ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

泣いちゃいけない 丸山和歌子 1931〜1937

12月29日、ぐらもくらぶの新譜『泣いちゃいけない 丸山和歌子の部屋 1931〜1937』がリリースされます。 https://amzn.to/36Uy1sC 丸山和歌子とは 1905年生まれ。ただし1902年説もあり。生家は神田の日本最古の幼稚園を営んでいました。女子学院(千代田区)を経て東洋音楽学校本科声楽部で学び、卒業後に姉富士子とともに実家の幼稚園経営に乗り出しました。幼稚園経営のかたわら1931(昭和6)年に浅草・金龍館で歌手としてデビューし、同年レコードデビューも果たします。 コロムビア、ポリドール、キング、テイチク、パーロホン、ニットー、タイヘイ、ニッポンレコード系列etc.へ約200曲を録音しています。 LP時代から、コロムビアなどの流行歌復刻全集に一、二曲収録されてきましたが、個人アルバムは皆無。今回のCDが初アンソロジーとなります。 コロムビアの「春じゃもの」「紅の帯」、キングの「千夜子の唄」や太陽レコードの「銀座志ぐれ」などは大ヒットとはいえないもののロングセラーとなったレコードで、戦前流行歌ではおなじみ歌手だったのに丸山和歌子単体では注目されることがなく、マイナー歌手扱いをされてきました。 なぜそこまで埋もれていたか? 実は丸山和歌子は1937(昭和12)年を機にレコード界を引退しています。その後はもっぱらステージで活躍しました。戦中には前線や工場での慰問活動を行ないました。レコード歌手としての存在感が強かったので、レコード新譜が出なくなって広報などバックアップがなくなると、劇場のある都市部以外では急送に忘れられていったものと考えられます。 それから1945(昭和20)年に40歳になるやならぬやで死去したことも、埋没の理由として挙げられます。死因は、戦後に「ステージで倒れた」「心臓病の発作」などという報道もありましたが、ご遺族の発信によれば「空襲による」ということです。 歌手として円熟期を迎えたとたんにレコード録音がストップし、戦後に再発売されることもなかったので歌謡史でも扱いが軽くなってしまった。 加えて、コロムビア、ボリドール、キング(キンポリ)、テイチクといったメジャーレーベルに大ヒットがなく、時を経るにつれて彼女の唄をなつかしいと感じるファンも減っていった。 1960年代、70年代のなつメロブームには当然不在だったわけで、再評価がいちじるしく遅れた二村定一と同じような事情が丸山和歌子の場合もはたらいたと考えてよいでしょう。 丸山和歌子の魅力 このCDでは、彼女がもっとも本領を発揮したと考えられるニットーレコード、太陽レコードをはじめとして、マイナーレーベルの録音を中心に編みました。丸山和歌子の魅力を余すところなく捉えたラインナップとなっております。 コロムビアなどメジャーレーベルにも大量の録音を行なっていますが、丸山和歌子の持っていた個性を活かせたのはどういうわけかマイナーレーベルでした。特にニットーでは江口夜詩が彼女の声の特性を活かしたダンス小唄や流行歌を多作し、1933〜34年のラインナップは丸山和歌子の面目躍如といった趣があります。 丸山和歌子は実演では浅草を中心に歌い、デビューからほどなくファンを獲得して大向うから「ワカちゃーん」のコールがかかりました。そのころの新聞記事の見出しに「浅草(エンコ)の人気者(ジャズシンガー)」と掲げられ、彼女がその歌唱で着実に認められた様子が窺えます。流行に投じてジャズソングやセミクラシックの歌曲、ヒット曲の替唄などを歌っていましたが、レコードはそんな彼女にとって新たな世界でした。 関種子、矢追婦美子、藤山一郎、徳山諭▲潺后Ε灰蹈爛咼△覆媛山擲惺蚕仗箸領�垈亮蠅�譽魁璽紐Δ凌慶��箸覆辰討い薪��任癲�飮穫族了劼曚氷皺擦離愁廛薀里狼�C任靴拭�]紊マhihiA、下はlowCまで3オクターブをカバーする広い声域を持った歌手はオペラ歌手など声楽家ではともかく流行歌では珍しく、その声域の広さを楽曲に合わせて使い分けられるのが彼女の強みでした。 それから鼻にかかった愛嬌のある甘い声も彼女の大きな武器で、これは舞台での経験から修得したものでしょう。コロムビアやポリドール、キング(キンポリ)は彼女を抒情歌、映画主題歌、新民謡に多用しましたが、もったいないことにやや安全パイに走りすぎた感があります。流行歌に関しては、時代の流行もありますがプレクトラム楽器の伴奏による穏やかな楽曲が多く、丸山和歌子の実力を抜群に活かしたテイクは乏しい。レコード会社で丸山和歌子の個人全集が作られなかったのは、・似たりよったりの楽曲ばかりになってしまうこと、・新民謡がやたらに多いこと、という関係もあるでしょう。結局はレーベルが彼女のパーソナリティーを使い切れなかったのだと筆者は考えます。 マイナーレーベルの丸山和歌子 1931(昭和6)年12月からニットーに現われた丸山和歌子は、そこで才能を開花させます。 残響の豊かなスタジオでカーボンマイクに捉えられた丸山和歌子の声は無限かと思える伸び感があり、メジャー級の技量を持つN.O楽団(日東管絃樂團)の音響に負けない声量で歌いまくっています。カーボンマイクの特質なのか彼女の歌唱の高い方の声が脳天に突き刺さりそうな勢いです。ノリの良さがメジャーレーベルとは違う。楽曲もコロムビアやキングの生ぬるい(失礼)メロディーとは異なって、彼女の可能性を探るように四方八方に発想の飛んだ意欲作が次々に発表されました。その主たる作り手が江口夜詩、千振勘二です。 このCDには二村定一との共唱を2面収録しました。丸山和歌子と二村定一の共唱はコロムビアとキングにもあり、当時はおなじみコンビのような扱いであったようですが、ニットーのテイクがもっとものびのびしています。 「又逢ふ日まで」は丸山和歌子の張り詰めた甘い声が受けて、スタートしたばかりのオーゴンのロングセラーとなりました。楽曲のメロディー、アレンジも新味に富んでいます。太陽レコードは丸山和歌子をアーバンな歌手と位置づけており、「銀座志ぐれ」が都会人の感傷にすっぽりと嵌まるスマッシュヒットとなったほか、「街の天使」「闇の花」のようなアンダーグラウンドな世界の女性という新しい性格も彼女に与えました。 つんざくような高音を連発した丸山和歌子は、昭和10年前後からA5級のソプラノをセーブするようになります。タイミング的にはニットーとタイヘイが合併して大日本蓄音器株式会社になる頃=同社がウエスタン録音システムをリースして神田の九段下デパート3階のスタジオでレコードティングをはじめる時期です。 そもそも彼女が目鼻に突き抜けるような高音歌唱をしていたのはニットーやニッポン系などマイナーレーベルで、コロムビアやポリドールでは高音をなるだけ控えていました。コンデンサーマイクの特質を踏まえてそうしたのか、レーベルとの相性でそうなったのかはわかりません(おそらく前者)。ウエスタン録音システムになったニットー・タイヘイで丸山和歌子はやたらにフェロモンを漂わせるようになりました。この変化はとても興味深い。 女ごころのシンガー その他、テイクのひとつひとつについてはブックレットをご参照いただきたい。 最後にひとつ述べると、丸山和歌子という歌手は徹頭徹尾、女ごころを歌うシンガーでありました。これはニットーの諸テイクを聴いていて湧泉と心に浮かんだ言葉です。媚態、切ない、悲しい、諦めきった、あるいは割り切れない女ごころを歌わせて、彼女にまさる歌手はいないでしょう。CDの最後に収録した「てれちゃうわ」はいわゆる「ねェ小唄」で、実質的に発禁となったレコードです。したたるようなお色気を湛えた歌唱で、その度が過ぎて取り締まりに遭いました。女ごころの表現の極地が、「てれちゃうわ」です。 3オクターブの声域で七色の歌声を聴かせた丸山和歌子。このCDによって、丸山和歌子の再評価がなされること、そして新しいファンが増えることを願っています。

