田一郎、文芸部:井上紫陽、幕内主任:東五郎、というスタッフであった。もともとが淺草オペラ関連の人脈であったことや井田一郎がビクター専属となっていたことから、佐々紅華をパイプ役にしてビクターとのタイアップを取り付け、ビクター側から作詞家・時雨音羽、作曲家の佐々紅華、中山晋平、藤井清水がこのレヴューに関わることとなった。

役者は木村時子と澤カオルが二枚看板で、女優が高井ルビー、富士野登久子、吉野八重子、伊沢艶子、松山文子、小村花子、澤久子という顔ぶれ、男優は柳田貞一、萩原隆男、間野玉三郎、横山幸夫、二村定一という面々で、ダンサーとして澤カホルも出ている。カメオとしてビクター歌手の佐藤千夜子が加わっている。

 

  • 2月6日 ビクターに「神田小唄」「君よさらば」を録音。
  • 2月26日 ビクターに「夕となれば」録音。「かちどきの唄」もこの時のセッションかもしれない。

 

2月28日

電気館レヴュー第五回 小唄レヴュー「愛の古巣」に出演。

なお、このレヴューは内山惣十郎「浅草オペラの生活」では第三回となっている。

第二回「サロメはジャズる」はビクターではなくコロムビアで天野喜久代と柳田貞一が吹き込んだジャズソング「サロメ Sa-lo-may」に因んで、オスカー・ワイルドの「サロメ」のパロディが上演された。二村はこの時は急病のため出演していないらしい。

「愛の古巣」も「サロメ」の時とおなじくコロムビアで天野喜久代が吹き込んだジャズソング「愛の古巣 I’m wingin’ home」を核としたラブロマンスである。浅草オペラから映画俳優のスターとなっていた里見明が新たにレヴュー団に加入し、電気館レヴューの団員は総勢20名以上となった。このとき二村定一は病気全快出演を果たし、「当世銀座節」「ソニヤ」「月は無情」を歌った。

この公演は、週替りの混乱で衣装が出来上がってこなかった踊り子を簡単な乳隠しとズロースだけで舞台に出したことが観客に大きな刺激を与え、「ハダカダンス」として一気に人氣が沸騰したことで知られている。内山惣十郎の記述によれば、この乳隠しとズロースの踊り子が客寄せ策として常習化したため、警視庁保安係の取り締まりに遭ってきつく油をしぼられたうえ、「ズロースは股下三寸まで」という規則が作られたという。この通達が1930年11月の浅草でのエロレヴュー大取り締まりの前触れとなる。

下の画像は「愛の古巣」時かどうかは不明だが、天野喜久代との共演時のものなので掲げてみる。

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  • 3月12日 ビクターに「黒い眸」「昇る朝日」を録音。

 

3月21日

電気館レヴュー「テケツの女」に出演する。

この回は電気館レヴューの音楽監督をつとめた井田一郎の立案・作編曲で、澤カホルが振り付けをしている。

このほかにも二村は電気館レヴューに出ているのであろうが、今のところ把握しているのはこの3回のみである。

 

この年、1929年は実演やレコード録音が大忙しで病気もしたりなどしたためか、ラジオの出演は少ない。

3月16日夜、JOAKの放送レヴュウ「妄談助六銀街賑」(伊庭孝 作)に出演。

「キャフェミウラの場」という副題が添えてある。

口上 波島章次郎

医科大学生 二村定一

ミウラの女給たまき 木村時子

救世軍士官 里見明

黒心団長・髪長利権 柳田貞一

ダンボーイ 名村春操

そばかす権平 浮山藤十郎

女性的なモボ 二村定一

伴奏 電気館ジャズバンド

伴奏指揮 井田一郎

放送指揮 内山惣十郎

この顔ぶれと内容からすると電気館レヴューなのだが、前年10月の放送レヴュー「東京莫迦」の好評を受けた第二弾ラジオ企画であろう。二村は医科大学生と女性的なモボを受け持っているが、いかにも打ってつけだ。因みに浅草オペラに入る前、二村は大阪薬学校に通っている。

 

  • 4月11日 ニッポノホンに天野喜久代と「テルミー」を録音。
  • 5月2日 ビクターに「浪花小唄」を録音。
  • 5月29日 ビクターに「海の唄」を録音。
  • 6月11日 ビクターに「山の唄」を録音。
  • 6月12日 ビクターに「早稲田メロディー」「舞鶴行進曲」を録音。

 

6月15日

JOAKのお昼のジャズに出演。

田中豊明(指揮)日活ジャズバンドと共に放送出演している。

ジャズ フォックストロット「セ・リング・オン」

独唱

イ 黒い瞳よ今いづこ

ロ 君恋し

ハ 東京行進曲

  宵待草(?)

