ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

大正昭和の来日バンド�V

「フィリピンバンドが来日したわけ」

当時のアジアにおいてジャズの中心地は一大国際都市、上海だった。その上海のジャズシーンに多くのプレイヤーを送りこんでいたのが、フィリピンであった。

フィリピンはスペイン領時代にキリスト教の布教が行なわれたため、ほかのアジア諸国とくらべて比較的早く西欧音楽に触れ、受容することになった歴史がある。

その後、アメリカの植民地となってからフィリピンには舗装道路や映画、ダンス音楽が持ち込まれ、その生活も急速にアメリカンナイズされた。適応力と天性の音楽的才能を備えたフィリピン人は、アメリカでの流行を追う形で「植民地ジャズ」の一時代を花開かせたのである。

彼らジャズプレイヤーはフィリピンから多くは上海に流れ、外国人租界で各国混合のジャズバンドに混じって演奏していた。さらに上海から日本のダンスホールに流れるプレイヤーもおり、大正期から戦前にかけて、フィリピン人楽士は日本人にとってなじみの深い存在であった。

たとえば関西においては大正末期、神戸オリエンタルホテルがアルカンタラをリーダーとするフィリッピン・ジャズバンドを擁し、ホテルが経営の危機を迎えると、バンドは大阪道頓堀のダンスホールパウリスタに出演した。1927年12月、大阪府内にダンスホール閉鎖の法令が出されたあと(重要な事件なので後日触れることになるだろう)は、おなじ道頓堀のカフェー、赤玉食堂がアルカンタラ一行を迎え入れた。そこでアンカンタラ一派とピアニストのジョニー一派(のち戎橋のユニオンに出演)にバンドが分裂し、ジョニー一派は戎橋のカフェー、ユニオンに出演。フィリピン楽士は華々しく妍を競ったのであった。

当時の日本のバンドマンはジャズの演奏を、楽譜とレコードを手本にするか、または大洋航路船に乗り組んでアメリカやヨーロッパの空気を吸ってきた乗り組みバンドを通して学ぶしか方法がなかった。

そんなとき、彼らの身近にいるフィリピン人プレイヤーは良き教師であり、フィリピン人プレイヤーがうようよしている上海は、もっとも手近なジャズの本場であった。上海帰りのジャズメンは箔がついたし、上海からフィリピン系ジャズバンドを連れてこれば安価にアトラクションの目玉とすることができた。しかもフィリピン系バンドは上手かった。充分、集客力があったのである。

松竹が上海からカールトン・ジャズバンドを招聘した背景には、そんなジャズへの憧れがあった。

「オリジナル・ミンストレルズ」

昭和に入って間もない1928年(昭和3)、ふたたび上海から本場もののジャズバンドが招かれた。

ディキシー・ミンストレルズという黒人・フィリピン人混合のグループで、

ボッブ・ヒル trumpet, ヴィディ・コンデ clarinet, プリン・ロザリオ tromborne, シーク・ファーマー drums, アーチ・グラント pf., ジョニー・ハーボトル banjo

という顔ぶれであつた。このうち、コンデとロザリオは上海で合流したフィリピン人プレイヤーである。瀬川昌久氏の記述によれば、バンジョーのジョニー・ハーボトルは、初代松旭斎天勝がアメリカとハワイから連れて帰国したバンドの一員ということなので、これは急遽かき集められたバンドだったのかもしれない。

彼らは同年3月24日から東京で開催された上野博覧会のショーのために招かれ、上野公園の舞台でショーとジャズ演奏を披露した。そして、半年ちかくの滞日中に、コロムビアに12面の録音を残した。

赤い唇 "Red Lips Kiss my Blue Aways", 

25467a 10.Dec.1928

ラモナ "Ramona"           