【新譜】泣いちゃいけない 丸山和歌子の部屋 1931〜1937

12月29日、ぐらもくらぶの新譜『泣いちゃいけない  丸山和歌子の部屋 1931〜1937』がリリースされます。 

泣いちゃいけない 丸山和歌子の部屋 1931-1936

泣いちゃいけない 丸山和歌子の部屋 1931-1936

  • アーティスト:丸山和歌子
  • 出版社/メーカー: ぐらもくらぶ
  • 発売日: 2019/12/29
  • メディア: CD
 

 

  • 丸山和歌子とは

1905年生まれ。ただし1902年説もあり。生家は神田の日本最古の幼稚園を営んでいました。女子学院(千代田区)を経て東洋音楽学校本科声楽部で学び、卒業後に姉富士子とともに実家の幼稚園経営に乗り出しました。幼稚園経営のかたわら1931(昭和6)年に浅草・金龍館で歌手としてデビューし、同年レコードデビューも果たします。

コロムビア、ポリドール、キング、テイチク、パーロホン、ニットー、タイヘイ、ニッポンレコード系列etc.へ約200曲を録音しています。

LP時代から、コロムビアなどの流行歌復刻全集に一、二曲収録されてきましたが、個人アルバムは皆無。今回のCDが初アンソロジーとなります。
コロムビアの「春じゃもの」「紅の帯」、キングの「千夜子の唄」や太陽レコードの「銀座志ぐれ」などは大ヒットとはいえないもののロングセラーとなったレコードで、戦前流行歌ではおなじみ歌手だったのに丸山和歌子単体では注目されることがなく、マイナー歌手扱いをされてきました。

 

  • なぜそこまで埋もれていたか?

