ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

戦前のミュゼット音楽②

ミュゼット音楽からはたちまち離れるが、「アンコールの宮殿にて」に触れたのでアコーディオン奏者の長内端を紹介せねばなるまい。
 
長内端(おさない・ただし 1910〜77)は帝大工学部という音楽家では異色の出身だ。しかし、その経歴が戦後にドンカマを生むことになる。帝大工学部に在学中から長内はオルケスタ・シンフォニカ・タケヰでマンドローネを演奏していた。その後アコーディオンに転じて、JOAKの新人演奏家募集などで頭角を現した。1938年6月に東京スタンダード・アコーディオン・クラブを結成し、理事として選曲、編曲、指揮を司った。
長内は工学部出身らしく「特殊電気アコーディオン」なる楽器を操った。独奏会でステージ映えするよう電気的な増幅装置を備えたアコーディオンなのだろうが、レコード録音にもこれを用いたのかは分かっていない。
 
録音は1937年からビクターにある。最初のレコードはビクター廉価レーベルのスター(1937〜38)で、「碧空」「マリネラ」(1937年9月)という組み合わせだった。2枚目からは、スターを引き継いだ廉価レーベルのZシリーズ(青盤)でリリースされている。スタンダードな価格帯である黒盤(1円65銭)の下位にあるのが青盤(1円10銭)である。
これは長内の演奏が軽んじられていたというわけではない。1910年代からアメリカ・ビクターでは木琴、口笛、アコーディオンといった名人芸が廉価な青ラベルに区分されていた。その流れを日本ビクターも受けているのであるが、これは高踏的なクラシカルミュージックと大衆音楽との格差というよりもアコーディオンの大衆的な人気から廉価盤に組み込まれたのであろう。
 
1939年1月 「トルコ行進曲」(モーツァルト) / 「軍隊行進曲」(シューベルト) Z-100
 
1939年4月 「小牧神の行進」(ピエルネ) / 「玩具の兵隊の観兵式」(イエッセル) Z-138
 
1939年6月 「野崎村」 / 「新内流し」  Z-166
 
1939年8月 「太平洋行進曲」 / 「軍艦行進曲」 Z-200 (この一枚は東京スタンダード・アコーディオン・クラブの合奏である)
 
1939年9月 「ハンガリアン・ラプソディー 第二番」 Z-216
 
以上が青盤でリリースされた録音である。編曲は全て長内端。
 
 
 

f:id:jazzrou:20190622110509j:plain

 
 
これはピエルネの「小牧神の入場」(1939年4月)である。
 
ガブリエル・ピエルネはフランスの現代作曲家で、戦前は作曲家・指揮者として知られていた。「小牧神の入場」は自作自演を含むレコードが数種出ていたほか、日本では近衛秀麿(指揮)新交響楽団のレパートリーとしても親しまれていた。アコーディオンへの編曲は珍しくて、フランス現代楽(といっても親しみやすい作品だが)を選曲したのは、あるいは早くからミュゼット志向が長内の中にあったのかな? と思わせる。
 
 
それからぜひ再評価したいのがこの名演だ。「ハンガリアン・ラプソディー 第二番」(1939年9月)。
 

f:id:jazzrou:20190622110601j:plain

 
原曲はピアノの技巧曲として知られている。それを技巧をスポイルすることなく10吋2面いっぱいにアレンジし弾ききっている。音楽性豊かで且つ超絶技巧の名演だ。1円10銭の青盤なのが勿体なく感じられる。
 
アコーディオニストは他にもいるが、レコード両面にわたって超絶技巧を散りばめた本格的な演奏は、長内ただ一人である。
他社を見回しても、高橋孝太郎(コロムビア系)はソロ録音よりもアンサンブル、伴奏楽団に参加することが多く、また編曲に力を入れていた。その仕事の旺盛さはアコーディオン奏者随一で、月に二、三千円稼いでいたといわれる。ちょっと意外かもしれないが、テイチクの藤山一郎「東京ラプソディ」も高橋孝太郎がアレンジしている。
小泉幸雄(テイチク)は古賀政男の楽曲を中心に、ジャズソングや流行歌の主情的な演奏が多く見受けられる。この人については、長内をまとめたのちに少し紹介するつもりである。
杉井幸一(キング)はバンドネオン奏者だが、レコードではなぜかアコーディオン独奏を録音している(キング・ノベルティー・オーケストラのサロン音楽に二、三バンドネオンで加わった録音がある)。アレンジの奇抜さアイデア豊富さに比するとスタンダードな演奏だが、大曲向きの器を感じさせる奏風である。ソロをラテン系のナンバー4曲(ポエマ、スペインの姫君、夢のタンゴ、愉快なルンバ)しか残していないのは残念だ。
 
 
1940年から長内のレコードはJシリーズの標準価格帯に編入された。これは軽音楽人気の高まりと呼応するものだろう。
ジャズは相変わらずレコードでも実演でも高い人気を持っていた。というより日本人の生活に抜き難く浸透していたのだが、時勢は戦時体制であり、健全な「軽音楽」が主としてラジオ放送で大きくフィーチャーされはじめていた。ジャズもやがて軽音楽に包含されるようになる。
ディスコグラフィーの続きを挙げよう。
 
1940年1月 
「長崎物語」「馬と兵隊」 J-54675
「雨の上海」「熱海ブルース」J-54676
「青いチョゴリ」「月の浜辺で」 J-54677
 
1940年6月 軽音楽アルバム 第一輯
「黒い眼」「山の人気者」 A4801
「ラ・クムパルシータ」「ルムバ・タムバ」 A4802
「ドナウ河の漣」「美しく碧きドナウ」 A4803
 
1941年12月 軽音楽アルバム 第五輯
「日本ファンタジー」「ウインナの想ひ出」 A4829
 
1942年4月  軽音楽アルバム 第八輯
「アンコールの宮殿にて」「可愛いトンキン娘」(仏印の印象) A4838
 
1942年6月 軽音楽アルバム 第十輯
「楽しい仲間」「人形の兵隊」 A4844
「希望の星座」「空の護り(空襲なんぞ恐るべき)」 A4845
ボレロ」「ウィルヘルム・テル」 A4846
 
1942年11月
「枢軸の調べ」 A4870
 
1942年12月 軽音楽アルバム
「木曽節」「鴨緑江節」 A4872
「宵待草」「波浮の港」 A4873
「秋の色種」「小鍛冶」 A4874
 
1943年1月
「千代の唄」「東京むすめ」 A4880
 
1943年6月
「ドリゴの小夜曲」 A4889
 
1943年10月 手風琴アルバム 第四輯
「詩人と農夫」 A4912
「天国と地獄」 A4913
軽騎兵」 A4914
 
1943年12月
「美はしき西班牙(エスパーナ)」 A4918
「学徒の調べ(エストゥディアンティーナ)」 A4919
「金と銀」 A4920
 
1944年1月
「若き日の歓び」「アムール小唄」 A4923
 
このほかキングに若干の録音がある。
愛国行進曲」 21111
「軍歌集」 67072
「懐かしの名曲集」 と195
 
長内端の真骨頂は、これら1940年代のレコーディングに窺われる。
 

f:id:jazzrou:20190622110711j:plain

 
長内のレパートリーは、先に少し挙げたようにclassical musicを含んでいる。これはラヴェルの「ボレロ」(1942年6月)。
1940年代にはまだ現代音楽の範疇にあった「ボレロ」は、アメリカのハーモニカ奏者ラリー・アドラーのレコードが評判よく、このレコードの存在が長内にアコ編曲の示唆を与えたのではないかと考えられる。
 

f:id:jazzrou:20190622111003j:plain

 
戦時中も愛唱歌や流行歌、軍歌などアコーディオン独奏でレコード化する素材は多々あり実際レコード化していたが、1943年10月にはスッペの「詩人と農夫」、オッフェンバッハの「天国と地獄」、スッペの「軽騎兵」という3曲のオペレッタ序曲集をアルバムで発表する壮挙に出ている。ポピュラーな選曲だが、そこそこの長さの管弦楽曲アコーディオンの独奏で10吋両面にわたって演奏するとなると話はちがう。こんなことをするのは長内くらいで、海外にもあまり録音例がない。
なお、「ボレロ」含めすべてフランスの作曲なのも、彼がミュゼットを志向していた現われではないだろうか。

戦前のミュゼット音楽①

洋楽のささやかなコレクションに、いつの間にかミュゼットのいいレコードが溜まっていたので並べてみる。まずアンリ・モンボアッセ。 仏Odeonの1932年カタログには、マルソーやエミール・ヴァシェーと共に多くのアンリ・モンボアッセが挙げられている。彼のレコードは日本ではパーロホン(のちにコロムビア)からリリースされた。

f:id:jazzrou:20190605042708j:plain

 
パーロホン初出の「ドン・ホセ Don Jose」はのちにコロムビアでもプレスされ、コロムビア盤の方で大ヒットした。日本では小泉幸雄のアコーディオン独奏、明大マンドリン倶楽部、豊吉の三味線など様々にレコード化され、今日もマンドリンオーケストラやミュゼットのレパートリーとして定着している。

f:id:jazzrou:20190605041656j:plain

 
フランス映画は昭和初期、名作を多発して洋画界の一角を占める雄であった。その主題歌も「巴里の屋根の下」「巴里祭」をはじめとして、日本ではたいへんポピュラーだった。 
 

f:id:jazzrou:20190605042735j:plain

f:id:jazzrou:20190605042757j:plain

ペグリ兄弟の「モン・パパ C’est pour mon Papa」は1931(昭和6)年11月臨時発売。 エミール・ヴァシェーの「うっちゃっとけよブブール T’en fais pas Bouboule」は1932年6月新譜。いずれもジョルジュ・ミルトンの歌う主題歌がコロムビアで発売されたのとほぼ同時に日本パーロホンがリリースしている。これら仏映画主題歌のミュゼット盤も、日本でのアコーディオン熱をより高めた。
 