ジャズ フォックストロット「マイ・ヘイヴン・イズ・ホーム」

 というプログラムだが、放送前日になって東京逓信局から「東京行進曲」の放送が差し止められ、代替曲が歌われた。この放送中止は一ヶ月ほどしてから流行歌の是非について大論争を巻き起こすのだが、複雑怪奇に亘るその詳細は拙著「ニッポン エロ・グロ・ナンセンス」(講談社)をご参照いただきたい。

 

浅草電気館の電気館レヴューは、館の経営者と旧根岸歌劇団系のメンバーとの意見の齟齬から6月に終了した。

 

  • 6月29日 ビクターに「陽気な唄」を録音。
  • 7月8日 ビクターに「金座金座」を~録音。
  • 8月17日 ビクターに「モダン節」「野球メロディー」を録音。「モダン節」に入っているくしゃみ声は青木晴子のものだと唱える人があるが、二村と青木が共唱する録音は9月であり、わざわざくしゃみ声だけのためにスタジオに青木晴子を呼んだとはちょっと考えられない。しかし興味深い説の一つとして紹介しておく。

 

6月と8月、二村定一は岡田田鶴子(=曽我直子)と北海道函館市で公演。

7月21日からは大阪・道頓堀のカフェ・赤玉の舞台に出演した。この会そのものは好評だったのだが裏方でトラブルとなった。

これより先、二村のマネージャーは大阪の手配師と500円の報酬で独唱会を企画し、大阪方からはビクター専属として京阪神中国地方の巡演にして2000円位の仕事にしないかと勧めがあった。二村のマネージャーとしては願ってもない条件なので話がまとまりかかったところへ二村がなんの挨拶もなく赤玉で公演していったというので、顔を潰された大阪方の手配師が怒って関西地方巡演の話は立ち消えてしまった。これも金銭や契約ごとに恬淡とした二村の一面を示すエピソードだろう。

 

  • 9月12日 ビクターに「都会交響楽」「バッカスの唄」「キルク草履」を録音。「都会交響楽」は青木晴子との共唱で、青木の唯一のビクター録音である。筆者が青木晴子を知ったのも「都会交響楽」によるのだが、いま聴いても青木晴子のもっとも輝いているレパートリーだと感じる。「キルク草履」は歌詞中に問題のある文言が入っているので覆刻されていない。
  • 8月〜9月 日にちは未詳だがビクターに「洒落男」を録音。この名セッションにしてレコーディング日が記録されていないのは不思議だ。金属原盤も見つかっておらず、一抹の謎を投げかけている。

 

9月14日〜20日

神田日活館「音楽ボードビル新秋諧謔週間」に出演。

二村のほか天野喜久代、日活ジャズバンドが出演している。「黒い眸」「山の唄」を独唱、「神田小唄」を天野と共唱した。

 

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9月19日

JOAKより「お昼休みにジャズジャズジャズ」に井田一郎ジャズバンドとともに出演。BK(大阪)その他でも全国中継された。

掲上画像はそのラジオ欄に載った写真。

  1. フォックストロット 「ザッツ・ヒア・ナウ」
  2. 独唱
  3. ツェッペリン行進曲 (内山惣十郎作詞、井田一郎作曲)
  4. 踊れタンゴ (時雨音羽作詞、井田一郎作曲)
  5. タンゴ・ミロンガ 「コケット」
  6. 独唱
  7. 浪花小唄
  8. 神田小唄
  9. フォックストロット 「ザッツ・ホワイ」

ツェッペリン行進曲」は奥田良三がポリドールでレコード化している。「踊れタンゴ」は未レコード化作品かと思う。

 

9月30日

新潟劇場「ジャズと舞踏の夕」に曽我直子、ダンサーの春野芳子、日本ビクター・ジャズバンド(7名)と出演。地元のビクター販売店と新潟の新聞四紙が後援したため、たいへんな盛況となった。

演目は

一 ジャズバンド数曲 井田一郎指揮ビクタージャズバンド

二 独唱 曽我直子

  イ 青い芒

  ロ 鎮西小唄

三 舞踊 春野芳子

  鉾をおさめて

四 独唱 二村定一

  青空

五 舞踊 春野芳子

  スプリングソング

六 独唱 二村定一

  ペトルウシュカ

 休憩

七 ジャズ数曲 井田一郎指揮ビクタージャズバンド

八 舞踊 春野芳子

  タンゴ

九 独唱 二村定一

  黒い眸

十 独唱 春野芳子

  イ 金のグラス

  ロ 君よ去らば

十一 舞踊 春野芳子

   バルセロナ

十二 独唱 二村定一

   山の唄

 休憩

十三 ジャズ数曲 井田一郎指揮ビクタージャズバンド

十四 独唱 二村定一

   東京行進曲

   浅草行進曲

   当世銀座節

   神田小唄

十五 舞踊 春野芳子

   憧れのハワイ

十六 独唱 曽我直子

   悲しき踊子

   モンパリ

十七 二村定一

   君恋し

十八 独唱 春野芳子 (舞踊の誤記か?)

