ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

久野久のレコード

今年手にしたレコードで最も嬉しかったのは久野久(久子)のフジサン盤であった。  久野久(1886-1924)は明治期のピアニストではもっとも人気を博した存在である。15歳で東京音楽学校予科に入学し、その後本科器楽部に進んで幸田延やヘルマン・ハイドリヒ、ルドルフ・ディトリヒらの指導を受けた。当時の生徒のなかでは抜きん出た才能を示し、激情的な演奏でファンを獲得した。  ただし、その人気の幾らかは「鍵盤に叩きつける指先から鮮血が散る」「曲のクライマックスで髪に挿した簪が飛び、黒髪を振り乱して演奏しまくる」といった、官能的なシーンに由来するものであったと伝えられている。明治末期から大正期にかけての女義太夫や浅草オペラに寄せられた熱狂と本質的には変わらず、演奏に彼女が反映した解釈や音楽性を云々するほどにはまだ聴衆が育っていなかった。  助教授を経て1908年(明治41)に母校の教授に昇進。ベートーヴェンソナタやリストなどを得意とし、同年生まれのピアニスト澤田柳吉(1886-1936)と人気を二部した。ただし澤田が官立学校出ながら好んで大衆的な音楽啓蒙活動に資したのに対し、久野は母校の教授であったことがその後の二人の道を分けることとなる。  1923年(大正12)4月、久野は文部省海外研究員としてヨーロッパに派遣された。ベルリンを経て翌24年ウィーンに留学し、ことにウィーン音楽院ピアノ科でエミール・フォン・ザウアー Emil von Sauer(1862-1942)に師事するものの、彼我の音楽的水準の格差に絶望して身を投げた末路はつとに有名である。神経衰弱が昂じての悲劇と言われるが、幼少時の事故で歩行が不自由であったり、助教授時代の1914年(大正3)に自動車事故で頭部に損傷を受けたりと、傷病に悩まされながら音楽に邁進した生涯でもあった。  久野は1920年代初めの人気絶頂期、東京蓄音器株式会社(※註)にたった1曲4面の録音を遺した。録音データの詳細は現存しないが1923年4月に二度と還らぬ渡欧に出発しているから、それ以前の録音ということになる。さらに、音楽評論家の野村あらえびすは戦前、「このレコードの出来栄えに満足しなかった久野は自らレコード会社に赴いて原盤破棄を申し入れた」という伝聞を著述しているから、やや余裕をもって1922〜23年の録音とみるのが妥当であろう。  このような行きがかりがあるため、久野のレコードは、彼女がウィーンで自殺を遂げた後の1926年(大正15)2月、追悼レコードという形でリリースされた。また久野の歿後2年近くを経たこの時期の発売には、1927年がベートーヴェン没後百年で「ベートーヴェン百年祭」が華々しく行なわれるであろうことを見越した商策もあったことと思われる。  2枚組のベートーヴェンピアノソナタ第14番 嬰ハ短調 Op.27-2 "月光"」は、ロームミュージックファンデーション SPレコード復刻CD集 第4集に収録されているので現在では比較的容易に聴くことができる。伝説のヴェールに包まれてきた久野久その人の演奏と言うにはあまりにも断片的な録音であるが、苦悩や万難を排して力強い演奏を行なっていた彼女の気質はよく伝わる。それは特に第3楽章に顕著だが、前半の第1、第2楽章でも確かな音楽性と精神的グラウンドを充分に感じ取ることができる。同時期に同曲の録音を行なった澤田柳吉との演奏上の比較も興味深い試みであろう。  ともあれ、このセットが日本の最も初期のピアニストの重要な録音であることは余言を俟たない。 ※註 東京蓄は1913年(大正2)創立のレーベルで、商標から富士山印と呼ばれていた。歌舞伎などの演劇、浪曲や落語などの大衆演芸のほか洋楽のカタログも持ち、ピアノやマンドリン、ヴァイオリンなど器楽独奏、歌曲や浅草オペラのアリアなどの独唱を比較的早くからレコード化したレーベルである。1925年、東京蓄は業界最大手の日本蓄音器商会(ニッポノホン)に吸収合併され、富士山印は「合同蓄音器商会」(フジサン、ヒコーキ、ライオンから成る)の一レーベルとなった。したがって久野のレコードは東京蓄時代に録音され、合同蓄となってから発売されたことになる。