このエミール・ヴァシェーのフランスでの人気はすばらしく、仏Odeonの1932年(6月まで)のカタログには83枚(166面)も掲載されている。これは他のプレイヤーを圧する数量で、コロムビアのモーリス・アレクサンダー管弦楽団、パテのフレッド・ガルドーニと鼎立している。

f:id:jazzrou:20190605042149j:plain

仏ODEONの1932年度版 総カタログ

f:id:jazzrou:20190605042237j:plain

f:id:jazzrou:20190605042254j:plain



この仏オデオンカタログから1931〜32(昭和6〜7)年に日本パーロホンがプレスした「レコンシリエーション Reconciliation」と「愉快な兄弟 Merry Boys」、コロムビアが1938(昭和13)年に発売した「プレシピート Precipito」。これらは元々は1926年〜1930年の録音なので、日本ではやや遅れて紹介されたわけだ。

f:id:jazzrou:20190605041436j:plain

f:id:jazzrou:20190605041535j:plain

f:id:jazzrou:20190605041620j:plain



 
エミール・ヴァシェはいかにもミュゼットらしい洒脱な楽曲はもちろんだが、「ドリゴのセレナーデ」のようなセミクラシックや、「バイ・バイ・ブラック・バード」のようなティン・パン・アレイの楽曲も演奏した。この曲のこんなに洒脱な演奏はほかに無い。これは1926年録音で、日本では1932(昭和7)年7月新譜。

f:id:jazzrou:20190605041222j:plain

エミール・ヴァシェー「バイ・バイ・ブラックバード
 
20年以上前のCMに使われていた音楽に、たまたまSP盤で遭遇した。それがルビー・ゴールドスタイン管絃楽団の「アンコールの宮殿にて De picpus au Plais D’Angkor」(1930年録音)で、日本では1933(昭和8)年11月新譜。この楽団は無名だが、曲のほうはいまでもミュゼットのレパートリーに残っているようで、比較的最近の録音がyoutubeにある。

f:id:jazzrou:20190605041737j:plain

ルビー・ゴールドスタイン管絃楽団「アンコールの宮殿にて」

f:id:jazzrou:20190605041918j:plain

解説カード
これをカバーしたのが長内端と日本ビクター軽音楽団で、1942(昭和17)年4月新譜でリリースされている。日本が進駐していた仏印がテーマということで、時機に投じた企画だったのだろう。これは実によくできたカバーで、ゴールドスタイン楽団とほぼ遜色ない演奏水準とエスプリが感じられる。ちなみにいったい何のCMだったのかは失念してしまった。おしゃれな軽自動車だったような気もする。

f:id:jazzrou:20190605042034j:plain

長内 端の「アンコールの宮殿」
 
僕のミュゼットへの興味はこの辺までで、戦前に日本でプレスされたテイクに限られている。
ミュゼットの黄金時代を日本はほぼリアルタイムで享受していたのだが、ミュゼット音楽の魅力について触れられた文献は乏しい。大雑把に「アコーディオン音楽」として纏められていたに過ぎない。戦前の日本でそのエスプリがどの程度理解されていただろう? 日本プレスによるミュゼット音楽の遺産は、いま、現代になって真価を発揮するのである。
1940年代以降のミュゼットにはあまり興味はなく、たまに耳にすることもあるが、よくよく見たら戦前のナンバーのカバーだったりする。たとえば、大阪に住んでいたとき常連だった「赤白 Rouge et blanche」によく流れていたBGM”Les Triolets”(三つ子)は上にも記したエミール・ヴァシェーとペグリの共作によるポルカで、今でもこの音楽を聴くとついワインを欲してしまう。それから、CMで脳裡にこびりついている「アンコールの宮殿にて」だ。いずれも新しい演奏で聴いていたものが実はカバーであった。
こうした個人的な経験を通して音楽をたどるとSP盤にたどり着くことは、実はよくあることである。1980年代末か1990年代初頭だったと思うが、古いミュゼットの雑なアンソロジーが何種類もCD化されてWAVEやタワレコに群れをなしていた。たしかシャンソンの歌手別のアンソロジーもあった筈だ。その当時はSP期の音源ということで興味はあったものの、手を伸ばすところまではいかなかった。30年の間にいつの間にかその方面のレコードをコレクトしていたのは、気持ちの何処かでCD群を買い逃したことが引っかかっていたのであろう。

 

春季特別展『音楽家 貴志康一 生誕110年〜吹田に生まれた若き天才』

今年は貴志康一(1909〜1937)の生誕110周年。

貴志が生まれ育った大阪府吹田市では、その記念催事として吹田市立博物館にて春季特別展「音楽家 貴志康一 生誕110年〜吹田に生まれた若き天才〜」展が開催されます。

 

f:id:jazzrou:20190409023648j:plain

チラシ①

f:id:jazzrou:20190409023719j:plain

チラシ②


2019年4月27日(土)〜6月9日(日)
 
この展覧会の初日、27日(土)午後2時45分より講演「貴志康一 28年の軌跡」(4時45分まで)を行ないます。
また翌4月28日(日)午後1時30分より、貴志康一監督・音楽作品「鏡」「春」(ともに1933年 独ウーファ社/国立映画アーカイヴ提供)が上映されます。上映に先立って、映画の解説を加えます。2本の短編映画を貴志が製作した背景と撮影について、音楽についてくわしく知れば、これらの作品がより楽しめることでしょう。
 
2006年に『貴志康一 永遠の青年音楽家』(国書刊行会)を上梓してから13年。その間に新たな知見もあり、今回の講演/解説にもできる限り盛り込むことができれば、と考えております。
 
展覧会では、甲南学園貴志康一記念室より提供される楽譜や写真、レコードなど貴志の遺品を見ることができます。この記念年に、ぜひお越しください。
 

f:id:jazzrou:20190409023832j:plain

貴志康一の発表記事より。

f:id:jazzrou:20190409024033j:plain

貴志家の家族写真。1926年、康一が渡欧する記念に。(ディープラーニングによるカラー化を施した)
 
 

「ラ・フォル・ジュルネTOKYO 2018での講演」

f:id:jazzrou:20180505110257j:plain

     Atelier Binder(撮影), 1935  Koichi Kishi

 

これは、ラ・フォル・ジュルネTOKYO 2018 で5月3日(木)に行なわれた関連講演の原稿です。5日(土)の本名徹次(指揮) 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団, 貴志康一 : 交響曲仏陀』の予習という意味合いで行なわれました。

講演原稿ですが、このまま忠実に読んだわけではありません。最初の10分くらいで「このまままともに読んでいたら2時間になるな」と思い、要点をかいつまんで講演しました。読んでいただくに当たっては丁寧に順を追って書いた原稿の方が良いだろうと考え、そのままアップする次第です。

 

f:id:jazzrou:20180505105734j:plain

 

『東洋と西洋を架橋する〜貴志康一の壮大な夢〜』

ラ・フォル・ジュルネ東京で貴志康一が取り上げられると知りまして、貴志の伝記の作者である私は驚喜しました。

この音楽祭、今年のテーマは「モンド・ヌーヴォー 新しい世界へ」です。故郷を離れ異国の地に渡って、そこで得たインスピレーションを創造の糧にした作曲家たちをとりあげています。17歳で単身留学して、紆余曲折を経てベルリンで作曲家、指揮者として活躍した貴志康一は、まさにこのテーマにふさわしい音楽家だと思います。

聞くところでは、ラ・フォル・ジュルネのアーティスティック・ディレクターのルネ・マルタン氏から一番に名前の挙がったのが、貴志康一だったそうです。

今日の演題「東洋と西洋を架橋する」というのは、実は貴志がベルリンで志した理想のキーワードでして、彼自身周囲にそう宣言しています。そうして、貴志の作曲や活動に対しても、東洋と西欧、異なる文化の橋渡しという意味合いでüberbruckung(ユーバァブリュックング)という言葉が新聞の批評にしばしば現われています。ベルリンの聴衆にとって貴志の描き出した日本の情緒は初めて接する、まったく新しい世界だったのではないでしょうか。

 

① 生い立ち

貴志康一という人は、日本の作曲家の中で名前を聞くわりには、まだその生涯がよく知られているとはいえません。 

その理由としまして、次のことが挙げられます。

まず1つめ。貴志は大阪、戦前は大大阪と言っておりましたが、大阪の文化圏で才能を育んだので、東京では知られていませんでした。ベルリン・フィルを指揮して帰国して、東京で華々しく活躍したので「彗星のように現われた」という言われ方をしましたが、それだけ東京の楽壇では知られていなかったことが挙げられます。

それから第2に、あまりにも早く亡くなってしまったこと。昭和12年に28歳で没しました。東京で指揮者として成功して、これから、というときに死んでしまって、さらにその後、戦争を挟みましたので、戦後には東京では忘れられてしまいました。もともと東京であまり人となりを知られていなかった上に早く亡くなるというダブル要素で、戦後長らく謎の人となってしまったわけであります。

そこで、まずは康一の前半生をすこしお話しましょう。

 

貴志康一は1909年、明治42年3月31日に大阪の吹田市で生まれました。貴志康一の祖父の初代貴志彌右衛門という人はもともと紀州、和歌山の士族の次男坊でしたが明治維新で世の中が変わるというので大阪へ出て商売をはじめた人です。綿織物の貿易で財を成してからは大阪市内にたくさんの貸家や貸し倉庫を持ったり、鉱山の権利を持ったりして、それがのちのちまで貴志家の財政の礎となりました。お父さんの貴志奈良次郎、二代目彌右衛門という人は冒険家の初代とは真逆に思想家といっていい性格でした。康一の破天荒と言っていい人生はおじいさん譲りでしょうが、そういう康一を理解していちばん応援したのは父親でありました。

