ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

泣いちゃいけない 丸山和歌子 1931〜1937

12月29日、ぐらもくらぶの新譜『泣いちゃいけない 丸山和歌子の部屋 1931〜1937』がリリースされます。 https://amzn.to/36Uy1sC 丸山和歌子とは 1905年生まれ。ただし1902年説もあり。生家は神田の日本最古の幼稚園を営んでいました。女子学院(千代田区)を経て東洋音楽学校本科声楽部で学び、卒業後に姉富士子とともに実家の幼稚園経営に乗り出しました。幼稚園経営のかたわら1931(昭和6)年に浅草・金龍館で歌手としてデビューし、同年レコードデビューも果たします。 コロムビア、ポリドール、キング、テイチク、パーロホン、ニットー、タイヘイ、ニッポンレコード系列etc.へ約200曲を録音しています。 LP時代から、コロムビアなどの流行歌復刻全集に一、二曲収録されてきましたが、個人アルバムは皆無。今回のCDが初アンソロジーとなります。 コロムビアの「春じゃもの」「紅の帯」、キングの「千夜子の唄」や太陽レコードの「銀座志ぐれ」などは大ヒットとはいえないもののロングセラーとなったレコードで、戦前流行歌ではおなじみ歌手だったのに丸山和歌子単体では注目されることがなく、マイナー歌手扱いをされてきました。 なぜそこまで埋もれていたか? 実は丸山和歌子は1937(昭和12)年を機にレコード界を引退しています。その後はもっぱらステージで活躍しました。戦中には前線や工場での慰問活動を行ないました。レコード歌手としての存在感が強かったので、レコード新譜が出なくなって広報などバックアップがなくなると、劇場のある都市部以外では急送に忘れられていったものと考えられます。 それから1945(昭和20)年に40歳になるやならぬやで死去したことも、埋没の理由として挙げられます。死因は、戦後に「ステージで倒れた」「心臓病の発作」などという報道もありましたが、ご遺族の発信によれば「空襲による」ということです。 歌手として円熟期を迎えたとたんにレコード録音がストップし、戦後に再発売されることもなかったので歌謡史でも扱いが軽くなってしまった。 加えて、コロムビア、ボリドール、キング(キンポリ)、テイチクといったメジャーレーベルに大ヒットがなく、時を経るにつれて彼女の唄をなつかしいと感じるファンも減っていった。 1960年代、70年代のなつメロブームには当然不在だったわけで、再評価がいちじるしく遅れた二村定一と同じような事情が丸山和歌子の場合もはたらいたと考えてよいでしょう。 丸山和歌子の魅力 このCDでは、彼女がもっとも本領を発揮したと考えられるニットーレコード、太陽レコードをはじめとして、マイナーレーベルの録音を中心に編みました。丸山和歌子の魅力を余すところなく捉えたラインナップとなっております。 コロムビアなどメジャーレーベルにも大量の録音を行なっていますが、丸山和歌子の持っていた個性を活かせたのはどういうわけかマイナーレーベルでした。特にニットーでは江口夜詩が彼女の声の特性を活かしたダンス小唄や流行歌を多作し、1933〜34年のラインナップは丸山和歌子の面目躍如といった趣があります。 丸山和歌子は実演では浅草を中心に歌い、デビューからほどなくファンを獲得して大向うから「ワカちゃーん」のコールがかかりました。そのころの新聞記事の見出しに「浅草(エンコ)の人気者(ジャズシンガー)」と掲げられ、彼女がその歌唱で着実に認められた様子が窺えます。流行に投じてジャズソングやセミクラシックの歌曲、ヒット曲の替唄などを歌っていましたが、レコードはそんな彼女にとって新たな世界でした。 関種子、矢追婦美子、藤山一郎、徳山諭▲潺后Ε灰蹈爛咼△覆媛山擲惺蚕仗箸領�垈亮蠅�譽魁璽紐Δ凌慶��箸覆辰討い薪��任癲�飮穫族了劼曚氷皺擦離愁廛薀里狼�C任靴拭�]紊マhihiA、下はlowCまで3オクターブをカバーする広い声域を持った歌手はオペラ歌手など声楽家ではともかく流行歌では珍しく、その声域の広さを楽曲に合わせて使い分けられるのが彼女の強みでした。 