   焰の舞

番外小唄数十曲(新曲発表)各氏

 

 というとんでもなく長大なプログラムで、新潟での期待度がよく伝わる。一行は大歓迎で迎えられたことだろう。

 

次の画像は新潟新聞9月30日付紙面。公演前に新潟新聞社を訪問した際の撮影で、右端の女性は春野芳子、中央の女性は曽我直子である。

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  • 10月10日 ビクターに「久助の舟」を録音。

 

11月1日

浅草電気館で小唄レヴューに出演。

半年ぶりの浅草出演ということで話題となった。「大島ぶし」「マノンレスコオ」「野球メロディ」「浪花小唄」を歌っている。

 

11月8日

浅草電気館に出演。このときもワンマンショーであるが曲目未詳。

 

  • 12月4日 ビクターに「護れよ祖国」を録音。
  • 12月12日 ビクターに「慶應義塾応援歌」を録音。イントロにカップリングの「大学生活 Collegiate」(作間毅, ラッカンサンジャズバンド 1928年9月14日録音)の一部を援用したアレンジ(編曲=堀内敬三)である。
  • 12月24日 ビクターに「海原千里」を録音。漫才師のようなタイトルだ。
  • 12月28日 ビクターに「千の酒倉」「踊る黒猫」を録音。

 

1929年の活動の詳細は以上である。

1930年から二村定一の活動はさらに繁忙を極める。追ってゆるゆると纏めていきたい。 

 

二村定一年譜補完計画

昭和3(1928)年の補遺事項

◯昭和3年の項(p.242)に以下の情報が加わる。

2月5日 

独唱会 (詳細は未詳)

 

6月24日 

「映画と独唱の夕べ」丸の内・時事新報社講堂 主催:静田錦波講演会

この会では『当世娘気質』(西村小楽天)、『蝙蝠草紙』(大和田錦光・小田錦城)、『感激時代』(近江錦堂・静田錦波)が上映された(カッコ内は弁士)ほか、二村定一の独唱、鈴木傳明・松井千枝子・瀧田静枝・田中絹代の御挨拶、というアトラクションが行なわれた。二村が歌った曲目は不明である。

 

昭和3(1928)年のすべて。

昭和3(1928)年の二村定一の活動をより詳しく補足しながら時系列で追ってみよう。

前提として、二村は昭和2(1927)年、独唱会やJOAKの放送オペラ、映画館での独唱/コーラス指導といった活動を通して新進テナー歌手として楽壇に現われている。

 

・1月9日 JOAKで正午より「独唱と管絃樂」の時間に出演。

アタゴオーケストラの伴奏で「ドリゴの小夜曲」「ヴォルガの船頭歌」「スペインの小夜曲」「キャラバン」を歌う。いずれも大正期から得意とするレパートリーであった。

 

・1月20日 日比谷公園大音楽堂で独唱会。この時の曲目は未詳。

 

・2月5日 ふたたび独唱会があったようだが詳細は分からない。

 

・2月23日 JOAKの正午の「ジャズ・フォックストロット七曲」に出演。JOAKジャズバンドの演奏で

1. どうする気なの? What’ll you do

2. 愉快になさい Is Everybody Happy Now

3. 残る思ひ出 Justs memory

4. ビューティフル Beautiful

5. 壁を眺める Four Walls

6. アラビアの唄 Sing me song of Araby

7. みんな私のものだ It All Belongs to Me

を歌唱。「アラビアの唄」だけが大評判になるが、実はこのとき他に6曲もアメリカのポピュラーソングを歌っていたのだ。(原曲名の表記揺れは出典元の新聞記事による)

 

・2月24日〜3月2日

浅草帝国館に一週間、一日2回の幕間アトラクションに出演して「ヴァレンシア」「サヨナラ」を歌う。伴奏は沼田北方(指揮)帝国管絃楽団。

 

・2月25日 

 日本蓄音器商会で「新譯ワ゛レンチヤ」を録音。

 