貴志康一が生まれたのは母方の実家、吹田市の西尾家邸宅で、このお屋敷はいまでも保存活用されています。康一の生まれたとされる部屋もきれいに保存されています。西尾家というのは皇室に献上する米をつくる仙洞御料で、たいへん格式の高い庄屋さん。そこの当主が貴志彌右衛門と茶道の仲間で、貴志奈良次郎と西尾カメさんが結婚、康一が生まれたというわけです。母親の里で生まれた5日後、お父さんの貴志奈良次郎の住んでいた土佐堀の家に移されました。いまの朝日新聞大阪本社の近所で、貴志彌右衛門という人は朝日新聞の社主・村山龍平とも茶会の仲間でありました。このように明治期の実業家やハイソサエティーはお茶でつながっていたということがいえます。康一の父親の奈良次郎、のちの二代目彌右衛門も藪内流の茶道に熱心でした。それからもうひとつ、初代彌右衛門は仏教の信仰心も相当なもので、はじめは浄土宗でしたが、臨済宗になってから京都の妙心寺で荒れ寺になっていた徳雲院というお寺を復活させて、貴志家の菩提寺にしてしまいました。こうした、お茶と仏教が日常にある雰囲気が、康一に非常に色濃く受け継がれています。

大阪では土佐堀の家は今は跡形もなくなっているんですが、奈良次郎が結婚したときに建てた都島区の淀川べりの家の跡には茶室の松花堂が遺構として保存されています。松花堂弁当の松花堂で京都の有名な松花堂と何らかのつながりがあるのは間違いありませんが、貴志家の松花堂がオリジナルであるのか、あるいは京都の写しであるのかは微妙なところであります。現在では写しであるという見解が有力です。

康一はこの都島区の網島の家で幼少期を過ごしました。都島区は桜の宮といって、造幣局桜の通り抜けが有名なんですが名前のとおり桜の名所です。ですが、大正期に入るとこのあたりは工場が乱立して空気がたいへん悪くなった。康一は下に妹が5人、弟が1人できるんですが妹の一人がぜんそくになってしまった。それで康一小学4年生のときに、芦屋に別荘を建てて引っ越します。大阪の町の中から、当時はまだ海と浜辺が広がる開放的な芦屋に移ったわけですが、この引越でいろんなことが変わりました。まず学校は転校です。それまで康一は陸軍附属の偕行社小学校に通っていましたが、ここは軍隊式の厳しい学校。それが芦屋の甲南尋常小学校へ。甲南は自由に個性を伸ばそうという学校で、康一の人生観というかものの見方は百八十度がらっと変わります。芸術に目が向くのもこの引越しがきっかけといっていいでしょう。芦屋で康一が目指したのは画家です。それからヴァイオリンをはじめました。家族でコーラスもする。妹が多いので家の中でお芝居を演出してみたりする。クリエイティヴな生活で、妹さんはのちに「毎日がお祭りのようだった」とおっしゃっていました。絵画に音楽に楽しんでいた康一ですが、検査で色弱ということが判明して、絵画の道はあきらめてしまいました。そうしてちょうどいいタイミングで1921年、大正10年に名ヴァイオリニストのミッシャ・エルマンが来日公演をします。このエルマンの演奏に聞き惚れて、康一は一気にヴァイオリンにのめりこみまして、将来はヴァイオリニストになる!と決心しました。そうして17歳のとき、1926年、大正15年に単身スイスのジュネーヴ音楽院へ留学をするというわけであります。

 

② ヴァイオリニストから作曲家・指揮者へ。

康一は1929年=昭和4年秋にいったん帰国して日本でヴァイオリニストデビューします。

半年ほどして1930年夏にまたベルリンに行きまして、一年後また帰国。1932年秋、三度目のベルリン滞在をします。めまぐるしく行ったり来たりを繰り返しているのですが、その間にカール・フレッシュやヒンデミットに師事したり、フルトヴェングラーと交流があったり、並の音楽留学生ではちょっと考えられないくらい充実した音楽生活を送ります。そのあたりの詳しいことは評伝をご覧ください。

貴志康一というと「昭和初期に本物のストラディヴァリウスを購入」「ベルリン・フィルを指揮」という伝説が有名です。そうした伝説がひとり歩きして、貴志康一という人の人物像は相当ふくらんだ形で伝えられてきました。「夭折の天才音楽家」というのが通り文句なのではないかと思いますが、そうした派手な行動は彼が生きているときから喧伝されておりまして、演奏に対する批評にはマイナスに働きました。特にヴァイオリニスト時代は「ストラディヴァリウスの音が引き出せていない」「名器に対して技量が劣っている」という類の批評が多数を占めます。戦前派まだ音楽ジャーナリズムが未成熟で音楽批評というものもきちんと確率されていない時代でしたから、批評を鵜呑みにすることはできませんが、貴志がヴァイオリニストから作曲や指揮へとスライドするうえで、批評の影響がまったく無かったともいいきれません。1932年-昭和7年秋、貴志は三度目の渡欧をしますが、この渡欧時にストラディヴァリウスを、購入したヘルマン商会に売却しています。このベルリン時代はホッホシューレには籍を置いていないのですが、1933年まではヴァイオリンの練習をひとりで続けていたことが分かっています。それから、この最後のベルリン時代のメモにレコード録音用のメモが残されております。おそらく実際にはレコーディングはしていないと思うのですが、貴志にとってヴァイオリンはやはり手放せない楽器であったことが分かります。

では、どのへんから作曲を志したかというと、三度目に渡欧する前、1931年から32年に日本にいた時期です。これは比較的はっきりしていまして、その時期に康一はヨーロッパで日本的音階が興味を集めているということを新聞で報告しています。そうして、東洋の音楽の美と西欧のそれとの違いを論考にまとめています。音楽とは別に康一には、したいことがありました。彼の音樂と密接に結びつくことになりますが、「日本の文化をヨーロッパに紹介する事業をするべきだ」と考えるんです。彼が構想したのは日本芸術協会という団体で、日本語英語ドイツ語の雑誌、学術映画の製作、ヨーロッパと日本で映画を交換して紹介する事業の三つをかかげていました。父親が「音楽以外は寄り道だ」といって反対するのですが、映画製作はそのまま突き進めまして、父親の出資で貴志学術映画研究所なる会社まで作ってしまいます。康一の学術映画作りは、いろいろ人が集まるなかでどんどん変貌していきまして、最終的には色彩映画の実験と、前衛映画の実験、康一のアイデアによるドラマが撮影されました。細かい事柄はいろいろあるのですがここでは省略します。

この帰国の間に康一はヴァイオリンの演奏会をして、映画を撮って、それから作曲作品の発表もします。「かごかき」ですとか「赤いかんざし」、康一の代表作になる作品もすでにこの時期に作られますが、いわゆるプロトタイプ。メロディーはほぼ同じですが、伴奏部やハーモニーは現在コンサートで聴けるのとはかなり異なる形です。

1932年秋、3度目の渡欧をした康一は、ベルリンで映画会社のウーファに映画を売り込みます。実験映画はボツになりますが、ドラマといくつかの素材がウーファに売れまして、康一の監督と音樂で短編の文化映画「鏡」と「春」になりました。ちなみに「鏡」では康一が主演しています。

 

映画音楽を作ることになった康一は、ベルリンでエドヴァルト・モーリッツEdvard Moritz(1891-1974)という先生につきます。

この先生の下で、1933年から34年にかけて、日本で書いた作品がぜんぶ書き直されて現在の形になりました。新作としては33年6月からヴァイオリン協奏曲、「鏡」の映画音楽をもとにした「日本組曲」が手始めに作曲されました。このあたりは康一の作品のなかで最も自筆の楽譜がたくさん残されています。研鑽の跡が楽譜からありありと浮かび上がります。ヴァイオリン協奏曲の第一楽章のカデンツァは鮮やかな紫色のインクで一気呵成に書かれていますし、タイトルのないヴァイオリンの独奏曲のテーマだけ拾って、ちょっと手を加えたのが、いま「竹取物語」として知られている曲になります。

たいへん面白いのは、ヴァイオリン協奏曲、日本にいる間から作曲は始まっているのですが、そのプロトタイプは和楽器と洋楽器の和洋合奏で書かれています。ベルリンに来てからモーリッツの下で完全なオーケストラで書き換えられているんですが、そんなところにも康一の東洋と西洋の融合という意識が見られます。

指揮も同じころに先生について勉強しはじめまして1934年、ウーファ主催、日独協会の後援で「日本の夕べ」で映画「鏡」と「春」、それからいま言った歌曲、協奏曲の第一楽章、管弦楽組曲が発表されました。「東洋と西欧の架橋」というふうに批評で注目を浴びたのはこのときです。

 

③ 『仏陀』について

康一の作曲の先生、エドヴァルト・モーリッツという人はハンブルク生まれのユダヤ系音楽家でした。音楽史の愛好家でしたらお分かりかと思いますが一言で言って物凄い先生に学んでいます。ヴァイオリンをマルシックとカール・フレッシュに、ピアノをデュエメとブゾーニに師事。作曲はパウル・ユオン、タニェエフ、アレンスキー、シューマンの系譜のヴォルデマー・バルギールに師事。ドビュッシーにも就きましたが作曲ではなくピアノだったようです。そうして指揮はニキシュに師事。モーリッツ自身、自作ベルリン・フィルで発表しています。こういう経験豊富な先生のもとでさらにヴァイオリンのピースものと歌曲、ヴァイオリンソナタ管弦楽組曲の「日本スケッチ」、バレエ音樂「天の岩戸」、オペレッタ「ナミコ」、そして交響曲ブッダ」が作られます。短期間のわりにはすさまじい量の楽譜が書かれたことになります。モーリッツはかなり事細かに康一の作品の修正点を手紙で送って指導しています。

