ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

二村定一の「ドリゴのセレナーデ」

「ドリゴのセレナーデ」"Notturno d'Amor"堀内敬三訳詞Riccardo Eugenio Drigo作曲二村定一   ニッポノホン 1926年2月新譜  リチャード・ドリゴ(1846-1930)の「百万長者の道化師」"Les Millions d'Arlequin"(1900)という歌劇の挿入曲。原題は「愛の夜想曲ノクターン」といい、このメロディーのみ原作のオペラを離れてたいへん流行した。日本では共益商社版の楽譜(1924)やシンフォニー楽譜のマンドリン編曲版(1926)堀内敬三の訳詞によるセノオ楽譜(1926)などで流布し、二村のレコードは、堀内敬三の名訳に依っている。彼はこの曲を得意なレパートリーとしてしばしばコンサートやラジオで歌った。  伴奏はピアノとチェロ。  二村の歌唱は神がかっている。その個性は、彼が属していた浅草オペラの歌い方でもなく、当時、市井のものであった書生節のそれでもない。持て余すほどの天性の美声をもって、たいへん勢いのある独自の語法(明瞭な発音、クライマックスのもっていき方など楽曲の解釈)で、細やかなこぶし廻しを随所に駆使して歌っている。このディスクでの彼を評するに、"Singer"(歌い手)以外のなにものでもない。独創性に富んでいて、アルゼンチンのカルロス・ガルデルに比してもあながち誤りではないだろう、民族色を色濃くにじませた個性である。  それは必ずしも時代性に規定されるものではなく、大正時代らしいロマンティシズムには溢れているが、ほかに係累のない突然変異的なものである。大正末期という爛熟と変化の過渡期に突然ぽっと咲いた花である。  残念ながら、このように二村が奔放さをみせる声楽志向のディスクは、大正末期から昭和初期にかけてほんの数面あるのみである。彼自身がいち早くマイクロフォンの使用法をマスターして、スマートな歌唱法を変えていったためだ。(それは二村定一がレコード界で比較的長く活躍する布石ともなったが)  このディスクでは、彼が昭和期に数多く歌ったジャズソングほどリズムの制限にとらわれず、自分の理想のままに工夫し歌い、飛翔している。初めて聴いたときは驚きを隠せなかった。彼の歌いぶりがあまりにも自由奔放であったからである。声の伸びは26歳の青年らしく無限に延びるかのようであり、細かいメリスマを駆使して、その声の表現力を最大限に生かしている。  それは、やや若気の至りからくる技巧過剰な面はあるが、充分にうるわしく、ロマンティックである。若い音楽家の生々しい声である。  その反面、音程がやや崩れるところもある。巷間、二村定一は音感がよいとされているが、その根拠は「楽譜が読めるから」という薄弱なもので、実際には全盛期に吹き込んだレコードでも音程を外したものが散見される。ほぼ独学で歌唱をマスターした二村の場合、むしろリズム感、間合いのセンスがすぐれていたのではないだろうか? 彼の音感は端唄や都都逸など邦楽を学んだ人のそれで、洋楽とは本質的に異質なものであると筆者は考えている。  しかし、そうした議論は脇に置いてただ無心に楽しめるのが、このディスクの良いところである。この持ちきれぬほどのロマンティシズムは、大正末期の恋する人には堪らない焦燥をもたらしたことであろう。