・3月19日 

 日本蓄音器商会で「雨」「アラビヤの唄」「あほ空」「アディオス」を録音。

 この日付はコロムビアのLPセットのブックレットに掲載された「コロムビア・ジャズ・ディスコグラフィー」に拠るのだが、筆者が監修した同社のCDセット「スウィング・タイム 1928〜1941」では3月10日となっている。CDセットの時もコロムビアからデータを貰ったので、いずれかが誤りということになる。

 

・3月13日〜20日

ひきつづき浅草帝国館に出演。

この時は一日3回出演で、しかも好評だったため19日までの予定が20日までに日延べされた。上映された米ワーナー映画「マノン・レスコオ When a Man Loves(1927)」に因んで「マノン・レスコオの歌」「美しきマノン・レスコオ」「マノンの歌」が歌われた。このときも伴奏は沼田北方(指揮)帝国管絃楽団。なお、新宿武蔵野館での同作上映では中村慶子が歌った。

 

・4月22日〜28日

浅草・電気館でのアトラクション「ジャズバンド演奏」に出演。

電気館のアトラクションは島田晴譽(指揮)松竹大管絃楽団和洋大合奏による「奏楽」と、井田一郎(指揮)電気館ジャズバンドの「ジャズバンド演奏」に分かれていた。二村は井田バンドの演奏で、「フー?」「イエス、サー、ザッツ、マイ、ベビー」「シング・ミー・ア・ソング・オブ・アラビー」「ティティナ」を歌った。

井田のバンドはこの年の春に大阪から上京した。バンド名は当時の文献でも電気館ジャズバンドとチェリージャズバンド(大阪時代のバンド名)が混在し、仲間内ではチェリージャズバンドが正式名称とされていた。

二村定一が井田のバンドに出演するに至った経緯は、

「浅草電気館が松竹の封切館だつた一九二八年、宝塚にゐた井田一郎氏がジャズのメンバアを揃へてステイジ演奏をやる時、外国式に歌手を使つて歌はせろといふので、飛び出したのが僕だつたのです。」(『プロムプタア悲劇』週刊朝日 新春読物号 一九三三)

と述べられている。

 

・4月27日

ニッポノホンより「新譯ワ゛レンチヤ」「あほ空」「アラビヤの唄」が発売される。(5月新譜)

 

・4月29日〜5月5日

上記の電気館デビューがあまりにも好評であったため、同じプログラムで一週間続演された。

この間、二村はほかの映画館にも出演している。

 

・4月27日〜5月3日

芝園館(芝・新堀町)と神田南明座で「マノン・レスコオ」からの歌を独唱。芝園館では伊庭孝の指導(指揮)で天野喜久代との二重唱もあった。渋谷キネマ館でも同じ期間に「マノン・レスコオ」が上映されたが、そちらには二村・天野は出演していない。

 

・4月27日〜29日

木挽町の歌舞伎座で井田一郎指揮ジャズバンドと共に出演。曲目未詳。

 

・4月29日〜5月5日

歌舞伎座でも大好評を受けて同じプログラムで一週間続演した。

 

・4月下旬 ニッポノホンより「新譯ワ゛レンチヤ」「あほ空」「アラビヤの唄」発売。(5月新譜)

 

・5月6日〜11日

浅草・電気館に井田一郎指揮ジャズバンドが戻るがこの週は二村はお休み。

 

・5月12日〜17日

浅草・電気館の井田バンド演奏に二村が復帰する。曲目未詳。

 

・5月18日〜24日

浅草・電気館、井田バンド。「スタムペッド」「宵待草」「バレンシア」を歌う。

 

・5月25日〜31日

浅草・電気館、井田バンド。「カレッヂエート」「レザーエッヂ」「ストトン」を歌う。

 

・6月1日〜7日

浅草・電気館、井田バンド。この週は二村が出演しているか分からなかった。

 

・6月7日

有楽町の松竹系劇場・邦楽座で天野喜久代とともにジャズ大会に出演。このときのバンドについては未詳だが楽員20名という大編成であった。

この時は「帰れソ連とへ」「花嫁人形」「アラビヤの唄」「世界の足下に」「愉快になさい」などを歌った。

 

・6月8日〜14日

浅草・電気館、井田バンド。「プロミスミー」「愉快になさい」「感激の歌」を歌う。「感激の歌」は同名の松竹映画主題歌を川崎豊がコロムビアに吹き込んでいるが、同曲だろうか。

 

・6月15日〜21日

浅草・電気館、井田バンド。「バイバイ、ブラックバード」「ハワイアンラブソング」を歌う。

 

・6月24日

「映画と独唱の夕」時事新報社講堂(丸の内) / 静田錦波後援会

 この会については冒頭に詳しく記した。

 