康一がそんなふうに続々と作曲した1933年から1935年というのはナチス第三帝国が確立した時期でもあります。ユダヤ人音楽家の活動が制限されはじめた時期で、モーリッツはユダヤ文化同盟Jüdischen Kulturbundes に加わらざるを得ませんでした。それでもコンサートの需要は多かったようで、康一がベルリンに滞在していた時期にはベルリンとハンブルクを拠点にして行ったり来たりしていました。ちなみに1937年に日本に招聘されるヨセフ・ローゼンストックもユダヤ文化同盟でオーケストラの指揮をしていました。

実はこのユダヤ文化同盟が、康一の旺盛な作曲の秘密です。おなじユダヤ文化同盟に加入している音楽家でアドルフ・ウォーラウアーAdolf Wohlauer(1893-1943)という人がありました。ウォーラウアーは自分も作曲家で、音楽事務所を持っていました。写譜屋といえばよいでしょう。康一はモーリッツの指導のもとで作曲した管弦楽作品の楽器指定や編成をすると、ウォーラウアーの事務所に託しました。そこでスコアとパート譜の浄写譜が作られます。楽譜に修正が必要になればスコアに指示を書き込んでウォーラウアーに託する、という一種の分業体制が形作られていたことが分かりました。これは、康一のこの時期の作品に限って自筆の楽譜が極めて少ないことの理由にもなります。

本題の「ブッダ」について。従来、「ブッダ」は当初7楽章で構想された、という説が言われてきました。

これは問題の構想メモです。

内容を読み上げてみますと、

 

  1. 印度 亜細亜の東洋的な荘厳さを書く。はじまりはチェロで独創的なメロデー
  2. ガンヂスのほとり 1の続きで1を父とすれば2は母にあたる
  3. 釈尊誕生 人類の歓喜
  4. マヤ夫人の死 con sordino 前者の反対に極めて悲哀な曲
  5. 生老病死? (青年時代) 
  6. 出家を決心す 5,6 初めはオーボエかまたはクラリネットでインド風のメロディーを面白いリズムの上にえがく。最期に深遠なaccordで出家の決心をあらわす
  7. 成道偈 タンホイザー序曲の最後の如く強く

 

というのが全てです。たしかにそれぞれの数字を楽章と捉えたら、多楽章のアイデアに見えます。従来はこの考え方に沿って、楽章ごとに

第1楽章 インド「父」

第2楽章 ガンジスのほとり「母」

第3楽章 釈尊誕生「人類の歓喜

第4楽章 マヤ夫人の死

というサブタイトルが付けられていました。

が、問題はこの構想メモでして、私はこのメモは構想のきわめて初期に書かれたもので、あとになって内容を取っ替え引っ替えして四楽章にまとめあげたのではないか?と考えます。康一は最初はこれを楽章ごとのアイデアとして書きはじめたのかもしれませんが、5, 6のあたりの内容が混乱していることからも見てとれるように、アイデアをメモしたに過ぎません。最終的に交響曲は四楽章で完結しました。

1935年8月13日、康一は作曲に専念するためにベルリンを離れて、港町ヴァンゼーのアルゼン橋ホテルに投宿します。現在ではB4版サイズの作曲帳が20冊程度残っておりまして、仏陀のスケッチもそのなかに見ることが出来ます。ただし本当にスケッチ程度で、スコアに近いかたちのまとまった自筆譜というのはありません。それは、おそらくは先程申したウォーラウアーの事務所に書きあがるそばから持ち込まれてスコアにされたからではないか?と推測します。(これはこの時期の作品全てにも言えます)

 

f:id:jazzrou:20180505105946j:plain

 

 

11月18日、康一はベルリン・フィルを指揮して「仏陀」や「日本スケッチ」その他を発表しました。完成したシンフォニーは「Das Leben Duddhas 仏陀の生涯」というタイトルで、楽章にサブタイトルはついていません。

そうしてこのシンフォニーと各楽章については作曲者の解説でこう語られています。

 

貴志康一交響曲仏陀の生涯」はアジアに独特の精神的な雰囲気を描いています。インドの強い日差し、巨大なヒマラヤの山々の上に出る月、中国の広大な大陸と大河・揚子江。仏教は何千年もの間、ここアジアに根ざしてきたのです。

第1楽章は無限の広大なアジアを描いています。そこにゴータマ・ブッダは生まれ学びました。この地で彼の魂は浄化され、長い闘いを経て悟りを得ました。

第2楽章はマヤ夫人。高貴な慈悲深い女性のストーリーです。マヤ夫人は日本の女性の理想とされています。

第3楽章は仏教における地獄の苦しみと人間の苦悩にもとづいた不気味なスケルツォです。日本の伝説によれば地獄の入り口には巨大な閻魔がおり、亡者の魂を裁くのです。

第4楽章はブッダの死。その涅槃への入口を描いています。

 

これが完成したシンフォニーに貴志康一が与えた解釈です。第1楽章と第2楽章は比較的メモに忠実なことがお分かりかと思います。メモの5,6生老病死と出家の決心といった要素は第1楽章に収斂されたのではないかと思います。後半の第3、第4楽章は、構想メモには語られていない要素です。とくに第3楽章が「釈尊誕生」から「地獄の閻魔が亡者を裁く様」東洋的な地獄になっているのが特徴的です。それから、最終楽章は、マヤ夫人の死ではなく、ブッダその人の死と、その死によって教えが広く伝えられていくことが語られています。ブルックナー風の終結部の最後にメモの「タンホイザー序曲の最後の如く強く」というアイデアが生かされています。すなわち「ブッダ」の最後をお聴きになるとああ、とお気付きかもしれませんが、消えていくような終結部は、ワグナーのタンホイザー序曲の終結部をほとんどそのまま引用しています。

 

1934年11月18日、康一はベルリン・フィルを指揮して「ブッダ」を発表しました。このときは他にグルックの「アルチェステ」序曲とドビュッシーの「牧神の午後」の前奏曲リヒャルト・シュトラウスの「ティル・オイレン・シュピーゲルの愉快ないたずら」と自作の歌曲も演奏されました。ベルリン・フィルといいますと現在も貴志康一の生きた時代も世界最高峰のオーケストラですが、オケのメンバーは康一と顔見知りでした。康一はオーケストレーションの勉強のためにホッホシューレで各楽器について学んでいましたが、その先生がベルリン・フィルのトップ奏者でした。そういう普段「教官殿Herr Professor」と言っている先生がオケにちらほらおりまして、演奏会の時は指揮者が一番ですから楽器の先生が康一に「指揮者殿Herr Kapellmeister」といって質問してくる、という和やかな雰囲気でした。

この演奏会は大成功しまして、特に「ブッダ」については賛否両論が批評にあらわれました。新聞批評はいろんな新聞に載ったのでややこしいんですが、数えたら13種類あります。それがベルリンだけでなくミュンヘンライプツィヒ、パリでも配信されました。日本人の作曲作品がドイツ人の批評のまないたに載ること自体が、当時はまれでしたから、ベルリンでもこの作品はたいへん注目されたと見てよいでしょう。

批評のなかで際立つのが「Nebeneinander ネーベナイナンダー」という言葉です。併存、併置という意味ですが、東洋と西洋の感性が形を留めたまま融合している、という意味合いで批評に頻出しています。康一の「東西を架橋する」というイデーがベルリンでも理解された証です。ゲルマニア紙は「日本音樂とヨーロッパ音樂の真の融合」と褒めています。

批評は絶賛だけではありませんで、ヨーロッパのオーケストラ作品を見境なく引用している、ですとか標題音楽とシンフォニーを一つにしようという試みに失望した。という意見もありました。 指揮者としての評価はどの新聞も絶賛でした。

 

ブッダ」は1935年1月25日にも康一の指揮で演奏されました。このときは海外まで電波が届く短波放送で、短波放送オーケストラを指揮しています。

このときもタイトルは「仏陀の生涯」で、解説もベルリン・フィルのときと同じ文章が発表されました。

ただ、康一はスケッチや手元に置いたスコアには「ブッダ Buddha」シンフォニー Symphonie とだけ書いています。

それで、今回のラ・フォル・ジュルネでも、交響曲ブッダ」と表記しております。

 

④ 早すぎる死

このシンフォニーを書いたとき、貴志康一25歳。

ベルリン・フィルの成功で、再演ですとかいろんな演奏会の企画、オペレッタとバレエの上演計画を進めていましたが、1935年5月、日本に帰ります。3月31日にベルリンを発って、5月3日に日本に着きました。

人によっては「ナチスに気に入られずに政治的に帰国を余儀なくされた」という見方をする人もありますが、むしろドイツでの康一の立場は絶好調でした。

ナチス政権のもとでは音楽家は帝国音楽局に所属しないといけません。ベルリン・フィル客演のあと康一は帝国音楽局の仮証書を獲得しています。康一自身は、オペレッタとバレエを日本でも上演できるように根回しのために一時帰国するつもりでした。それで、住んでいた部屋の荷物もマンションの門番に預けてきています。またすぐに戻ってくるつもりだったから預けたんですね。

帰国した康一は新交響楽団を指揮して、ヴァイオリニスト時代から考えるとうそみたいな大評判で指揮者として成功しました。銀座六丁目、みゆき通りと交詢社通りの交わる角地にあった尾張町ビル、現在の尾張町タワーの二階に貴志康一事務所を構えました。日本で懲りずに映画の配給会社を作って、ベルリン・フィルやオペラを日本に招いて、という壮大な計画をしていました。フルトヴェングラー指揮するベルリン・フィルツェッペリン飛行船に乗せて日本に連れてくるという、いま考えたら荒唐無稽な計画ですが、かなり現実的に当事者間で話が進んでいました。さすがにフルトヴェングラーシベリア鉄道経由の移動ですが、ベルリン・フィルを飛行船に乗せるというのは、いかにも貴志康一らしいアイデアです。そうして、日本に来たツェッペリン飛行船は満州から輸入していた大豆の代金がわりに満州に譲渡するという筋書きまでありました。