実は丸山和歌子は1937(昭和12)年を機にレコード界を引退しています。その後はもっぱらステージで活躍しました。戦中には前線や工場での慰問活動を行ないました。レコード歌手としての存在感が強かったので、レコード新譜が出なくなって広報などバックアップがなくなると、劇場のある都市部以外では急送に忘れられていったものと考えられます。
それから1945(昭和20)年に40歳になるやならぬやで死去したことも、埋没の理由として挙げられます。死因は、戦後に「ステージで倒れた」「心臓病の発作」などという報道もありましたが、ご遺族の発信によれば「空襲による」ということです。

歌手として円熟期を迎えたとたんにレコード録音がストップし、戦後に再発売されることもなかったので歌謡史でも扱いが軽くなってしまった。

加えて、コロムビア、ボリドール、キング(キンポリ)、テイチクといったメジャーレーベルに大ヒットがなく、時を経るにつれて彼女の唄をなつかしいと感じるファンも減っていった。
1960年代、70年代のなつメロブームには当然不在だったわけで、再評価がいちじるしく遅れた二村定一と同じような事情が丸山和歌子の場合もはたらいたと考えてよいでしょう。

  • 丸山和歌子の魅力

このCDでは、彼女がもっとも本領を発揮したと考えられるニットーレコード、太陽レコードをはじめとして、マイナーレーベルの録音を中心に編みました。丸山和歌子の魅力を余すところなく捉えたラインナップとなっております。

コロムビアなどメジャーレーベルにも大量の録音を行なっていますが、丸山和歌子の持っていた個性を活かせたのはどういうわけかマイナーレーベルでした。特にニットーでは江口夜詩が彼女の声の特性を活かしたダンス小唄や流行歌を多作し、1933〜34年のラインナップは丸山和歌子の面目躍如といった趣があります。

丸山和歌子は実演では浅草を中心に歌い、デビューからほどなくファンを獲得して大向うから「ワカちゃーん」のコールがかかりました。そのころの新聞記事の見出しに「浅草(エンコ)の人気者(ジャズシンガー)」と掲げられ、彼女がその歌唱で着実に認められた様子が窺えます。流行に投じてジャズソングやセミクラシックの歌曲、ヒット曲の替唄などを歌っていましたが、レコードはそんな彼女にとって新たな世界でした。

関種子、矢追婦美子、藤山一郎、徳山璉、ミス・コロムビアなど音楽学校出身の流行歌手がレコード界の新潮流となっていた当時でも、丸山和歌子ほど高音のソプラノは稀でした。上はhihiA、下はlowCまで3オクターブをカバーする広い声域を持った歌手はオペラ歌手など声楽家ではともかく流行歌では珍しく、その声域の広さを楽曲に合わせて使い分けられるのが彼女の強みでした。

それから鼻にかかった愛嬌のある甘い声も彼女の大きな武器で、これは舞台での経験から修得したものでしょう。コロムビアやポリドール、キング(キンポリ)は彼女を抒情歌、映画主題歌、新民謡に多用しましたが、もったいないことにやや安全パイに走りすぎた感があります。流行歌に関しては、時代の流行もありますがプレクトラム楽器の伴奏による穏やかな楽曲が多く、丸山和歌子の実力を抜群に活かしたテイクは乏しい。レコード会社で丸山和歌子の個人全集が作られなかったのは、・似たりよったりの楽曲ばかりになってしまうこと、・新民謡がやたらに多いこと、という関係もあるでしょう。結局はレーベルが彼女のパーソナリティーを使い切れなかったのだと筆者は考えます。

 

  • マイナーレーベルの丸山和歌子

1931(昭和6)年12月からニットーに現われた丸山和歌子は、そこで才能を開花させます。

残響の豊かなスタジオでカーボンマイクに捉えられた丸山和歌子の声は無限かと思える伸び感があり、メジャー級の技量を持つN.O楽団(日東管絃樂團)の音響に負けない声量で歌いまくっています。カーボンマイクの特質なのか彼女の歌唱の高い方の声が脳天に突き刺さりそうな勢いです。ノリの良さがメジャーレーベルとは違う。楽曲もコロムビアやキングの生ぬるい(失礼)メロディーとは異なって、彼女の可能性を探るように四方八方に発想の飛んだ意欲作が次々に発表されました。その主たる作り手が江口夜詩、千振勘二です。

このCDには二村定一との共唱を2面収録しました。丸山和歌子と二村定一の共唱はコロムビアとキングにもあり、当時はおなじみコンビのような扱いであったようですが、ニットーのテイクがもっとものびのびしています。