・6月22日〜7月6日

この間、電気館でのジャズ演奏は行なわれなかった。というのも、なんと井田一郎のチェリージャズバンドのメンバーが全て井田の許を去ってしまい、新しくバンドを組む必要があったからである。バンドメンバーの変遷については「沙漠に日が落ちて」か「ニッポン・スウィングタイム」をご参照いただきたい。

 

・6月下旬 オリエントより「枯れ枯れ」発売。(7月新譜) この「枯れ枯れ」は大正15年11月新譜のニッポノホン録音の再発である。

 

・7月7日〜13日

浅草・電気館、井田バンド。新しい編成の井田バンドでジャズ演奏が再開される。二村は不出演で、天野喜久代が「青空」「ヴァレンシア」「ハバナ」を歌った。

 

・7月12日 

日本蓄音器商会に井田の新チェリージャズバンド、天野喜久代とともに「ストヽン節」「木曽節」を録音(天野との共唱はストヽン節のみ)。

井田のバンドはこの時は「松竹ジャズバンド」を名乗っている。電気館が松竹系の映画館だからだ。なお同日、井田一郎(指揮)松竹ジャズバンドと岩田定子によって「安来節」「磯節」「小原節」が録音されている。かつてこれらは二村の変名盤とされていたが全くの別人である。

 

・7月14日〜26日

浅草・電気館、井田バンド。「エロー・アロハ」「佐渡おけさ」「テルミー」を歌う。

 

・7月27日〜8月2日

浅草・電気館、井田バンド。「リオ・リタ」「チャイニーズムーン」「木曽節」を歌う。

 

・7月下旬 ニッポノホンより「アディオス」「雨」発売。(8月新譜)

 

・8月3日〜9日

浅草・電気館、井田バンド。「ペルシャン・ラグ」「冬来たりなば」「ティティナ」を歌う。

 

・8月9日

JOAKより伊庭孝=作のラジオリヴュー「ファウスト・イン・ブルウ」(全7景)を放送する。ゲーテの「ファウスト」をレヴュー化した作品で、二村は老博士役の主役。ほかには木村時子、天野喜久代、黒木憲一、波島章二郎が出演し、福田宗吉(指揮)JOAKジャズバンドが演奏した。

 

・8月10日〜16日(?)

浅草・電気館、井田バンド。蒲田映画「彼と田園」主題歌を歌う。

 

 ・8月中旬に二村定一と天野喜久代、立教大学の学生バンド「ハッピー・ナイン・ジャズ・バンド」がニットーレコードの東京スタジオで「浅草行進曲」「アルゼンチンの踊」「第七天国」「リオリータ」「スペインの思出」などを録音する。

この東京スタジオは後に神田の九段下ビルに構える大スタジオと異なって狭苦しく、真夏の吹込みでは往生したという。

 

・8月24日〜30日

浅草・電気館、井田バンド。「モンナ・ヴンナ」「バルセロナ」「カタリナ」

 

・8月31日〜9月6日

浅草・電気館、井田バンド。「ダイナ」「モンナ・ヴンナ」「ボルガの薔薇」というプログラムだが、二村も出ているのか曖昧である。

 

・9月5日

日本蓄音器商会へ、天野喜久代とともに「バルセロナ」「ハレルヤ」を録音する。この時のジャズバンドは市販レコードには「東京ユーナイテッド ジャズバンド」と印刷されたが、コロムビアの資料によれば井田一郎(指揮)松竹ジャズバンドということである。

 

・9月13日

ビクターへ「ストトン」「木曽節」「青空」「アラビアの唄」を録音。演奏は井田のバンドだが、7月の改変から更にメンバーが一新されている。ビクター録音時/ビクター関連の実演の折は「日本ビクタージャズバンド」と名乗ることとなる。

 

・9月14日〜20日

浅草・電気館、井田バンド。「カンヂスの明月」「カタリナ」「ハレルヤ」を歌う。

 

・9月20日

ビクターへ「笑ひ薬」「平凡節」を録音する。「平凡節」は佐藤千夜子との共唱であるが、市販レコードには名が記されなかった。

 

・9月21日〜27日

浅草・電気館、井田バンド。14〜20日と同じプログラム。

 

・9月28日〜10月4日

浅草・電気館、井田バンド。「レイン」「バルセロナ」「ヴォルガの船歌」

 

・9月下旬 ニットーより「浅草行進曲」「アルゼンチンの踊」発売。(10月新譜)

 

・10月1日 

ビクターから「ストトン」「木曽節」「青空」「アラビアの唄」発売(10月新譜)

 