ところが、そうした国際的な文化交流の計画よりも指揮活動が激しすぎて、1936年6月に盲腸炎を発しました。1937年11月17日、亡くなってしまいます。

 

康一がベルリンを去ったころに康一の周囲の人々にも変化がありました。先生のモーリッツはユダヤ系でしたので帝国音楽局には入れずに、ユダヤ文化同盟で活動せざるを得ませんでした。康一が帰国したあとの1935年8月、モーリッツは音楽学校の教授の席も失います。そうしてゲッベルスの退廃音楽家のリストに組み込まれて、1937年9月にはアメリカに逃れます。浄写譜の工房のアドルフ・ウォーラウアーはたいへん不幸なことですが、1943年にアウシュビッツで最後を遂げました。そのおなじ年、モーリッツはアメリカの市民権を得ています。「ブッダ」をめぐって集まった人々がさまざまな生涯を終えてすべてが終って、康一の「ブッダ」の楽譜だけが残ったわけです。

 

最後に、帰国後の貴志康一のごくごく日常的なスナップ写真を何枚か出しましょう。これは帰国した1935年夏。おそらく妹さんが撮影したものでしょう。

 

本講演では写真も多用しましたが、基本的に甲南学園貴志康一記念室所蔵ですので、web公開に当たってはそのほぼ全てを削除いたします。

「歌へ若人」のサウンド

1. 主人公は歌手

10月15日にリリースされたぐらもくらぶの歌へ若人 東海林太郎 1934-1948に関連して、補遺のようなものを記したい。といっても自分が述べるのは主人公の東海林太郎のほうではなく、その伴奏の方である。収録曲の個々については小針侑起氏の簡にして要を得た解説に委ねたい。

 ここでまず特筆しておきたいのは、流行歌の主人公は歌手だという点である。伴奏はその歌唱を引き立てる裏方の存在でしかない。

 戦前、昭和10年代前後はすでに音楽の大量消費時代であった。レコーディングスタジオでのレコード録音は流れ作業であり、レコード会社各社の専属オーケストラは、流行歌の伴奏をそつなく淡々とこなすのが仕事であった。とはいっても各社のレコーディングオーケストラはジャズソング編成をベースとして編まれていたので、ジャズソングや楽器のソロが入るテイクはジャズメンのエモい演奏を聴くことができる。筆者が戦前ジャズ研究でさまざまなレコードの編成を録音から聞き分けられたのも、ジャズメンの演奏のクセがジャズ系レコードでは際立っているからである。

 ところが流行歌は逆に目立たないことが命題となっていた。特に効果的な指定のないかぎり、流行歌のレコードで目立つのはよくない。いわゆるなつメロのサウンドで戦前の録音がそっけないと感じることがあるとすれば、それは常に一定の水準を要求される、音楽的感情とは無縁の職能的・流れ作業的伴奏だからだ。ときどき耳に馴染みのある音が去来して「このフルートは岡村雅雄だ」「ギターはまた角田孝だな」「トランペットはニコライ・マルチェフ」などと判別がつく程度である。南里文雄などは昭和10年代にはカメオ出演くらいのインパクトがある。こういった一掴みのプレイヤーを例外として伴奏用のレコーディングオーケストラは、レーベルカラーとなるアンサンブルを個性をなるべく殺してみんなで作り上げていたのである。

 昭和初期、ジャズソング時代はバックバンドの演奏も一つの聴かせどころであったが、昭和6、7年から江口夜詩、古賀政男らを筆頭に流行歌が確立し、それと同時にプレイヤーの顔が出ないレコーディングオーケストラが必要とされたのであった。昭和10年代にはコロムビアは内幸町の東拓ビルにあるAスタジオとBスタジオを連日フルに稼働して、テイチクは杉並の広大なスタジオで4つも5つもテイクを取りながら、流行歌を日々大量生産していた。

 

2. ポリドールの立ち位置

 このように既に音楽が流れ作業化していた昭和10年前後、例外的に日本独自の発展を遂げたのが日本ポリドール管弦楽団である。すなわちポリドールの流行歌はほかのレーベルとは異なる「何か」を感じられた。それは作曲陣、編曲陣もあるが、作家陣も含めてポリドールの生み出すサウンドに大きく負っている。コロムビア、ビクター、テイチク、キング、タイヘイのレコーディングオーケストラはいずれも10〜12ピースのジャズ・オーケストラを基本として、20名ほどで編成されている。ストリングスを強化し、管楽器を増やし、リズムは減らすという具合で、特にコロムビアやビクターの流行歌は平均的なサウンドで統一された。和風の作品の場合に三味線や尺八を入れた和洋合奏になる程度である。いわば、洋風のサウンドを基調としていたといえよう。

 それに対してポリドール管弦楽団はバンドからジャズ色を払拭して、各楽器の員数は少ないが楽器の種類が豊富な編成であった。他社のようにサックスやブラス、ストリングスの合奏で押し流すのではなく、個々の演奏者の顔が見える編成である。その結果として、歌手に寄り添うようなきめ細かい伴奏が可能となったのである。これを端的に言えば他社の「機能美」に対するポリドールの「用の美」と表現することができよう。

 

3. 日本ポリドール管弦楽団の変遷

 「歌へ若人」の解説ではインパクトの強烈だった「国境の町」を取り上げてポリドール・サウンドの一例を描写してみたが、手元に来た音源はいちおう全て編成を書き出し、特徴を書き留めてみた。最もエモーショナル(感情的)なテイクをひとつ挙げろといわれたら、「ジプシイの月」を選ぶだろう。

 「ジプシイの月」はクラリネット、ギター、ベース、ドラム、ヴァイオリン、ピアノという編成。ギター、ベース、ドラム、ピアノはリズム陣で、メロディーはクラリネット(佐野鋤)とヴァイオリン(前田璣)の独壇場だから、いやでもエモくなるわけである。

 「月夜の港」はフルート、オーボエクラリネット、ギター、スティールギター、マンドリン、ヴァイオリンという編成。このテイクは撥弦楽器が三種も用いられ、夏の夜のメロンのような甘くメロウな雰囲気を表現している。このテイク(1935年8月新譜)あたりを境として、ポリドール管弦楽団オーボエマンドリンの効果に開眼する。

 収録曲の「歌へ若人」(cl, bjo, vn, p)、「丘の微風」(2sax, tp, tb, bjo, b, vn)、「ジプシイの月」はまだ初期ポリドールのジャズバンド編成を保っているが、「国境の月」からレーベル独自のサウンドの模索がはじまる。

 「国境の町」はfl, ob, fg, tp, tb, bjo, b, tub, ds, vn, 鈴という編成。このへんからファゴットを音の背景に流す手法が現われる。このアレンジについては解説書にも書いたが、東海林太郎の歌唱の背景に曠野が広がる絵画的なサウンドである。ここでのファゴットの効果は大きい。「旅笠道中」(fl, cl, fug, mdn, sg, b, 尺八, 柝, カスタネット)も歌唱に寄り添うファゴットが隠し味となっている。

 1936年7月新譜「雨の夜船」(fl, cl, acc, b, vn, ‘cello, ts)のあたりからポリドール管はアコーディオンを導入する。アコーディオンはこのあと、大いにポリドール流行歌で活躍することとなる。オーケストラと和洋合奏で終始する他社のオーケストラに対して、ポリドールはアコーディオンマンドリンオーボエファゴットといった楽器が多用され、色彩を豊かにしている。いわば軽音楽的なサウンド作りをしているといえるのだが、反面、インストゥルメントのみの企画は弱体化し、ダンスレコードではコロムビアやキングに大きく水を開けられた。

 

 ちょっとここで日本ポリドール管弦楽団のメンバー変遷をたどってみよう。

1932年9月に元軍楽隊帳の辻順次を楽長として7名で結成された。そのメンバーは以下の通り。

高麗貞雄(fl)、佐野鋤(sax, cl)、谷口安彦(tp)、後藤純(bjo)、小島一雄(b)、山本清一(=山田栄一か。 p, acc)、前田璣(vn)。必要に応じて泉君男(ds)なども加わった。

 1935年に改編が行なわれ、高麗(fl)、佐野(sax, cl)、谷口(tp)、小島(b)、前田(vn)はそのままだがバンジョー細田定雄になり、ピアノに菊地博が、ドラムに栗原進次が加わる。ポリドール管弦楽団キングレコードの伴奏を請け負っていたのだが、キングが新会社として独立するにあたって自前の楽団を持つことになったため、ポリドールの編成にも余波が及んだのである。

 翌1936年にふたたび大きな改編があった。

高麗(fl)、佐野(sax, cl)、谷口(tp)、小島(b)、前田(vn)は据え置きで、鈴木福二郎(sax)、河野絢一(tb)、小暮正雄(acc)、高勇吉(‘cello)が加入した。それから、ピアノの菊地博は米山正夫に、ドラムの栗原進次は大島喜一となる。

 このうち鈴木(sax)と河野(tb)はポリドール管が結成される以前、井田一郎ジャズバンドがポリドールで録音する際にレコーディングに加わっていた。河野のトロンボーンはポリドール流行歌でも特徴的でいい味を出すこととなる。