「又逢ふ日まで」は丸山和歌子の張り詰めた甘い声が受けて、スタートしたばかりのオーゴンのロングセラーとなりました。楽曲のメロディー、アレンジも新味に富んでいます。太陽レコードは丸山和歌子をアーバンな歌手と位置づけており、「銀座志ぐれ」が都会人の感傷にすっぽりと嵌まるスマッシュヒットとなったほか、「街の天使」「闇の花」のようなアンダーグラウンドな世界の女性という新しい性格も彼女に与えました。

つんざくような高音を連発した丸山和歌子は、昭和10年前後からA5級のソプラノをセーブするようになります。タイミング的にはニットーとタイヘイが合併して大日本蓄音器株式会社になる頃=同社がウエスタン録音システムをリースして神田の九段下デパート3階のスタジオでレコードティングをはじめる時期です。

そもそも彼女が目鼻に突き抜けるような高音歌唱をしていたのはニットーやニッポン系などマイナーレーベルで、コロムビアやポリドールでは高音をなるだけ控えていました。コンデンサーマイクの特質を踏まえてそうしたのか、レーベルとの相性でそうなったのかはわかりません(おそらく前者)。ウエスタン録音システムになったニットー・タイヘイで丸山和歌子はやたらにフェロモンを漂わせるようになりました。この変化はとても興味深い。

  • 女ごころのシンガー

その他、テイクのひとつひとつについてはブックレットをご参照いただきたい。

最後にひとつ述べると、丸山和歌子という歌手は徹頭徹尾、女ごころを歌うシンガーでありました。これはニットーの諸テイクを聴いていて湧泉と心に浮かんだ言葉です。媚態、切ない、悲しい、諦めきった、あるいは割り切れない女ごころを歌わせて、彼女にまさる歌手はいないでしょう。CDの最後に収録した「てれちゃうわ」はいわゆる「ねェ小唄」で、実質的に発禁となったレコードです。したたるようなお色気を湛えた歌唱で、その度が過ぎて取り締まりに遭いました。女ごころの表現の極地が、「てれちゃうわ」です。

3オクターブの声域で七色の歌声を聴かせた丸山和歌子。このCDによって、丸山和歌子の再評価がなされること、そして新しいファンが増えることを願っています。

 

※以下のぐらもくらぶCDにも丸山和歌子成分が含まれています。

 

 

 

 

 

 

 

帰ってきた街のSOS!  二村定一コレクション1926-1934

帰ってきた街のSOS! 二村定一コレクション1926-1934

  • アーティスト:二村定一
  • 出版社/メーカー: ぐらもくらぶ
  • 発売日: 2016/05/15
  • メディア: CD
 

 

 

戦前のミュゼット音楽②

ミュゼット音楽からはたちまち離れるが、「アンコールの宮殿にて」に触れたのでアコーディオン奏者の長内端を紹介せねばなるまい。
 
長内端(おさない・ただし 1910〜77)は帝大工学部という音楽家では異色の出身だ。しかし、その経歴が戦後にドンカマを生むことになる。帝大工学部に在学中から長内はオルケスタ・シンフォニカ・タケヰでマンドローネを演奏していた。その後アコーディオンに転じて、JOAKの新人演奏家募集などで頭角を現した。1938年6月に東京スタンダード・アコーディオン・クラブを結成し、理事として選曲、編曲、指揮を司った。
長内は工学部出身らしく「特殊電気アコーディオン」なる楽器を操った。独奏会でステージ映えするよう電気的な増幅装置を備えたアコーディオンなのだろうが、レコード録音にもこれを用いたのかは分かっていない。
 
録音は1937年からビクターにある。最初のレコードはビクター廉価レーベルのスター(1937〜38)で、「碧空」「マリネラ」(1937年9月)という組み合わせだった。2枚目からは、スターを引き継いだ廉価レーベルのZシリーズ(青盤)でリリースされている。スタンダードな価格帯である黒盤(1円65銭)の下位にあるのが青盤(1円10銭)である。
これは長内の演奏が軽んじられていたというわけではない。1910年代からアメリカ・ビクターでは木琴、口笛、アコーディオンといった名人芸が廉価な青ラベルに区分されていた。その流れを日本ビクターも受けているのであるが、これは高踏的なクラシカルミュージックと大衆音楽との格差というよりもアコーディオンの大衆的な人気から廉価盤に組み込まれたのであろう。
 
1939年1月 「トルコ行進曲」(モーツァルト) / 「軍隊行進曲」(シューベルト) Z-100
 
1939年4月 「小牧神の行進」(ピエルネ) / 「玩具の兵隊の観兵式」(イエッセル) Z-138
 
1939年6月 「野崎村」 / 「新内流し」  Z-166
 
1939年8月 「太平洋行進曲」 / 「軍艦行進曲」 Z-200 (この一枚は東京スタンダード・アコーディオン・クラブの合奏である)
 