・10月1日

ビクターへアーネスト・カアイ・ジャズバンドとともに「ハワイの唄」「アマング・マイ・スーヴニーア」「ウクレルベビー」を録音。

ビクター台帳に録音日が記録されていない「ブラームスの子守唄」「荒城の月」も或いはこの時の録音かもしれない。

 

・10月5日

ビクターへ井田一郎(指揮)日本ビクタージャズバンドとともに「佐渡おけさ」「新磯節」「君恋し」「ヴォルガの船唄」を録音

 

・10月5日

JOAK 19:25〜

「喜劇の夕」全3作中の第2作 放送リヴュー「東京莫迦」(伊庭孝=作)に出演。

二村以外の出演者は天野喜久代、木村時子、波島章二郎、谷五郎、石田守衛、和田弘、柳文代、明石須磨子、冨士野登久子、吉野八重子。井田一郎(指揮)松竹ジャズバンドの演奏。この放送レヴューで歌われた「AさんBさん」「愛の古巣」は天野喜久代がコロムビアでレコード化している。

 

・10月5日〜12日

浅草・電気館、井田バンド。前週と同じプログラム。

 

・10月13日〜19日

浅草・電気館、井田バンド。「アイルランド」「新磯節」「オリエンタル・ジャズ」予告記事には二村の名は無い。

 

・10月20日〜26日

浅草・電気館、井田バンド。「ホット・シート」「サキセマ」(サックス独奏)「新磯節」この週も新聞の予告には二村の名が無い。

 

・10月27日〜11月2日

浅草・電気館、井田バンド。「ソニア」「都を離れて」「君恋し
この回で録音したての「君恋し」が披露されることに注意。

 

・10月下旬 ニッポノホンより「バルセロナ」「ハレルヤ」発売。(11月新譜)

 

・10月下旬 コロムビアより「木曽節」「ストヽン節」発売。同時に「新譯ワ゛レンチヤ」「あほ空」「アラビアの唄」を再発売。(いずれも11月新譜)

 

・10月下旬 ニットーより「第七天国」発売。(11月新譜)

 

・11月3日〜9日

浅草・電気館、井田バンド。「ソニア」「ウクレレベビー」「出船の港」を歌う。

 

・11月10日〜16日

浅草・電気館、井田バンド。「ワンステップ・ツー・ヘヴン」「出船の港」「ヘドラスカ」「栄冠の歌」(映画「陸の王者」主題歌)

 

・11月17日〜23日

浅草・電気館、井田バンド。「スヰーチスト・ガール」「出船の港」「リオ・リタ」を歌う。

 

・11月下旬 ニットーより「リオリータ」「スペインの思出」発売。(12月新譜)

 

・12月1日

ビクターから「ハワイの唄」「アマング・マイ・スーヴニーア」「笑ひ薬」「平凡節」「新磯節」「佐渡おけさ」発売。(12月新譜)

 

・12月1日〜7日

浅草・電気館、井田バンド。「ムーンライト、エンド、ローズ」「スパニッシュ、エスパニョル」を歌う。

 

・12月11日〜17日

浅草・電気館、井田バンド。「アイム・ソーリー・サリー」「白帆」「当世銀座節」を歌う。

 

・12月20日

ビクターから「君恋し」「ヴォルガの船唄」発売。(1月新譜)

 

・12月20日〜25日

浅草・電気館、井田バンド。11〜17日と同じプログラム。

6日間という半端な日数なのは、26日から松竹映画の上映が浅草・観音劇場に移るためである。井田のバンドも観音劇場に引越し、電気館の奏楽は近藤正(指揮)電気館管絃団が引き継いだ。

 

・12月26日〜

浅草・観音劇場、井田バンド。「応援歌」ほか。

 

・12月29日

JOAK 正午12:05〜「ジャズの時間」に出演。JOAKジャズバンドの演奏で「さびしい影」「昨日のバラ」「流れの浮木」「都離れて」(いずれも伊庭孝訳詞)を歌う。

 

以上でこの年は終わりである。

 

電気館での演目はバンド演奏と二村のボーカル入りとが混在しているが、便宜上、予告に載ったタイトルをそのまま写した。

ラジオや浅草・電気館で歌ったレパートリーは、初期の二村レコードにけっこう多く残されている。初期の二村レパートリーが実演の演目からレコード化されたことがよく分かるので、年譜を眺めながら聴くのもまた一興である。以下のCDにこの頃の二村レパートリーが収められている。

 