25467b 19.Dec.1928

月光価千金 "Get out and Get under the Moon",

25484a 19.Dec.1928

都はなれて "Ten little miles from the Town",

25484b 19.Dec.1928  

ジャズで暮そう "Jazzy Holiday" ,

25566b 19.Dec.1928     

バーバラ Barbara

unpub. 10.Dec.1928 

メロディーは目に残る The Song is Ended,

unpub. 10.Dec.1928

昨日はバラの花 Rose of Yesterday,

unpub. 10.Dec.1928

青きダニューブの踊り The Dance of the Blue Danube,

unpub. 10.Dec.1928  

イリザーの目 When Elizza rolls her eyes,

unpub. 10.Dec.1928

Blue Shadow, unpub. 19.Dec.1928

In my Dream, unpub. 19.Dec.1928

録音群のうち、コロムビアから市販されたのは、「赤い唇」「ラモナ」「月光価千金」「都はなれて」「ジャズで暮らそう」の5曲のみである。

これらの録音は、コロムビアの原簿には「デキシー・ミンストレル・オーケストラ」の名義で記録されているということだが、レコードのラベル上では「コロムビアジャズバンド」となっている。

録音の一部は、かつて瀬川昌久氏監修のコロムビアのLPに収録されており、今日ではCDに板起こしされているので、聴くことができる。

プレイヤーの面子にサックスがいないが、アルトの名手であったヴィディ・コンデがクラリネットと兼任で活躍している。彼らは器用で、一人でいくつもの楽器を掛け持ちしていたようだ。

レコードで聴く彼らの演奏は、アンサンブルはとれているとは言えないが、いかにも本物のディキシーランドジャズらしいフィーリングに富んだピアノ、吹き枯らしたような逞しいペット、ヴィディ・コンデのクラリネットやアルトサックスの曲弾きが楽しい。わくわくするような憧れを掻き立てる、楽しいひとときである。

「赤い唇」は特にホットな一曲で、冒頭から2トランペットで飛ばし、間奏にはコンデのクラリネットのブレイクが聴かれる。ピアノソロも存分にジャズっている。これに較べればカールトンバンドはまだまだ生硬で、沸き立つようなリズムに乏しい。

天野喜久代の歌唱は、彼女らしいいつものなよやかさで一見たよりなさげだが、楚々としていて魅力に富んでいる。歌唱の箇所は伴奏がジャン・カディスのピアノだけになるのも洒落ている。

この時代はまだ日本人が本格的なジャズヴォーカルをこなすまでには至ってていないが、それでも二村定一と共に歌った「アラビヤの唄」「あほ空」などと比較すると、彼女がバンドに乗ってジャジーな歌唱をしていることが分かるだろう。

いずれの曲も後半、女声斉唱になるのも楽しい。

欲をいえば有名な「月光価千金」など、もっと飛ばしてほしい曲だが、レコードと同時期に発売された楽譜をみると、やはりこれでよかったのだと思わせる。それは上手下手ではなく、この時代のジャズソングの空気、色なのだ。

さて、コロムビアから発売された5曲以外の原盤はそのままお蔵入りになったというのが従来の通説だが、実は日本蓄音器商会のサブレーベル、オリエントからこっそりと発売されていた。

私の手元にあるのは

バアバラ Barbara           Orient 4696a

歌が終わつた時  The Song is Ended Orient 4696b

の1枚で、演奏団体も「オリエント・ジャズバンド」と記されているので、ちょっと見た目には判らない。歌手名も記載されていない。

「バーバラ」はスリリングなアップテンポの曲で、2トランペット、ピアノ、トロンボーン、ドラムスが快調に曲を運ぶ。Billy Rose作詩、Abner Silver作曲の、1927年のチューンである。そういえばミンストレルズの録音群には1927年製のノヴェルティーソングが多い。発表から約一年後に日本でレコード化されているわけである。

天野喜久代は、このレコードでもピアノ、サックス、ドラムスに乗って楽しげに歌っている。歌唱のあとのクラリネットとサックスの合奏が聴きもの。後半は例によって女声コーラスになる。

「歌が終わつた時」はアーヴィング・バーリン作詞作曲の佳曲で、これも1927年の作品である。平易なワルツで、こういう和やかな歌になると、天野喜久代のほっこりした良さが引き出される。よく響くニューオルリンズ風のピアノが歌唱を助けている。

歌唱のあと、トランペット、サックスのソロがあるが、大人しいしみじみとした曲なのでプレイヤーも歌うようである。

彼ら、オリジナル・ミンストレルズは、カールトン・ジャズバンドよりさらに本場に近いジャズを日本にもたらし、井田一郎バンドのメンバーをはじめ、多くのジャズメンに精神的影響を与えた。そうして、日本に残って活動したヴィディ・コンデがまさにジャズの教師として、日本人プレイヤーのフィーリングを磨いていったのである。