1939年9月 「ハンガリアン・ラプソディー 第二番」 Z-216
 
以上が青盤でリリースされた録音である。編曲は全て長内端。
 
 
 

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これはピエルネの「小牧神の入場」(1939年4月)である。
 
ガブリエル・ピエルネはフランスの現代作曲家で、戦前は作曲家・指揮者として知られていた。「小牧神の入場」は自作自演を含むレコードが数種出ていたほか、日本では近衛秀麿(指揮)新交響楽団のレパートリーとしても親しまれていた。アコーディオンへの編曲は珍しくて、フランス現代楽(といっても親しみやすい作品だが)を選曲したのは、あるいは早くからミュゼット志向が長内の中にあったのかな? と思わせる。
 
 
それからぜひ再評価したいのがこの名演だ。「ハンガリアン・ラプソディー 第二番」(1939年9月)。
 

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原曲はピアノの技巧曲として知られている。それを技巧をスポイルすることなく10吋2面いっぱいにアレンジし弾ききっている。音楽性豊かで且つ超絶技巧の名演だ。1円10銭の青盤なのが勿体なく感じられる。
 
アコーディオニストは他にもいるが、レコード両面にわたって超絶技巧を散りばめた本格的な演奏は、長内ただ一人である。
他社を見回しても、高橋孝太郎(コロムビア系)はソロ録音よりもアンサンブル、伴奏楽団に参加することが多く、また編曲に力を入れていた。その仕事の旺盛さはアコーディオン奏者随一で、月に二、三千円稼いでいたといわれる。ちょっと意外かもしれないが、テイチクの藤山一郎「東京ラプソディ」も高橋孝太郎がアレンジしている。
小泉幸雄(テイチク)は古賀政男の楽曲を中心に、ジャズソングや流行歌の主情的な演奏が多く見受けられる。この人については、長内をまとめたのちに少し紹介するつもりである。
杉井幸一(キング)はバンドネオン奏者だが、レコードではなぜかアコーディオン独奏を録音している(キング・ノベルティー・オーケストラのサロン音楽に二、三バンドネオンで加わった録音がある)。アレンジの奇抜さアイデア豊富さに比するとスタンダードな演奏だが、大曲向きの器を感じさせる奏風である。ソロをラテン系のナンバー4曲(ポエマ、スペインの姫君、夢のタンゴ、愉快なルンバ)しか残していないのは残念だ。
 
 
1940年から長内のレコードはJシリーズの標準価格帯に編入された。これは軽音楽人気の高まりと呼応するものだろう。
ジャズは相変わらずレコードでも実演でも高い人気を持っていた。というより日本人の生活に抜き難く浸透していたのだが、時勢は戦時体制であり、健全な「軽音楽」が主としてラジオ放送で大きくフィーチャーされはじめていた。ジャズもやがて軽音楽に包含されるようになる。
ディスコグラフィーの続きを挙げよう。
 
1940年1月 
「長崎物語」「馬と兵隊」 J-54675
「雨の上海」「熱海ブルース」J-54676
「青いチョゴリ」「月の浜辺で」 J-54677
 
1940年6月 軽音楽アルバム 第一輯
「黒い眼」「山の人気者」 A4801
「ラ・クムパルシータ」「ルムバ・タムバ」 A4802
「ドナウ河の漣」「美しく碧きドナウ」 A4803
 
1941年12月 軽音楽アルバム 第五輯
「日本ファンタジー」「ウインナの想ひ出」 A4829
 
1942年4月  軽音楽アルバム 第八輯
「アンコールの宮殿にて」「可愛いトンキン娘」(仏印の印象) A4838
 
1942年6月 軽音楽アルバム 第十輯
「楽しい仲間」「人形の兵隊」 A4844
「希望の星座」「空の護り(空襲なんぞ恐るべき)」 A4845
ボレロ」「ウィルヘルム・テル」 A4846
 
1942年11月
「枢軸の調べ」 A4870
 
1942年12月 軽音楽アルバム
「木曽節」「鴨緑江節」 A4872
「宵待草」「波浮の港」 A4873
「秋の色種」「小鍛冶」 A4874
 
1943年1月
「千代の唄」「東京むすめ」 A4880
 
1943年6月
「ドリゴの小夜曲」 A4889
 
1943年10月 手風琴アルバム 第四輯
「詩人と農夫」 A4912
「天国と地獄」 A4913
軽騎兵」 A4914
 
1943年12月
「美はしき西班牙(エスパーナ)」 A4918
「学徒の調べ(エストゥディアンティーナ)」 A4919
「金と銀」 A4920
 
1944年1月
「若き日の歓び」「アムール小唄」 A4923
 
このほかキングに若干の録音がある。
愛国行進曲」 21111
「軍歌集」 67072
「懐かしの名曲集」 と195
 
長内端の真骨頂は、これら1940年代のレコーディングに窺われる。
 

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長内のレパートリーは、先に少し挙げたようにclassical musicを含んでいる。これはラヴェルの「ボレロ」(1942年6月)。
1940年代にはまだ現代音楽の範疇にあった「ボレロ」は、アメリカのハーモニカ奏者ラリー・アドラーのレコードが評判よく、このレコードの存在が長内にアコ編曲の示唆を与えたのではないかと考えられる。
 