「スウィング・タイム」(日本コロムビア)には「あほ空」「アラビヤの唄」を、「私の青空二村定一ジャズ・ソングス」(ビクターエンタテインメント)には電気館で井田一郎のチェリージャズバンドと歌った多くのナンバーを収録した。ぐらもくらぶの「帰ってきた街のSOS!」と「大東京ジャズ」では、ニットーレコードに吹き込んだレパートリーがほぼ全て聴けるし、ビクターのCDに入れられなかった電気館ナンバーも補完できた。

 

(続く)

二村定一年譜補完計画

はじめに

自分の著作の補遺をwebで公開しようと思い立った。

自著といってもまだ単著が四冊あるばかりだが、いずれも上梓してから後に新しい情報を入手したり、訂正が必要になったりしている。その数が馬鹿にならない。

そういう訂正・追加事項はいちいち自用の本にメモを挟み込んできたのだが、いつまでも本の中に紙切れを溜め込んでいても仕様がないので、まとめながら公開してみようというわけである。

また、紙幅の関係で校正時に書籍から省いた情報もあったりして、それが存外のちのちまで心に引っかかったりするものである。そうした積み残しの原稿も、まあ歌詞など著作権の絡む情報はいけないが、活字になっていない部分を書き出していきたいと思っている。

はじめはnoteでやろうと考えてアカウントを拵えてページを作ったのだが、どうも此れはnote向きの内容ではないな、と感じたので白紙に戻した。やはりいつものスペースがしっくりくる。

瑣末にわたる事柄であるし、べつだん自分の感情や私的な生活を披瀝するわけでもないのであまり面白いものにはならないと思うが、自分が取り扱ってきた世界にすこしでも興味を持って下さる方のお役に立てれば、と考えている。

 

大正期

まずは『沙漠に日が落ちて─二村定一伝』(講談社)である。2012年1月に出版したので、恐ろしいことにいつの間にか5年が経とうとしている。

二村定一を伝記化しようと発起したのは高校時代である。そのころ京都のコレクターN氏からコピーで送ってもらったレコード・コレクターズ誌の記事『ジャズソングは二村定一から(上/下)』(大川晴夫)をベースにして簡単な年譜とディスコグラフィを作り、あとは20年間にちまちまとデータを蓄積した。

 

『沙漠に日が落ちて』執筆の時点では大正末期の二村の様子がよく分からなかったうえ、複数の文献を突き合わせる過程で錯誤も生じた。

◯本文p.70の

「そのあと七月二十五日から十月いっぱい、千賀美寿一、岩間百合子など佐々紅華が率いるミカゲ系の歌手とともに東北・北海道巡業の旅に出ている。」

という一文は本文・巻末年譜ともに大正13(1924)年に組み込まれているが、大正十五年の誤りである。

 

◯年譜の大正14(1925)年の項目はスカスカだが、五彩会に加わっている間(1月〜10月)に、名古屋で次の歌舞劇団にも出演していた。

4月30日〜5月10日 「高田雅夫・原せい子帰朝披露公演」タカタ舞踊喜歌劇団

(この情報はツイッター上で岡鹿郎氏 @kmar1320 のアップした紙資料によって知った)

五彩会もタカタ舞踊喜歌劇団二村定一の恩人が関わっている。この補足情報は、大正末期、めきめきと実力を備えつつあった二村が佐々紅華や高田雅夫に重用されていたことを示す。

 

◯大正15(1926)年の項に、

「そのあと七月二十五日から十月いっぱい、千賀美寿一、岩間百合子など佐々紅華が率いるミカゲ系の歌手とともに東北・北海道巡業の旅に出ている。」

が移動する。この東北巡業の顛末は評伝上梓後、清島利典氏の『浅草オペラ巡業-佐々紅華・妻からのたより-』(刊行社)で詳らかになった。大正15(1926)年7月〜10月27日にわたる巡業の足どりは次のとおりである。

仙台・仙台座→青森・弥生座、新開座→岩手・盛岡劇場→青森・遊楽座→函館・大黒座→旭川・佐々木座→小樽・中央座→函館・大黒座、巴座、帝国館→青森・遊楽座→秋田・園藝座、土崎劇場、仙北劇場(?)、大正天皇即位記念館→仙台・歌舞伎座→福島・新開座。

 

巡業にまつわる書簡からは、二村定一がこのころ佐々紅華の書生であり、佐々に何くれとなく面倒をみてもらっていた様子が分かる。

(続く)

