ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

Royal Blue RecordとBG

Benny Goodman and His Music Hall Orchestra “Take My Word”(Benny Carter) “It happens to the Best of Friends”(Bloom-Parish) Rec.: 16th. Aug.1934  これはベニー・グッドマンNBCラジオの電波に乗って全米を席捲し、スウィング王となる前夜、初めてバンドリーダーをつとめた折のディスクである。ただし商業用にBGの名を冠した録音はこれ以前にも行なっている。  興行師・劇場主で、且つ”It’s Only a Paper Moon”などヒットソングの歌詞をいくつも手がけたビリー・ローズ Billy Roseは1934年6月、ブロードウェイの52番街に「ビリー・ローズ・ミュージックホール」をオープンした。開館に際してバンドリーダーとして招聘されたのがベニー・グッドマンである。  4ヶ月半にわたるミュージックホールでの演奏はさしたる評判も得られなかったが、ディスクの幾つかは注目された。BGはジョン・ハモンド(ジャズ評論家)ら後援者の説得と後押しでニューヨークからロサンゼルスまでの公演をこなして、ゴールのロスでようやく大成功をおさめるに至る。そうしてNBCのオーディションに合格し、1935年の番組”Let’s Dance”によってスウィング時代を招来したのである。  “Take My Word”と“It happens to the Best of Friends”は、様式はごく平凡なスウィートスタイルだが、それでもすでにBGの流麗なスタイルが示されており、34年秋のトップテンに数えられるセールスを記録した。Ann Grahamをヴォーカルに迎えた“It happens to the Best of Friends”では、BGのまだいくぶん固く鋭いが個性的なフレージングをたどるクラが聴かれる。  この青く美しいディスクは、ロイヤルブルー・レコード Royal Blue Recordという。米コロムビアは1929年の大恐慌後、業績不振から立ち直れず1932年にグリグスビー・グラスゴウ社に身売りをした。オーナーが変わった直後の1932年12月から35年(西部では36年半ばまで)にかけてリリースされたこのシリーズは、スタンダードな黒いレコードより材質も価格もワンランク上で、サーフェイスノイズの極めて少ないクリアな音質であった。  しかし人目を惹くアイデアはすぐれていたのだが、大恐慌後ではあまりに時期が悪すぎた。これが1920年代初頭ならば事情は異なったであろう。結局のところ、価格と「レコードは黒いもの」という購買者の既成概念が壁となって収益にはあまり寄与しなかったのである。1934年、グリグスビー・グラスゴウ社は、コロムビアAmerican Record Corporationに売却する。(註   なお同時期、Victorでも高度精製されたシェラックを用いた”Zシェラック”シリーズがリリースされた。不況下に高品質を追求したこれらのシリーズは、今日ではコレクターズアイテムとなっている。  下の画像は専用スリーブに収まったところ。 註) ARCはBrunswick, Vocalionなどのレーベルを擁しており、ちょうどコロムビアを手中に収めた時期から日本の「太平」、斎藤商店の発行する「ラッキー」と原盤提携を結んだ。太平のそれはごく少量であったが、太陽レコードで瀬踏みしてから本式に契約したラッキー Luckyからは大量のARC原盤がプレスされてジャズファンを大いに喜ばせた。また、これとは別にニットーの洋楽レーベル「日本クリスタル」がヨーロッパ中心に販路を持つCrystalと原盤提携を行ない、メジャーレーベルもスウィングのアルバム化を陸続と行なった。これらの複合的な動きが日本における第二次ジャズブームを牽引した。