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戦時中も愛唱歌や流行歌、軍歌などアコーディオン独奏でレコード化する素材は多々あり実際レコード化していたが、1943年10月にはスッペの「詩人と農夫」、オッフェンバッハの「天国と地獄」、スッペの「軽騎兵」という3曲のオペレッタ序曲集をアルバムで発表する壮挙に出ている。ポピュラーな選曲だが、そこそこの長さの管弦楽曲アコーディオンの独奏で10吋両面にわたって演奏するとなると話はちがう。こんなことをするのは長内くらいで、海外にもあまり録音例がない。
なお、「ボレロ」含めすべてフランスの作曲なのも、彼がミュゼットを志向していた現われではないだろうか。

戦前のミュゼット音楽①

洋楽のささやかなコレクションに、いつの間にかミュゼットのいいレコードが溜まっていたので並べてみる。まずアンリ・モンボアッセ。 仏Odeonの1932年カタログには、マルソーやエミール・ヴァシェーと共に多くのアンリ・モンボアッセが挙げられている。彼のレコードは日本ではパーロホン(のちにコロムビア)からリリースされた。

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パーロホン初出の「ドン・ホセ Don Jose」はのちにコロムビアでもプレスされ、コロムビア盤の方で大ヒットした。日本では小泉幸雄のアコーディオン独奏、明大マンドリン倶楽部、豊吉の三味線など様々にレコード化され、今日もマンドリンオーケストラやミュゼットのレパートリーとして定着している。

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フランス映画は昭和初期、名作を多発して洋画界の一角を占める雄であった。その主題歌も「巴里の屋根の下」「巴里祭」をはじめとして、日本ではたいへんポピュラーだった。 
 

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ペグリ兄弟の「モン・パパ C’est pour mon Papa」は1931(昭和6)年11月臨時発売。 エミール・ヴァシェーの「うっちゃっとけよブブール T’en fais pas Bouboule」は1932年6月新譜。いずれもジョルジュ・ミルトンの歌う主題歌がコロムビアで発売されたのとほぼ同時に日本パーロホンがリリースしている。これら仏映画主題歌のミュゼット盤も、日本でのアコーディオン熱をより高めた。
 
このエミール・ヴァシェーのフランスでの人気はすばらしく、仏Odeonの1932年(6月まで)のカタログには83枚(166面)も掲載されている。これは他のプレイヤーを圧する数量で、コロムビアのモーリス・アレクサンダー管弦楽団、パテのフレッド・ガルドーニと鼎立している。

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仏ODEONの1932年度版 総カタログ

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この仏オデオンカタログから1931〜32(昭和6〜7)年に日本パーロホンがプレスした「レコンシリエーション Reconciliation」と「愉快な兄弟 Merry Boys」、コロムビアが1938(昭和13)年に発売した「プレシピート Precipito」。これらは元々は1926年〜1930年の録音なので、日本ではやや遅れて紹介されたわけだ。

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エミール・ヴァシェはいかにもミュゼットらしい洒脱な楽曲はもちろんだが、「ドリゴのセレナーデ」のようなセミクラシックや、「バイ・バイ・ブラック・バード」のようなティン・パン・アレイの楽曲も演奏した。この曲のこんなに洒脱な演奏はほかに無い。これは1926年録音で、日本では1932(昭和7)年7月新譜。

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エミール・ヴァシェー「バイ・バイ・ブラックバード
 
20年以上前のCMに使われていた音楽に、たまたまSP盤で遭遇した。それがルビー・ゴールドスタイン管絃楽団の「アンコールの宮殿にて De picpus au Plais D’Angkor」(1930年録音)で、日本では1933(昭和8)年11月新譜。この楽団は無名だが、曲のほうはいまでもミュゼットのレパートリーに残っているようで、比較的最近の録音がyoutubeにある。

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ルビー・ゴールドスタイン管絃楽団「アンコールの宮殿にて」

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解説カード
これをカバーしたのが長内端と日本ビクター軽音楽団で、1942(昭和17)年4月新譜でリリースされている。日本が進駐していた仏印がテーマということで、時機に投じた企画だったのだろう。これは実によくできたカバーで、ゴールドスタイン楽団とほぼ遜色ない演奏水準とエスプリが感じられる。ちなみにいったい何のCMだったのかは失念してしまった。おしゃれな軽自動車だったような気もする。