 1938年、ヴァイオリンに山口郁雄、松本信三が加わり、楽団は13名にふくれあがる。この頃には前田璣はヴァイオリンから指揮者に転じていたようだ。

 1940年、またまたバンド改編があり、高麗貞雄(fl)、佐野鋤(sax)、宮越篤俊(sax)、谷口安彦(tp)、小島一雄(b)、大島喜一(ds)、山口郁雄(vn)、高勇吉(’cello)、小暮正雄(acc)の9名編成となった。

 以上の基本的な編成に、ファゴット木管などのトラ(応援楽士)が外部から加わったようだ。当時、ポリドールでは元新響の高麗貞雄やタンゴバンドのリーダー宗知康が楽士の差配を行なっており、クラシック音楽とポピュラー音楽の垣根を超えたメンバーが集まってきた。コロムビアでは宮田清蔵や斎藤秀雄が楽士の差配を行なったというが、面白いのは新交響楽団が1931年のコロナ事件で分裂し、その粛清派(新響に残った方)はコロムビア、脱退派はポリドールに集まったという点だ。こうした人間の動き、楽士間の勢力図は表面上は見えないが、各レーベルのサウンド作りの根幹に影響しているのである。

 

4. 名月赤城山のアナリーゼ

 これまで述べたようにポリドール流行歌のアレンジは独自のカラーを持っていたのだが、とりわけ凝ったアレンジが施されているのが「名月赤城山」である。菊地博の作・編曲は東海林太郎の歌唱に呼応して細かく表情づけがされており、ここに描かれている心情をみごとにサウンドに変換している。歌唱とオーケストラが有機的に結びついており、互いに効果を高めあう仕掛けになっているのだ。

 以下、歌詞(矢島寵児, PD)を一節ずつ引用しながらバックサウンドを紐解いてみよう。

 日本ポリドール管弦楽団の編成は2フルート、クラリネットオーボエファゴット、ギター、ベース、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、アコーディオン、ピアノ、三味線、尺八、鈴、柝、ハンドベル

 

 イントロはクラリネット、尺八、ギター、ベース、アコーディオン、ヴァイオリンのピツィカート、三味線。ファゴットで歌に入る。このあと、3番までファゴットの合図で歌に入るのは共通している。また、1番ではフレーズをヴァイオリンとヴィオラが優雅につないでいる。
「男ごゝろに男が惚れて」→オーボエファゴットで掛け合い。イントロから入っていた三味線はこのフレーズで消える。
「息が融け合う赤城山」→アコーディオンの通奏。ここからは三味線の代わりに弦楽のピツィカートが入る。
「澄んだ夜空のまんまる月に」→オーボエの通奏。前半にのみファゴットが薄く入り、満月をかすめて去る薄雲を思わせる。
「浮世横笛 誰れが吹く」→頭に一瞬ファゴットが現われるがフルート、後半クラリネットに受け継がれる。最後にハンドベルが入る。ここも冒頭のファゴットが心乱れるような効果を醸している。

 

 間奏は前半が尺八、三味線、ギター、後半はストリングスとアコーディオンが受け持っている。

 

 2番はフレーズの間をオーボエ、2フルートがつないでいる。2番全体を通して三味線が入るのが特徴。
「意地の筋金 度胸のよさも」→チェロの通奏。つなぎはオーボエ
「いつか落ち目の三度笠」→チェロの通奏が続く。ここまでチェロなのは雌伏している心象か。なお、ここからフレーズ間のつなぎは2フルートとなる。
「云われまいぞえ やくざの果と」→アコーディオンの通奏。前半にファゴットがうすくかぶる。ファゴットの響きは心の乱れ。
「悟る草鞋に散る落葉」→コルネットヴァイオリンにフルートが絡む。ハンドベルで締め。2番を通して地味で、耐え忍ぶような雰囲気のサウンドだ。

 

 間奏は前半、尺八、三味線、ベースと柝、後半はファゴット、ギター、ピアノ、ストリングス。

 

 3番は三味線の代わりに絃のピツィカートが全編に入る。フレーズごとにストリングスが入るのは1番と同じだが3番は高く調弦されていて、格調高いのが特徴。孤高の心象を表しているのだろう。
「渡る雁がね乱れて啼いて」→オーボエクラリネットで分担。
「明日は何処の塒やら」→オーボエファゴットで分担。オーボエは飛びゆく雁のテーマに充てられているようだ。ファゴットはここでも不安の象徴として機能している。
「心しみじみ吹く横笛に」→頭にファゴットが入るが、すぐにコルネットヴァイオリン→尺八が歌を取る。横笛ではない。ここがこの歌一番のクライマックスと感じさせる凝ったアレンジで、「心しみじみ」という歌詞とは裏腹に乱れる心を表現しているように筆者には思われる。
「またも騒ぐか夜半の風」→ベース、フルート、薄いストリングスに消え行くピツィカート。歌の最後にハンドベルが入るのが不思議だったが、この最後のベルの澄んだ音で荒涼とした涼しさが描かれるのだ。


 後奏はフルート、ベース、三味線、ギター、尺八の順で楽器が退場してゆき、最後はピアノで締められる。

 

 この歌ではコルネットヴァイオリンやクラリネット、ピアノなどほんの僅かしか登場しない楽器もぜいたくに散らしてある。しかし最後のピアノの一音はこの歌の凛とした格調高さを保つとともに、僅かな希望を垣間見せている。前奏・間奏やフレーズごとに楽器に役割を持たせてさまざまな組み合わせで充てているのがこのアレンジの一大特徴である。前に『国境の町』は音の遠近法だと記したが、『名月赤城山』はとりどりの更紗で装丁した絵巻物をするすると解き広げているようなストーリー性をバックサウンドに感じるのである。

 

 長くなったが、「歌へ若人」はこのような聴き方もできる、というモデルケースを示してみた。東海林太郎の歌唱の素晴らしさは今さら言うまでもないが、バックサウンドと渾然一体となって、東海林太郎の歌が完結するといっても過言ではないだろう。

 

 

 

 

 

『浅草行進曲』史

承前『道頓堀行進曲』史 - ニッポン・スヰングタイム

 

2. 浅草行進曲

 さて、次に『道頓堀行進曲』が生んだもう一つのヒット曲、『浅草行進曲』について述べたい。

 

 『浅草行進曲』は、関西の松竹座での幕間劇『道頓堀行進曲』の評判に目をつけた松竹が映画化に踏み出したもので、1928年4月7日に浅草電気館で蒲田映画『浅草行進曲』が封切られた。監督・脚本・原作は野村芳亭、出演者は人気女優の松井千枝子、藤野秀夫、武田春郎、三田英児、という顔ぶれである。当時はサイレント映画であるから主題歌は入らないが、この映画に合わせて6月新譜で発売された2枚組の映画劇レコード『浅草行進曲』(松井千枝子、三田英児、静田錦波=説明)に主題歌が入った。その主題歌が、日比繁次郎の『道頓堀行進曲』歌詞を畑耕一が改作した『浅草行進曲である。』畑耕一は小説家・文学者で、当時は明治大学教授であった。畑は1924年に松竹キネマ研究所の所長に就任しているので、主題歌をものしたのはその縁からであろう。

 畑耕一は流行歌の作詞に当たっては多蛾谷素一(耕一をたがやす+いちに分解した)ペンネームを用いたが昭和初期のレコードは作詞作曲者をラベル上に明記しないことが多く、意外なようだが多蛾谷素一の名がラベル上に見られるのは、これも大ヒットしたコロムビア流行歌『ザッツ O.K.』(1930年9月新譜)くらいなものである。

 なお、この蒲田映画『浅草行進曲』の中の浅草ロケシーンをそっくり道頓堀のロケシーンに替えたフィルム『道頓堀行進曲』が、三ヶ月後の7月14日に封切られた。当然ながら出演者は同じである。時系列で見ると、①幕間劇『道頓堀行進曲』→②『道頓堀行進曲』レコード→③映画『浅草行進曲』→④『浅草行進曲』→⑤映画『道頓堀行進曲』という順序で道頓堀に回帰しており、少しややこしい。

 

 映画劇に続いて、ニッポノホン(日本蓄音器商会)のサブレーベルであるヒコーキが『カフェー小唄 浅草行進曲』(木村時子 1928年6月新譜)、『カフェー小唄 浅草行進曲』(石田一松 1928年7月臨時発売)を立て続けに発売した。浅草行進曲は畑耕一の作詞、塩尻精八は松竹専属の作曲家・指揮者でレコード的にはフリーランスという理屈で、日本蓄音器商会でも関連レコードを作りはじめた訳である。前者は浅草オペラのスターであった木村時子がストーリー仕立ての両面で芝居を交えて歌っている。後者は歌唱のみであるが、この石田一松のレコードがまず大ヒットした。

 

f:id:jazzrou:20170920141249j:plain

 これに負けじと大阪資本のニットーからも二村定一・天野喜久代の歌唱、ハッピー・ナイン・ジャズバンドによる『浅草行進曲』(1928年10月新譜)が登場した。ニットーは翌月11月新譜でも寺井金春による『千日前行進曲 浅草行進曲』をリリースした。

 前者は東京録音、後者は大阪録音で、ちょうどビクターからも『アラビアの唄』などを出して人気急上昇中であった二村定一の歌う前者がたいへんよく売れた。ハッピー・ナイン・ジャズバンドは立教大学の学生バンドでディック・ミネ(ドラムス)も創立時に加わっていたが、この録音時にはすでに居なかったようである。この録音時の編成はクラリネット、アルトサックス、2テナーサックス、トランペット、トロンボーンバンジョー、ドラムス、ピアノ。一コーラスごとにブリッジで繰り返し演奏を挿入して、じっくり聴かせる構成である。この頃のニットーはライツのカーボンマイクなのでサウンドの奥行きに乏しいが、コーラスごとに編成を変えた凝ったアレンジを学生バンドががんばって演奏しているのがよく伝わる。最高に脂が乗っている時期の二村定一と天野喜久代コンビなのでヴォーカルも息が合っており、ノンシャランで楽しい雰囲気を醸している。

f:id:jazzrou:20170920142515j:plain

 日本蓄音器商会の大阪文芸部であったオリエントも、『カフヱー行進曲』(山村豊子 1928年10月新譜)、『流行新小唄 藝者行進曲』(南地・金龍 1928年11月新譜)と、替え歌を発売した。このあたりになるともはや原曲が道頓堀なのか浅草なのかも判然としないが、『カフヱー行進曲』で〽恋の灯ジャズの音渦巻くなかに白いエプロンどう染まる あたしゃカフェーの愛の花よ、と歌う歌詞は明らかに『浅草行進曲』からの派生である。

