ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

またまたヴォルフシュタール

 ヨーゼフ・ヴォルフシュタール Josef Wolfsthal(1899-1931)は、しばしば此処で取り上げている、筆者の愛惜措く能わざる提琴家である。近年、再評価のきざしが静かにながら見られるが、コンプリートな覆刻は無く、CDの現役盤にも良い覆刻が無いのが残念だ。  ヴォルフシュタールはちょうどドイツグラモフォン社Deutsche Grammophonがシンフォニーやコンチェルトなど大曲のセットをリリースしはじめた時期にベルリンで頭角を現わし、アコースティック録音の最末期である1925年にベートーヴェンメンデルスゾーンの協奏曲、タルティーニの「悪魔のトリル」、ベートーヴェンの「ロマンス へ長調」を録音した。ベートーヴェンの協奏曲は電気録音となった1928年に再録音され、そちらはクライスラー=レオ・ブレッヒ指揮・ベルリン国立歌劇場管弦楽団のセットと競合して、いずれもがその存在意義を主張した。クライスラーがヴォルフシュタールの才能を認め、自分のグワルネリウスを貸与していた話は以前書いた。  アコースティック録音時代のふたつの協奏曲のうち、ベートーヴェンの協奏曲はヘルムート・ティールフェルダー Helmuth Thierfelder指揮するベルリン国立歌劇場管弦楽団(ヴォルフシュタールがコンサートマスターをつとめた管弦楽団による伴奏だが、メンデルスゾーンの方は、ヴァルデマル・リアコフスキー Wardemar.Liachowskyがピアノ伴奏をつけている。今日では物足らない伴奏と思われるかもしれないが、アコースティック録音という条件下では、却ってヴォルフシュタールの音色の奥深さ、高揚する美しさが引き立っているように思われる。  日本ポリドールは1926年(大正15)12月に東京池上の工場でドイツ・グラモフォン社の原盤をプレスし、翌年7月から「日本ポリドール」の商標でリリースしはじめる。ヴォルフシュタールのメンデルスゾーンはその創業後さっそく発売されたセットである。  1930年から31年にかけてベルリンでヴォルフシュタールに師事した貴志康一(1909-37)は、大正期、留学する以前にこのセットを聴いて刺激を受け、「メンデルスゾーンを弾けるようになること」を目標としたが、どうしても弾けず口惜しがっていたという。貴志は26年12月9日に日本を離れるので、貴志家にあったのは日本ポリドール盤ではなく、ドイツ・グラモフォン盤であったことになる。また上記のベートーヴェン、タルティーニのセットも貴志家のレコードラックには備えられており、当時からメジャーであったビクター赤盤のクライスラーハイフェッツ、エルマン等にとどまらず、さまざまなヴァイオリニストの演奏に触れていたことを示す。  貴志家の洋楽のレコードコレクションはおおむね海外盤であった。1924年(大正13)7月、「奢侈品ノ輸入税ニ関スル法律」が施行され、蓄音機とレコードは10%の奢侈税がかかるようになった。そのため輸入レコードの売れ行きは著しく伸び悩み、ビクター、コロムビア、独グラモフォンなどの外資系レコードレーベルが日本に支社を設けて国内プレス盤を安価に売る商策に出るわけだが、10%の上乗せ価格がかかる時期に欧米のレコード(しかもメンデルスゾーンの一セット4枚で20円=背広の仕立て代に近い価格)を何種類も購入していたということは、貴志家にはレコードの値上がりは深刻な問題ではなかったのだろう。  貴志康一は留学先のスイス・ジュネーヴでイザイやアドルフ・ブッシュ、ミッシャ・エルマン等のコンサートを聴いているが、この地にヴォルフシュタールも来演して、レコードではなく生のヴォルフシュタールに触れることとなる。同年、モントローに来演したときも貴志は聴きに行っている。このとき貴志は18歳、ヴォルフシュタールは28歳。その後、貴志康一はカール・フレッシュのクラスに入るが、レッスン料のあまりの高額と自身の欠点を補う目的から、師をボウイングに定評のあるヴォルフシュタールに替える。  1931年2月に師が歿したとき、貴志康一は回想記のメモに「もっとも貴いものは 彼の未来の光」という意味深い言葉を記している。  当初書こうと思っていたことから大きく外れてしまった。  ヴォルフシュタールはベルリン国立歌劇場(クロール・オパー)管弦楽団コンサートマスターであったので、当然ながら管弦楽曲のソロパートを弾く機会が多かった。したがって管絃楽曲のソロパートにもヴォルフシュタールの演奏を聴くことができるわけである。(ただしソロパートの全てをヴォルフシュタールが弾いたわけではなく、同じフレッシュ門下のイボルカ・ツィルツァー Ibolyka Zilzer やゲオルク・ニーステート Georg Kniestaedtが担当した盤と混在している。)  たとえばJ.CreightonのディスコグラフィーにはR.シュトラウスの「町人貴族 "Der Bürger als Edlmann"」(1929)と「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯 "Till Eulenspiegels lustige Streiche"」(1929)が挙げられている。ともにベルリン国立歌劇場管弦楽団R.シュトラウスが指揮している。  また、Michael H.Grayが編纂したベルリン・フィルディスコグラフィーには、サン・サーンスの「死の舞踏 "Danse Macablre"」(rec: 16th.Oct.1928)の例が見られる。こちらはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を、マーラーの年少の知友であったオスカー・フリートが指揮している。  手許に「ティル」と「死の舞踏」があるので聴き較べてみた。  この2種のソロパートは、録音されたホールの響きやマイクロフォンの調整の違いという大きな要因もあるが、正反対といってよいほどカラーの異なる演奏である。「ティル」の方は電気録音のベートーヴェン:協奏曲などでお馴染みの銀細工のような音色で、そもそも曲が曲だから軽快でフィドルめいた、「これぞヴォルフシュタール」という弾きぶりである。音楽の流れの中でたいへん際立つ、耀躍としたソロである。  対してホッホシューレ Hochschule für Musik,Berlinのホールで録音された「死の舞踏」は重々しく引きずるような演奏で、これもまあ曲が曲だから不気味さを引き立てようという意図が窺えるが、ずいぶん構えているなあという気がしないでもない。  フリート指揮の「死の舞踏」そのものは、いかにもBPOの演奏という雰囲気で、重厚、完璧このうえない。フィリップ・ゴーベルの色彩豊かな同曲とは真逆に位置する演奏であるが、ベルリン・フィルのよく混ぜたクリームのようなカラーの中でソロを取ろうと思ったら同質の響きが求められるのは仕方ないことなのだろう。この演奏は、ヴォルフシュタールとしてはかなり異質であった。 因みにベルリン国立歌劇場管弦楽団を指揮して大量の録音を残したレオ・ブレッヒ Leo Blechは、指揮中に唸り声をあげてやりたい放題の奔放なレコードが散見されるが、ベルリン・フィルに客演指揮した録音では矢張り大人しくかしこまっているのが可笑しい。