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長内 端の「アンコールの宮殿」
 
僕のミュゼットへの興味はこの辺までで、戦前に日本でプレスされたテイクに限られている。
ミュゼットの黄金時代を日本はほぼリアルタイムで享受していたのだが、ミュゼット音楽の魅力について触れられた文献は乏しい。大雑把に「アコーディオン音楽」として纏められていたに過ぎない。戦前の日本でそのエスプリがどの程度理解されていただろう? 日本プレスによるミュゼット音楽の遺産は、いま、現代になって真価を発揮するのである。
1940年代以降のミュゼットにはあまり興味はなく、たまに耳にすることもあるが、よくよく見たら戦前のナンバーのカバーだったりする。たとえば、大阪に住んでいたとき常連だった「赤白 Rouge et blanche」によく流れていたBGM”Les Triolets”(三つ子)は上にも記したエミール・ヴァシェーとペグリの共作によるポルカで、今でもこの音楽を聴くとついワインを欲してしまう。それから、CMで脳裡にこびりついている「アンコールの宮殿にて」だ。いずれも新しい演奏で聴いていたものが実はカバーであった。
こうした個人的な経験を通して音楽をたどるとSP盤にたどり着くことは、実はよくあることである。1980年代末か1990年代初頭だったと思うが、古いミュゼットの雑なアンソロジーが何種類もCD化されてWAVEやタワレコに群れをなしていた。たしかシャンソンの歌手別のアンソロジーもあった筈だ。その当時はSP期の音源ということで興味はあったものの、手を伸ばすところまではいかなかった。30年の間にいつの間にかその方面のレコードをコレクトしていたのは、気持ちの何処かでCD群を買い逃したことが引っかかっていたのであろう。

 

レビュー ニッポン・モダンタイムス

元号が平成から令和へと移り変わる4月29日(月)〜5月1日(水)、イイノホールで『レビュー ニッポン・モダンタイムス』が行なわれます。

4月29日(昭和の日)、30日(平成最後の日)、5月1日(令和最初の日)という三つの時代のメモリアル・デーに、

初風諄 安奈淳 峰さを理 日向薫 稔幸 姿月あさと 

麻乃佳世 星奈優里 舞風りら

はじめ宝塚レビューのレジェンドを迎えて、戦前のジャズソングをボーカルとダンス、インストで綴る3日間。

演奏は渡邊恭一とモダンタイムス楽団。

上石統(tp) 榎本裕介(tb) 渡邊恭一(sax/cl) 宮本謙介(sax/cl) 磯部舞子(vl)

青木研(g/bjo) 山本琢(p) 寺尾陽介(b) 桃井裕典(ds)

全二幕が、40曲以上のナンバーで構成されています!

公式サイトはこちら。

http://apeople.world/prm/modern_times/

春季特別展『音楽家 貴志康一 生誕110年〜吹田に生まれた若き天才』

今年は貴志康一(1909〜1937)の生誕110周年。

貴志が生まれ育った大阪府吹田市では、その記念催事として吹田市立博物館にて春季特別展「音楽家 貴志康一 生誕110年〜吹田に生まれた若き天才〜」展が開催されます。

 

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チラシ①

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チラシ②


2019年4月27日(土)〜6月9日(日)
 
この展覧会の初日、27日(土)午後2時45分より講演「貴志康一 28年の軌跡」(4時45分まで)を行ないます。
また翌4月28日(日)午後1時30分より、貴志康一監督・音楽作品「鏡」「春」(ともに1933年 独ウーファ社/国立映画アーカイヴ提供)が上映されます。上映に先立って、映画の解説を加えます。2本の短編映画を貴志が製作した背景と撮影について、音楽についてくわしく知れば、これらの作品がより楽しめることでしょう。
 
2006年に『貴志康一 永遠の青年音楽家』(国書刊行会)を上梓してから13年。その間に新たな知見もあり、今回の講演/解説にもできる限り盛り込むことができれば、と考えております。
 
展覧会では、甲南学園貴志康一記念室より提供される楽譜や写真、レコードなど貴志の遺品を見ることができます。この記念年に、ぜひお越しください。
 

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貴志康一の発表記事より。

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貴志家の家族写真。1926年、康一が渡欧する記念に。(ディープラーニングによるカラー化を施した)
 
 

二村定一のレコード 10

「浅草見物」(佐々紅華 作 並 指導)

 高井ルビー 二村定一 ニッポノホン オーケストラ

 1926(大正15)年2月新譜

 麻生豊の漫画「ノンキナトウサン」を思わせる子供じみた父さん(=二村定一)と、しっかりした娘の春子(=高井ルビー)が連れ立って浅草を遊び歩くというシンプルな構成。売れっ子の高井ルビー(22歳)と、浅草オペラではかなり異質な個性であった二村定一(26歳)が、非日常的世界を紡ぎだす。

