ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

松竹座ジャズバンド

大阪の松竹座ジャズバンドについて、もうすこし突っ込んで書きたい。

関東大震災後、東京のダンスブームは関西に移動した、と書いた。

震災前、東京にはいくつものダンス倶楽部があったが、震災のためにたった一軒を除いて壊滅してしまった。関西に避難した人々にはかつてのダンス倶楽部のメンバーも多く含まれており、関西に避難したついでに、暫時的に大阪、神戸にダンス倶楽部を移したのであった。

文豪の谷崎潤一郎などもその一人で、1924年から大阪朝日新聞に連載した(のち雑誌「女性」に連載)「痴人の愛」には、東京時代のダンス倶楽部への追想がこめられている。

それまで関西のダンスホールはレコードで伴奏をするところが多かったのだが、震災で職場を失った多くのプレイヤーも関西に異動し、ユニオン、パウリスタ、パリジャンなどのダンスホールで演奏をした。このため、大阪、神戸のダンスホールは一気に賑やかになったのであった。

震災の年、1923年(大正12)には道頓堀に松竹座が開場し、また1925年にはJOBKのラジオ放送が始まって、大阪で多くの楽士が必要となっていた。

彼らはラジオ放送や映画館の音楽伴奏だけでは食べていけないのと、ジャズへの音楽的欲求から、内職としてダンスホール、カフェーでのジャズ演奏をした。ホットな演奏との気質的なマッチもあったのだろう、大阪は日本のジャズの中心地となり、松竹座にも専属バンドが作られたのである。その渦中で求心力となり、推進力となったのが、前野港造であり、井田一郎であった。

松竹座ジャズバンドは、1925年(大正14)、

井田一郎 vn.,banjo, 山田和一 trumpet, 菊池博 pf., 山口豊三郎 drums

というコンボで発足した。

これは松竹座管絃団のピックアップメンバーであったが、同管絃団そのものが楽員の移動が激しく、したがって松竹座ジャズバンドの顔ぶれもころころと変わった。

井田自身、ジャズバンドを立ち上げたものの、間もなくダンスホールパウリスタ」のバンドリーダーとなって抜けてしまった。

竹楽劇部の楽長だった松本四郎の回想によれば、松竹座が開場した初期の管絃団はすぐれたメンバーだったが、1925年に自分が松竹楽劇部に入った頃は、「いわば程度の悪いのばかりが居残り、更にその上渡り者のガクタイを加へてて寄り合い所帯だつた事。二十名たらずの楽士の半数は甲羅に青苔のついたジンタ共だつた事」と散々な評価である。

上記のメンバー表をみる限りではジャズプレイヤーの錚々たる顔ぶれだが、東京音楽学校器楽科出身の松本にしてみれば、異質な空間だったのだろう。井田とも軋轢があったのかもしれない。

その後、先に記したように1926年(大正15)には

杉田良造 sop.sax., 西口猛 alto sax., 金澤愛作 ten.sax., 原田録郎 cornet, 山田和一郎 cornet, 岡本晴敏 tromborne, 小川功 banjo, 山口豊三郎 drums, 菊池博 pf.

という編成になった。

1927(昭和2)〜1929年(昭和4)には同バンドは、

山田和一 trumpet, 岡本竹次郎? trumpet, 胡桃正和 tenor sax., アダム・コバチ alto sax., 大野シゲユキ tromborne, 川島良雄 banjo, 菊池博 pf., 山口豊三郎 drums, 角田孝 vn.

という顔ぶれになっていた。すでに井田一郎と関西のトッププレイヤーたちが上京したのちであるが、まだ強弩の余勢とでもいったものが感じられる、実力派の組み合わせである。この編成の時代、ニットーにジャズソングやバンド演奏を多く残しているので、代表的なインストゥルメンタル録音を二つ、挙げよう。

スエズ」"Suez" Ferde Groffe作曲のダンス曲である。1929年1月新譜。

以前、「ジャズソング」の項目で取り上げたが、説明不足&誤りがあったので、改めて演奏について述べたい。

編成は、

トランペット、2サックス、トロンボーンテューバ、ピアノ、バンジョー、ドラムス 

といったところである。録音メンバーの中ではっきりしているのは、角田孝が加わっていること、角田にとってこれが初のレコーディングであったことである。

演奏は、オリエントに吹き込んだ「あこがれ」から上達して、ジャズらしいアンサンブルになっている。但し、これは録音が良くなったことも加味しないといけないだろう。

良い点としては、サックス合奏が美しく仕上がっている。トランペットはパンチが弱く、次に述べる「西瓜割」とは異なるメンバーのように感ぜられる。

なお、彼らは同時期に「青空」"My Blue Heav'n"、「アラビアの唄」"Song of the Araby"なども井上起久子の歌唱で吹き込んでいるが、どうしても二村定一&井田一郎バンドのビクター盤と較べてしまう。松竹座ジャズバンドの演奏は、どちらの曲も編成が大きい分、雑な響きになっているのが惜しい。アンサンブルもインストゥルメンタのセッションと較べると乱れがちである。

「西瓜割」は、この時代の松竹ジャズバンドの演奏が楽しめるディスクである。1929年5月新譜。

編成は2サックス、トランペット、トロンボーンバンジョー、ピアノ、ドラムス、ヴァイオリンで、メンバーは未詳。アルトサックスは、ニットーでよく聴かれる前野港造ではなさそうだ。まだ十代のコバチならなるほどと頷けるアルトサックスである。

(→その後、前野港造がソロで吹き込んだニットー録音と同定作業を行なって、このアルトの演奏上の特徴がきわめて前野に近いことを確認した。断定はできないが、この点について訂正する。)

曲は、二村定一の「君よさらば」、内海一郎の「行進曲紐育」と同曲である。

和気藹々としたアンサンブルで、2サックスの合奏、ピアノを伴奏にしてのトランペット、トロンボーン、テナーサックスのソロのあと、全合奏でジャズって終わる。のんびりとジャズを楽しんでいるレコードで、ソロそれぞれも上手いし、録音も良いし、松竹ジャズバンド最良のレコードの一つだろう。

片面の「エンゼラミア」"angela mia"は、内海一郎の歌い上げる歌唱に負けない、柄の大きい伴奏をつけている。こちらも各パートのソロが顔を出して、楽しい演奏である。

ニットーへは前野港造のバンドも録音しているが、松竹座ジャズバンドと比較すると前野バンドは小コンボで、よりホットでスピーディーなカサ・ロマ楽団風のプレイをする。松竹座ジャズバンドは9人内外の編成で、ゆったりとした雰囲気のジャズを作り上げている印象だ。ポール・ホワイトマン楽団のようなシンフォニックな味を目指したのではないだろうか?