新著刊行とイベントのお知らせ

新著刊行

先月下旬、4冊目の著作となる『ニッポン エロ・グロ・ナンセンス 昭和モダン歌謡の光と影』を講談社選書メチエより上梓しました。 



また、関連企画としまして、ビクターエンタテインメントより『ニッポン・エロ・グロ・ナンセンス モガ・モボ・ソングの世界』も好評発売中です。


正直なところ、エロ歌謡というとてつもなく遊蕩的な香りのただよう、趣味性の高いテーマが選書メチエに決まったのは筆者にとって驚きでした。
内容的にはもちろん真面目に書いたので、これまで単行本で出していた自分にとって初の選書がメチエで、喜びを感じています。
テーマがテーマなので図書館に入ることはあまりないだろうなぁと思っていましたが、蓋を開けたら大学・教育機関や公立図書館にけっこう架蔵していただいている様子。内容が認められたのであれば、これまた嬉しい話です。
執筆は自動車事故で入院しているベッドの上で、アイホンをちまちまといじりながら始めました。この書籍の企画じたい、先行するCD『ねえ昂奮しちゃいやよ 昭和エロ歌謡全集 1927〜32』(ぐらもくらぶ)の敷衍であり、昭和初期という自分の好きな時代なので楽しく書き進められました。苦心はもっぱら「エロ・グロ・ナンセンス」という時代の惹句をいかに可視化するか? に傾けられました。
エロ歌謡という立脚点からエロ・グロ・ナンセンスを解釈したので、「エロ」はともかく、「グロ」「ナンセンス」という要素に関しては主に対する従という扱いになりました。その関係性に関しても、うまく解決できているか分かりませんが、出来得るかぎりで苦心しました。
書籍化に当たって困難な問題もありましたが、こと「エロ・グロ・ナンセンスの歌謡をまとめあげる」という初志は十二分に果たせました。 斎藤佳三の装画(楽譜)による素敵な表紙は、exciteブログ『モダン周遊』のsuzu02tadao氏よりお借りしました。ここに厚くお礼を述べます。ひと目で内容を語り尽くす、雄弁な表紙となりました。


トークイベント

11月20日(日)、新著刊行記念として西荻ブックマークでトークイベントを行ないます。

もっぱら書籍に関連したお話とレコードを聴いていただこうという主旨です。
『第95回 西荻ブックマーク 毛利眞人新刊・刊行記念トークイベント』
日時:2016年11月20日(日曜日)
開場:16:30 開演:17:00 終演:19:00(予定)
会場:ビリヤード山崎 2階 (東京都杉並区西荻北3-19-6、西荻窪駅北口徒歩1分) 
料金:1,500円
内容的にはまだ詰めている最中なので、告知内容を変更することもあります。こぞってお越しください。


転居&新著・新監修CD&イベントのお知らせ!!!!

引っ越しました!

5月のイベントを終わって以降、あまりの忙しさにゆっくりブログを綴る暇すらありませんでした。いくつかの告知があるのですが、ひとつ目はお引っ越しです。

大阪から東京に遂に引越しました。

もともと東京に出ないと仕事関係のもろもろが逼塞して停滞してたいへん都合が悪かったので、満を持して転居しました。

新しい住居には交通の便と住環境を優先しました。6月に東京で物件を見繕い、幸いどちらの条件をも満たす物件があったので、帰阪後まるまる一ヶ月半は契約と引越しの準備に費やしました。7月下旬、引っ越しました。

 

新著と新しいCDのお知らせ!!

東京に転居するのと前後して、新著の上梓が決まりました。また、著作と連動した企画のCDの制作も引越し前から始まっており、著作の最終原稿出しと校正、CD監修、そこに加えて引越しにまつわる諸手続きで、7月下旬から9月いっぱいは一言でいってしっちゃかめっちゃか。その場その場の場当たりで必要事項をこなしながら進捗してゆきました。

その産物がこちらとなります。

ビクターエンタテインメント『ニッポン・エロ・グロ・ナンセンス モガ・モボソングの世界』
2016年9月28日発売

 


講談社選書メチエ『ニッポン エロ・グロ・ナンセンス 昭和モダン歌謡の光と影』
2016年10月12日発売

表紙デザインがまだ上がっていませんが、昭和初期エロ・グロ・ナンセンス時代のイメージをたっぷり含んだ素晴らしいデザインで出来上がっております。

このふたつの新作に付随して、またまた江戸東京博物館に於いて発売記念イベントを行ないます!!!

www.jvcmusic.co.jp

 

著作・監修を行なった毛利が第一部で新しい作品を肴にトークあり、スライドありで大わらわでエロ・グロ・ナンセンスとはなんぞや?を解き明かしていきます。異色ユニット『泊』(山田参助・武村篤彦)によるエログロ歌謡の実演は必聴!!

なお、上記イベント公式サイトの画面(スマホ)やサイト情報のプリントアウト、都内各所で配布しているチラシによって、当日入場料 2500円が2000円となります!

これを使わないテはないですぞ!

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