 本物のカフェー女給が歌ったヒコーキ『銀座行進曲』(カフエータイガー よう子・すみ子 1929年5月新譜)もタイトルは異なるが『浅草行進曲』の替え歌で、極めて下手な歌唱のなかにプロの流行歌手では出すことのできない水商売の雰囲気が漂っている。

 ところで『道頓堀行進曲』と『浅草行進曲』の分類であるが、歌詞に明瞭に現われることが多いほか、『浅草行進曲』には共通した前奏がついているので、それと分かる。ここに挙げた替え歌もほぼ全てに共通した前奏が備わっている。

 

 浅草が舞台ということからか『浅草行進曲』の人気は東京で沸騰し、それは東京に集中するレコード会社にも影響を及ぼした。

f:id:jazzrou:20170920143133j:plain

 1929年正月新譜でニッポノホンからリリースされた『松竹映画 説明レヴュー』(静田錦波 松竹和洋合奏団)、『流行歌ポッポリー』(島田晴譽=指揮 松竹和洋合奏団)には共に『浅草行進曲』が含まれている。島田晴譽が楽長を務める松竹管絃楽団/松竹和洋合奏団は約20名の楽士で映画の伴奏を行なうほか、幕間の休憩音楽を演奏した。島田は折々の流行曲をポッポリー(メドレー)形式に編んで休憩音楽で発表し、観客の好評を集めた。この録音では、2フルート、クラリネットコルネットトロンボーンテューバ、弦四部(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ベース)、三味線、締太鼓、鉦という大規模な編成が採られ、A面では「浅草行進曲」〜「月は無情」〜「アラビヤの唄」が、B面では「籠の鳥」〜「モガモボソング」〜「モン巴里」〜「浅草行進曲」が演奏されている。この楽団は1928年から松竹が招聘した井田一郎のチェリー・ジャズバンド(松竹下では松竹ジャズバンド/電気館ジャズバンドと呼称)とたいへん折合いが悪く、ジャズとの明確な区分けを意識したのかサックス属の楽器を全く用いなかった。

 

f:id:jazzrou:20170920144427j:plain

 ジャズでは『アラビアの唄、浅草行進曲』(アーネスト・カアイ=スティールギター、ディ・フェルナンデス=ギター 1929年3月新譜)がニッポノホンとコロムビアから同時発売された。カアイは1927年にハワイから来日したギターの名手で、ギターに限らず多数の楽器をマスターしており、日本のジャズ界に大きな影響を与えた。ここではウッド・スティール・ギターで軽快にスウィングしている。

 さらに1930年に至っても『ポッポリー 映画流行小唄集』(川崎豊・曽我直子 島田晴譽=指揮 松竹管絃楽団)のなかで曽我直子が歌っている(映画流行小唄集は17626と17709の2種あり、浅草行進曲は後から出た17709のポッポリーに含まれる)。

 

 

f:id:jazzrou:20170920150157j:plain

 

 『道頓堀行進曲』『浅草堀行進曲』のメロディーは、そのあまりの流行から直接関係のないレコードにも余波を及ぼしている。その一つは淡谷のり子の初期のレコード『夜の東京』(加奈木隆司=作詞、井田一郎=作・編曲 淡谷のり子 井田一郎=指揮 日本ポリドール・ジャズバンド 1930年4月新譜)の間奏で、ここにちゃっかりと「東京行進曲」(中山晋平=作曲)と並べて引用されている。このときは「夜の東京」がテーマだから、引用されたのは必然的に『浅草行進曲』ということになるだろう。ちなみに「東京行進曲」は井田一郎がビクターで初めて編曲した作品であり、「浅草行進曲」の塩尻精八は井田が大阪で松竹座ジャズバンドを組んで舞台に出ていた時代に松竹座の音楽を司っていたので、両方とも縁がないわけではない。

 大ヒット曲『女給の唄』(西條八十=作詞、塩尻精八=作曲 羽衣歌子=歌 日本ビクター管絃楽団 1931年1月新譜)は作曲者が塩尻精八なので堂々と後奏に自作のメロディーを用いている。この歌の原作である広津和郎『女給』は銀座のカフェー・タイガーを舞台としているから浅草でも道頓堀でもないが、夜の盛り場の印象的記号としてこのメロディーを当て嵌めたのであろう。

f:id:jazzrou:20170920144916j:plain

 最後にとどめを刺すかのように1932年に『タンゴ 浅草行進曲(道頓堀行進曲)』(東京フロリダ・ダンスホール 巴里ムーラン・ルージュ楽員 1932年8月新譜)が発売された。1932年、東京の赤坂溜池にあったダンスホール「フロリダ」に招聘されて来日していた巴里ムーラン・ルージュ楽員の4名による録音である。この楽団はフロリダでの演奏も評判が高かったがレコード人気も高く、第一次編成(4名)、第二次編成(5名)、モーリス・デュフールのアコーディオン独奏含めて総計160面余の録音を残した。この録音は第一次編成で、シャール・パクナデル(ヴァイオリン)、モーリス・デュフォール(アコーディオン)、ジャン・ジェラール(ギター)、ガストン・トーマ(ドラムス)の4名が和やかに演奏している。

 このときは歌詞が無いので道頓堀行進曲にも花を持たせたかたちだが、かくして道頓堀行進曲と浅草行進曲は仲良くラベル上に並んだのであった。 (続)

『道頓堀行進曲』史

  • 道頓堀行進曲

 二村定一年譜の補完計画は暇なときにします。今回は道頓堀行進曲について。

 長らく探求盤であった松島詩子『道頓堀行進曲』/マイフレンド『銀座行進曲』(ニットー 6522 1934年9月新譜)を手に入れることができた。松島詩子の『道頓堀行進曲』はニットーが1936年からリリースした廉価盤のSシリーズでもプレスされ、そちらは今日でもしばしば見かける。再発でヒットしたパターンだが、カップリングのマイフレンド『銀座行進曲』は再発されなかったため、オリジナルの黒盤でしか聴けない。このレコード、なんでもない黒ラベルでいかにもその辺に転がっていそうだが実は大変な難物で、ニットー盤大コレクターのN氏も「見たことがない、京都の某氏が持っていたかもしれないがそれも怪しい」というレベル。そういう探求盤をN氏が故人となってから手に入れたのも何かの縁だと感じ、『道頓堀行進曲』とその周辺のレコードについて述べることにする。

 

1. 道頓堀行進曲

『道頓堀行進曲』(日比繁次郎=作詞, 塩尻精八=作曲)はそもそも日活映画『椿姫』(1927)撮影中に俳優の竹内良一と駆け落ちした岡田嘉子が、もろもろの騒動を経て復帰主演した松竹チェーン劇場の幕間劇『道頓堀行進曲』の主題歌である。

この復帰公演は1928年1月7日より神戸松竹座、その次の週に京都松竹座、さらに翌週の1月20日より大阪松竹座で行なわれた。徐々に客足を伸ばしていったのだと思うが、大阪公演で大評判となって、東京にまでその評判は届いた。

 

 レコードとなったのは木田牧童(説明), 若山千代, 瀧すみ子, 河原節子, 大阪松竹座管絃団という面々によるニットーのモダンスケッチ2枚組(1928年3月1日臨時発売)が最初であった。このレコード、JOBKのお昼のジャズの時間に"Titina"を演奏するシーンが挟まれていたりして、なかなかリアルである。ストーリー自体は夢オチで、原作が幕間劇であったから軽妙な喜劇に仕上がっているわけである。

f:id:jazzrou:20170918230657j:plain

f:id:jazzrou:20170918230718j:plain

 驚いたことにタイミングを同じくして名古屋のツルレコードも山崎錦城(説明), 一條歌子, 河原節子, アサヒジャズバンドによるスケッチレコード2枚組(同年3月発売)を発売した。大変な素早さであるが、おそらく風評のみで慌てて製作したためだろう、ストーリーはオリジナルのニットー盤とはかけ離れたものとなっている。原作は悲劇が夢オチで喜劇になるのだが、ツル版は悲劇のまま終了するのである。ときおり挿入される『道頓堀行進曲』も陰鬱な雰囲気である。これは珍盤だ。

f:id:jazzrou:20170918230942j:plain

  このツル盤は関係者の許可なく製作された上、レコード発売の宣伝ポスターに「竹内良一・岡田嘉子主演」を堂々と謳っていたため、3月20日、幕間劇『道頓堀行進曲』原作者の中井泰孝が「レコードの製造販売禁止ならびに二千円の損害賠償」を求めて大阪地方裁判所に提訴している。そのためツル側は早々にこのセットを廃盤とした。

この二種のレコードを追って、オリエントから松竹座管絃団によるインスト盤『道頓堀行進曲』(1928年3月25日発売=4月新譜)が、またニットーからも『巴里行進曲』(松竹座管絃団 7月新譜)が出た。ニットー盤『巴里行進曲』(松竹座管絃団 7月新譜)は『モンパリ “Mon Paris”』推しのインスト盤だが、中間部でけっこう長めに道頓堀行進曲を挟み込んでいるので、巴里とも道頓堀ともつかない内容となっている。このレコードの録音時は大阪住吉神社に隣接したニットーのスタジオで公開録音したため、見物客が殺到し、係員が「録音中はお静かに」と注意を喚起せねばならなかった。