ニッポノホンオーケストラは、フルート、オーボエコルネットテューバ(?)、ヴァイオリン、弦ベース、ピアノ、擬音(鈴など)。お伽歌劇の伴奏は概してこのくらいの小規模な編成である。

 父さんは春子に「日曜だし天気もいいから遊びに出かけよう」と持ちかける。話がまとまって父子は浅草に行くことになる。レコードのいいところは、ストーリーを唄ですっとばせるところだ。歌っている間にたちまち市電で浅草に着いた二人は、浅草寺から花屋敷を遊弋する。

 浅草寺では鳩ポッポのおもちゃを売る婆さんとちょっとした会話があり、春子の唱歌「鳩ポッポ」(東くめ=作詞、瀧廉太郎=作曲)へと流れる。この鳩の玩具売りは実在する婆さんで、当時は浅草寺の名物であった。父さんは「この玩具はいくらです?」と尋ねて「ハイ一つ5銭です」と聞くと「おお、高い。高いポッポ、高いポッポ」と憎まれ口を叩く。大人げない。

 このあと仲見世の寸景がはさまる。お汁粉屋、ゆで玉子屋、アイスクリーム、炒り豆の店から呼び込みの声がかかる。この箇所のBGMはおどろおどろしいミステリオーソで、どういうわけか子猫の鳴き声がニャーニャーと入る。猫が多かったのだろう。

 B面では父子が花屋敷に入場している。花やしき遊園地は当時、活き人形、山雀の芸当、西洋操り人形、ライオン、虎、白熊などの飼育動物、木馬館(メリーゴラウンド)が売りであり、呼び込みにも含まれている。操り人形のくだりが二人の掛け合いで唄となっている。

 見せ物を堪能した親子は花屋敷を出て、ひょうたん池の方面へ歩く。佐々紅華の視線は「〽十にもならない幼子が 賽の河原に集まりて…」と哀れな詞を歌って通行人の気を引く子供のおこもさん(乞食)にも向けられている。もっともそれは「おじさん、どうぞ十銭やってください」と哀訴する乞食の子に父さんは「なんだいお菰さんかい。十銭なんか遣れないから二銭あげよう。あーあー、傍へ寄っちゃいけないなあ」という非人情なシークエンスであるが。

 浅草オペラと同時代、お伽歌劇は舞台の歌劇と不可分な関係にあった。お伽歌劇は発想を飛ばした奇天烈なストーリーや少年少女の日常を切り抜いたような作品も多いが、なかには乞食の子の場面のように社会の暗部を剥き出しにして見せる要素も時としてあったのである。「浅草遊覧」で佐々紅華は意識的に夕刊売りや浅草寺の鳩の玩具売り、乞食の子といった人々を登場させている。アイスクリームやはじけ豆の呼び声が飛び交う仲見世シーンの情景外音楽(BGM)は先述のように殺伐としており、ただ楽しいだけとはいえない浅草の暗部が展開されているのが、このお伽歌劇の注目すべき点である。

 最後に父子は

「春子、面白いものを見つけたよ。木馬館へ行ってお馬に乗ろうか」

「あーら面白いわねえ。私メリー・ゴーラウンド大好きよ」

ということで木馬館に入る。

 この木馬館はもちろん浅草に現存する木馬館のことで、1918(大正7)年に一階に設置された回転木馬が名物であった。この木馬館のとなりが昭和初期に人気を博するカジノ・フォーリーの本拠地・水族館である。二人はメリー・ゴーラウンドに乗るが、どんどん加速する木馬に子供のようにハイテンションになった父さんは、最後に目を回してしまう。

「お父さん、危ないわ」

 という春子の台詞で終わる。

 二村定一は無邪気で子供のような役回りだが、時として当時の常識的な社会人の視線もチラッと見せており、案外に毒を含んだ存在である。後半、メリー・ゴーラウンドに乗ってからのはしゃぎようは狂気すら感じさせる。

 手際よくまとまった構成、飽きさせぬ音楽的要素が受けたのだろう。このディスクは昭和期までプレスを重ねる大ヒットとなった。

 掲示したラベルは昭和期の再プレスである。1926年のオリジナルがソリッド盤(シェラックをそのままプレスしたレコード)であるのに対して、昭和期の再プレスは粗雑な中芯の表面層に緻密なシェラック素材をラミネートしたニュー・プロセス盤である。レコード盤全体が均一な素材のソリッド盤よりもサーフェイスノイズが低く抑えられ、クリアな音質で聴くことができる。

この「浅草遊覧」は、ぐらもくらぶのCD『浅草オペラからお伽歌劇まで〜和製オペレッタの黎明〜』(G10026〜27)で復刻されているので、ぜひ一聴をおすすめしたい。

http://www.metacompany.jp/gramoclub.html

(本項目はCDのブックレットの内容より加筆訂正した。)