洋楽のささやかなコレクションに、いつの間にかミュゼットのいいレコードが溜まっていたので並べてみる。まずアンリ・モンボアッセ。 仏Odeonの1932年カタログには、マルソーやエミール・ヴァシェーと共に多くのアンリ・モンボアッセが挙げられている。彼のレコードは日本ではパーロホン(のちにコロムビア)からリリースされた。
パーロホン初出の「ドン・ホセ Don Jose」はのちにコロムビアでもプレスされ、コロムビア盤の方で大ヒットした。日本では小泉幸雄のアコーディオン独奏、明大マンドリン倶楽部、豊吉の三味線など様々にレコード化され、今日もマンドリンオーケストラやミュゼットのレパートリーとして定着している。
フランス映画は昭和初期、名作を多発して洋画界の一角を占める雄であった。その主題歌も「巴里の屋根の下」「巴里祭」をはじめとして、日本ではたいへんポピュラーだった。
ペグリ兄弟の「モン・パパ C’est pour mon Papa」は1931(昭和6)年11月臨時発売。 エミール・ヴァシェーの「うっちゃっとけよブブール T’en fais pas Bouboule」は1932年6月新譜。いずれもジョルジュ・ミルトンの歌う主題歌がコロムビアで発売されたのとほぼ同時に日本パーロホンがリリースしている。これら仏映画主題歌のミュゼット盤も、日本でのアコーディオン熱をより高めた。
このエミール・ヴァシェーのフランスでの人気はすばらしく、仏Odeonの1932年(6月まで)のカタログには83枚(166面)も掲載されている。これは他のプレイヤーを圧する数量で、コロムビアのモーリス・アレクサンダー管弦楽団、パテのフレッド・ガルドーニと鼎立している。
この仏オデオンカタログから1931〜32(昭和6〜7)年に日本パーロホンがプレスした「レコンシリエーション Reconciliation」と「愉快な兄弟 Merry Boys」、コロムビアが1938(昭和13)年に発売した「プレシピート Precipito」。これらは元々は1926年〜1930年の録音なので、日本ではやや遅れて紹介されたわけだ。
エミール・ヴァシェはいかにもミュゼットらしい洒脱な楽曲はもちろんだが、「ドリゴのセレナーデ」のようなセミクラシックや、「バイ・バイ・ブラック・バード」のようなティン・パン・アレイの楽曲も演奏した。この曲のこんなに洒脱な演奏はほかに無い。これは1926年録音で、日本では1932(昭和7)年7月新譜。
20年以上前のCMに使われていた音楽に、たまたまSP盤で遭遇した。それがルビー・ゴールドスタイン管絃楽団の「アンコールの宮殿にて De picpus au Plais D’Angkor」(1930年録音)で、日本では1933(昭和8)年11月新譜。この楽団は無名だが、曲のほうはいまでもミュゼットのレパートリーに残っているようで、比較的最近の録音がyoutubeにある。
これをカバーしたのが長内端と日本ビクター軽音楽団で、1942(昭和17)年4月新譜でリリースされている。日本が進駐していた仏印がテーマということで、時機に投じた企画だったのだろう。これは実によくできたカバーで、ゴールドスタイン楽団とほぼ遜色ない演奏水準とエスプリが感じられる。ちなみにいったい何のCMだったのかは失念してしまった。おしゃれな軽自動車だったような気もする。
僕のミュゼットへの興味はこの辺までで、戦前に日本でプレスされたテイクに限られている。
ミュゼットの黄金時代を日本はほぼリアルタイムで享受していたのだが、ミュゼット音楽の魅力について触れられた文献は乏しい。大雑把に「アコーディオン音楽」として纏められていたに過ぎない。戦前の日本でそのエスプリがどの程度理解されていただろう? 日本プレスによるミュゼット音楽の遺産は、いま、現代になって真価を発揮するのである。
1940年代以降のミュゼットにはあまり興味はなく、たまに耳にすることもあるが、よくよく見たら戦前のナンバーのカバーだったりする。たとえば、大阪に住んでいたとき常連だった「赤白 Rouge et blanche」によく流れていたBGM”Les Triolets”(三つ子)は上にも記したエミール・ヴァシェーとペグリの共作によるポルカで、今でもこの音楽を聴くとついワインを欲してしまう。それから、CMで脳裡にこびりついている「アンコールの宮殿にて」だ。いずれも新しい演奏で聴いていたものが実はカバーであった。
こうした個人的な経験を通して音楽をたどるとSP盤にたどり着くことは、実はよくあることである。1980年代末か1990年代初頭だったと思うが、古いミュゼットの雑なアンソロジーが何種類もCD化されてWAVEやタワレコに群れをなしていた。たしかシャンソンの歌手別のアンソロジーもあった筈だ。その当時はSP期の音源ということで興味はあったものの、手を伸ばすところまではいかなかった。30年の間にいつの間にかその方面のレコードをコレクトしていたのは、気持ちの何処かでCD群を買い逃したことが引っかかっていたのであろう。