 

f:id:jazzrou:20170918231005j:plain

 以上の前史を経て発売されたニットーの『道頓堀行進曲』(筑波久仁子=歌、片岡正太郎=ハーモニカ、清水昌=ピアノ 1928年5月新譜) は全国的な大ヒットを記録した。

 このニットー盤は大阪のスタジオではなく、東京の日本青年館で録音された。古い文献では歌手の筑波久仁子は井上起久子の変名とされ、筆者も以前はそれを鵜呑みにしていたが、現在では別人と判明している。筑波久仁子はほかにも松竹楽劇部のレヴュー主題歌をレコーディングしているので、松竹楽劇部の筑紫國子の変名ではないだろうか。ニットーは1920年代後半に澤文子という歌手もさかんに起用しているが、澤もまた松竹楽劇部に属していた。

 ニットー盤の大ヒットを追って、尼崎でセルロイド製の小型レコードを製造していたバタフライが1929年に『道ブラ行進曲』(小島鈴子=歌 松竹座ジャズバンド)を発売した。これは松竹座ジャズバンドが演奏していることからも明白なように、松竹座関連の録音ということでお咎めがなかったのだろう。松竹楽劇部の澤文子も松竹管絃楽団の伴奏で、特許レコード(小型盤)から『道頓堀行進曲』を出している。

 

 道頓堀行進曲はニットーが歌詞の権利を保持したため他社ではレコード化されず、筑波久仁子盤に次いで製作した内海一郎盤(内海一郎=歌、日東ジャズバンド 1929年5月新譜)も二十万枚を記録する大ヒット盤となった。

f:id:jazzrou:20170918231034j:plain

 内海一郎(1898-1972)は浅草オペラ出身のテナー歌手で浅草時代は宇津美清を名乗った。レコードも大正期からあるが、昭和期には二村定一に対抗するように甘いテナーでオリエント、ニットーにジャズソングをおびただしく吹き込み、ジャズソングブームを支えた。『道頓堀行進曲』は内海のスマートでノンシャランなヴォーカルが耳に心地よく、佳作が多い彼のジャズソング中でも一頭群を抜く名盤となった。 

 このディスクは1929年当時のジャズ水準を考慮すると、アレンジもたいへん興味深い。アレンジは浅草オペラ時代から指揮・編曲を手がけていた篠原正雄(1894-1981)で、このディスクではフィドル風のヴァイオリンを入れたディキシースタイルにアレンジしている。篠原はリズム感覚の鋭いアレンジャーで、服部良一を除けば最も早くルンバを咀嚼してダンスアレンジに応用したし、1930年代半ばからはいち早くスウィングアレンジも手掛けた。

 日東ジャズバンドは、テナーサックス、バリトンサックス、バスサックス、トランペット、トロンボーンバンジョー、ドラムス、ピアノ、2ヴァイオリン、という編成で、難波の赤玉食堂で楽団を率いていた前野港造(sax)が指揮している。この編曲が甚だ複雑なので書き留めておこう。

イントロ…トランペット、バンジョー、ドラムス、ピアノ、2ヴァイオリン

1番コーラス…バンジョー、ピアノ、ヴァイオリン

ブリッジ…トランペット、トロンボーン、テナーサックス、バンジョー、ピアノ、ヴァイオリン

2番コーラス…バリトンサックス、バンジョー、ドラムス、ピアノ、ヴァイオリン

ブリッジ…トランペット、トロンボーン、テナーサックス、バンジョー、ドラムス、ピアノ、2ヴァイオリン

3番コーラス…バスサックス、バンジョー、ドラムス、ピアノ、ヴァイオリン

fin…テナーサックス、トランペット、バンジョー、ドラムス、ピアノ、2ヴァイオリン

 ドラムスはバンジョーの影に隠れて聞き取りにくいがたしかに居る。ヴァイオリンは二人で重奏するシーンと、オブリガート一人、トランペットと合奏する一人に分かれるシーンとがあり、これもやや判別しにくいと思う。サックスはおそらくバンマスの前野による持ち替え演奏であろう。テナーからバリトン、バスへと流れる、凝った使い方だ。そもそも1929年の国内録音のジャズでバリトンやバスが使われるのは極めて珍しい。

 

 このあと、ニットーから再三『道頓堀行進曲』(松島詩子=歌、N.O.楽団 1934年9月新譜)が現われる。

f:id:jazzrou:20170918231116j:plain

 このディスクはニットー東京スタジオのディレクターに就いた服部良一(1907-93)の編曲で、1934年当時ニットーの女性歌手の看板であった松島詩子(1905-96)を起用している。のちに服部が自伝で「道頓堀行進曲を完全にジャズに編曲した」と述べているのは、このテイクのことである。松島詩子の世間ずれしていないお嬢さんのようなウブな歌唱が微笑ましい。

 神月春光が指揮するN.O.オーケストラは、3サックス、トランペット、トロンボーン、ギター、ドラムス、ベース、という編成で、トランペットを白系ロシア人のニコライ・マルチェフが吹いている。イントロはサックス陣とブラスの掛け合いでちょっとトランペットのソロが入る。1番コーラスはその延長でサックス陣にブラス陣が絡むバック、そのあとのブリッジはカサ・ロマ・オーケストラのジョン・ギフォードばりの分解的なアレンジで旋律が処理される。2番コーラスはサックス陣の独壇場で、流麗なハーモニーに包まれる。ブリッジではトロンボーンによる弱いオブリガート付きでマルチェフのトランペットが『アラビアの唄 Song of Araby』を高らかに歌う。『道頓堀行進曲』とおなじ1928年のヒット曲ということで挿入したのだろうが、深読みすれば服部良一がバンドを率いて活躍していた大阪時代のジャズ風景を回顧しているようにも思われる。トロンボーンソロを受けての3番はリズムに薄くブラスが乗って、ヴォーカルを引き立てる。この控えめな伴奏のあと、ブラス・サックスの元気な全合奏、サックス陣とブラス陣(特にトランペット)の見せ場で華麗に締めとなる。この松島盤は全体にフレッチャー・ヘンダーソンのカラーを踏襲したホットなアレンジで、アメリカ本国で台頭してきたスウィングをいち早く採り入れたディスクとして注目に値する。

 冒頭にも書いたが、この松島詩子盤は、1936年にニットーのはじめた大衆盤で再発され、そちらはしばしば見かける。思うに1934年と1936年の間に、スウィングの意識が高まった結果、初出では売れなかった実験的なレコードが1936年にヒットしたのだ。これは日本ジャズ史的に見ても面白い現象だと思う。

 

f:id:jazzrou:20170918231350j:plain

 

 ニットーは1935年5月新譜を第一回として、サブレーベルの日本クリスタルから邦楽盤をリリースしはじめた。大正時代から関西の大レーベルであったニットーレコードが洋楽にもレパートリーを広げようと設立したのが日本クリスタルで、海外の洋楽盤をプレスするだけではなく、既存の枠組みにしばられない新機軸のレコード制作も目指した。そのクリスタルで企画から制作まで音楽監督をつとめたのが服部良一だが、今回の日本クリスタル・ファイブ・スターズとはあんまり関係はない。(クリスタルの責任者は服部龍太郎で、その下で服部良一が自由に采配を振るった)

 日本クリスタルは七回の新譜を出したところで邦楽のリリースを終了したが、その最後に『道頓堀コーラス』(日本クリスタル・ファイブ・スターズ 1935年11月新譜)をリリースした。これもニットーが『道頓堀行進曲』の権利を持っていたからできたことだが、ファイブ・スターズが自由にアレンジし奇抜なジャズコーラスに仕立てている。

 このジャズコーラスのグループは藤川光男(=林伊佐緒 1912-95)、志村道夫、友野俊一、館野信平の四名にギターorウクレレ一人を加えた五人組で、メンバーはそれぞれソロで活躍する実力の持ち主である。なお彼らは日本クリスタルだけでなく、ニットーでニットー・リズムボーイズ、タイヘイでフォア・リズム・ジョーカーズやウエスタン・ファイヴスターなどのグループ名を名乗って吹き込んだので、録音総数は20面あまりに及ぶ。藤川、友野、館野は作曲や編曲も堪能であったが、特にジャズコーラスに関しては藤川光男がアレンジを担当したのではないかと考えられる。のちにキングで藤川が手がけたアレンジと、このグループのアレンジには共通するセンスが感じられるのだ。

 ウクレレ一本の伴奏でまず2コーラス、クイックテンポでストレートに歌われる。そのあとマウストランペットのブリッジが挟まり、3、4コーラスは藤川光男のソロにほかの3人のスキャットやハモりが絡む。5コーラスめはスキャット、6コーラスめで全員でハモってお終い。軽妙洒脱なジャズコーラスだ。

 

 戦前の『道頓堀行進曲』はおおむね以上である。他にもマイナーレーベルにあるかもしれず、替え歌もあるかもしれないが、漏れについてはご寛恕いただきたい。また戦前戦後に数曲ある「新道頓堀行進曲」については、全くの別曲なのでここでは取り扱わなかった。

 戦後の『道頓堀行進曲』のレコードについてはあまり情報を持っていないが、日本マーキュリーの『軽音楽 道頓堀行進曲』(近藤正春=編曲・指揮 大阪キューバンバンド)が一風変わったレコードとして記憶されよう。

 

※文中、新譜年月の誤りがあったので訂正した。(2018年12月17日)

f:id:jazzrou:20170918231447j:plain

 

道頓堀からの『浅草行進曲史』はこちら→

『浅草行進曲』史 - ニッポン・スヰングタイム