それから鼻にかかった愛嬌のある甘い声も彼女の大きな武器で、これは舞台での経験から修得したものでしょう。コロムビアやポリドール、キング(キンポリ)は彼女を抒情歌、映画主題歌、新民謡に多用しましたが、もったいないことにやや安全パイに走りすぎた感があります。流行歌に関しては、時代の流行もありますがプレクトラム楽器の伴奏による穏やかな楽曲が多く、丸山和歌子の実力を抜群に活かしたテイクは乏しい。レコード会社で丸山和歌子の個人全集が作られなかったのは、・似たりよったりの楽曲ばかりになってしまうこと、・新民謡がやたらに多いこと、という関係もあるでしょう。結局はレーベルが彼女のパーソナリティーを使い切れなかったのだと筆者は考えます。 マイナーレーベルの丸山和歌子 1931(昭和6)年12月からニットーに現われた丸山和歌子は、そこで才能を開花させます。 残響の豊かなスタジオでカーボンマイクに捉えられた丸山和歌子の声は無限かと思える伸び感があり、メジャー級の技量を持つN.O楽団(日東管絃樂團)の音響に負けない声量で歌いまくっています。カーボンマイクの特質なのか彼女の歌唱の高い方の声が脳天に突き刺さりそうな勢いです。ノリの良さがメジャーレーベルとは違う。楽曲もコロムビアやキングの生ぬるい(失礼)メロディーとは異なって、彼女の可能性を探るように四方八方に発想の飛んだ意欲作が次々に発表されました。その主たる作り手が江口夜詩、千振勘二です。 このCDには二村定一との共唱を2面収録しました。丸山和歌子と二村定一の共唱はコロムビアとキングにもあり、当時はおなじみコンビのような扱いであったようですが、ニットーのテイクがもっとものびのびしています。 「又逢ふ日まで」は丸山和歌子の張り詰めた甘い声が受けて、スタートしたばかりのオーゴンのロングセラーとなりました。楽曲のメロディー、アレンジも新味に富んでいます。太陽レコードは丸山和歌子をアーバンな歌手と位置づけており、「銀座志ぐれ」が都会人の感傷にすっぽりと嵌まるスマッシュヒットとなったほか、「街の天使」「闇の花」のようなアンダーグラウンドな世界の女性という新しい性格も彼女に与えました。 つんざくような高音を連発した丸山和歌子は、昭和10年前後からA5級のソプラノをセーブするようになります。タイミング的にはニットーとタイヘイが合併して大日本蓄音器株式会社になる頃=同社がウエスタン録音システムをリースして神田の九段下デパート3階のスタジオでレコードティングをはじめる時期です。 そもそも彼女が目鼻に突き抜けるような高音歌唱をしていたのはニットーやニッポン系などマイナーレーベルで、コロムビアやポリドールでは高音をなるだけ控えていました。コンデンサーマイクの特質を踏まえてそうしたのか、レーベルとの相性でそうなったのかはわかりません(おそらく前者)。ウエスタン録音システムになったニットー・タイヘイで丸山和歌子はやたらにフェロモンを漂わせるようになりました。この変化はとても興味深い。 女ごころのシンガー その他、テイクのひとつひとつについてはブックレットをご参照いただきたい。 最後にひとつ述べると、丸山和歌子という歌手は徹頭徹尾、女ごころを歌うシンガーでありました。これはニットーの諸テイクを聴いていて湧泉と心に浮かんだ言葉です。媚態、切ない、悲しい、諦めきった、あるいは割り切れない女ごころを歌わせて、彼女にまさる歌手はいないでしょう。CDの最後に収録した「てれちゃうわ」はいわゆる「ねェ小唄」で、実質的に発禁となったレコードです。したたるようなお色気を湛えた歌唱で、その度が過ぎて取り締まりに遭いました。女ごころの表現の極地が、「てれちゃうわ」です。 3オクターブの声域で七色の歌声を聴かせた丸山和歌子。このCDによって、丸山和歌子の再評価がなされること、そして新しいファンが増えることを願っています。