ニッポン・スヰングタイム

著作やCD制作、イベントの活動を告知します。戦前・戦中ジャズをメインとして、日本の洋楽史について綴ります。

戦前のミュゼット音楽②

ミュゼット音楽からはたちまち離れるが、「アンコールの宮殿にて」に触れたのでアコーディオン奏者の長内端を紹介せねばなるまい。
 
長内端(おさない・ただし 1910〜77)は帝大工学部という音楽家では異色の出身だ。しかし、その経歴が戦後にドンカマを生むことになる。帝大工学部に在学中から長内はオルケスタ・シンフォニカ・タケヰでマンドローネを演奏していた。その後アコーディオンに転じて、JOAKの新人演奏家募集などで頭角を現した。1938年6月に東京スタンダード・アコーディオン・クラブを結成し、理事として選曲、編曲、指揮を司った。
長内は工学部出身らしく「特殊電気アコーディオン」なる楽器を操った。独奏会でステージ映えするよう電気的な増幅装置を備えたアコーディオンなのだろうが、レコード録音にもこれを用いたのかは分かっていない。
 
録音は1937年からビクターにある。最初のレコードはビクター廉価レーベルのスター(1937〜38)で、「碧空」「マリネラ」(1937年9月)という組み合わせだった。2枚目からは、スターを引き継いだ廉価レーベルのZシリーズ(青盤)でリリースされている。スタンダードな価格帯である黒盤(1円65銭)の下位にあるのが青盤(1円10銭)である。
これは長内の演奏が軽んじられていたというわけではない。1910年代からアメリカ・ビクターでは木琴、口笛、アコーディオンといった名人芸が廉価な青ラベルに区分されていた。その流れを日本ビクターも受けているのであるが、これは高踏的なクラシカルミュージックと大衆音楽との格差というよりもアコーディオンの大衆的な人気から廉価盤に組み込まれたのであろう。
 
1939年1月 「トルコ行進曲」(モーツァルト) / 「軍隊行進曲」(シューベルト) Z-100
 
1939年4月 「小牧神の行進」(ピエルネ) / 「玩具の兵隊の観兵式」(イエッセル) Z-138
 
1939年6月 「野崎村」 / 「新内流し」  Z-166
 
1939年8月 「太平洋行進曲」 / 「軍艦行進曲」 Z-200 (この一枚は東京スタンダード・アコーディオン・クラブの合奏である)
 
1939年9月 「ハンガリアン・ラプソディー 第二番」 Z-216
 
以上が青盤でリリースされた録音である。編曲は全て長内端。
 
 
 

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これはピエルネの「小牧神の入場」(1939年4月)である。
 
ガブリエル・ピエルネはフランスの現代作曲家で、戦前は作曲家・指揮者として知られていた。「小牧神の入場」は自作自演を含むレコードが数種出ていたほか、日本では近衛秀麿(指揮)新交響楽団のレパートリーとしても親しまれていた。アコーディオンへの編曲は珍しくて、フランス現代楽(といっても親しみやすい作品だが)を選曲したのは、あるいは早くからミュゼット志向が長内の中にあったのかな? と思わせる。
 
 
それからぜひ再評価したいのがこの名演だ。「ハンガリアン・ラプソディー 第二番」(1939年9月)。
 

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原曲はピアノの技巧曲として知られている。それを技巧をスポイルすることなく10吋2面いっぱいにアレンジし弾ききっている。音楽性豊かで且つ超絶技巧の名演だ。1円10銭の青盤なのが勿体なく感じられる。
 
アコーディオニストは他にもいるが、レコード両面にわたって超絶技巧を散りばめた本格的な演奏は、長内ただ一人である。
他社を見回しても、高橋孝太郎(コロムビア系)はソロ録音よりもアンサンブル、伴奏楽団に参加することが多く、また編曲に力を入れていた。その仕事の旺盛さはアコーディオン奏者随一で、月に二、三千円稼いでいたといわれる。ちょっと意外かもしれないが、テイチクの藤山一郎「東京ラプソディ」も高橋孝太郎がアレンジしている。
小泉幸雄(テイチク)は古賀政男の楽曲を中心に、ジャズソングや流行歌の主情的な演奏が多く見受けられる。この人については、長内をまとめたのちに少し紹介するつもりである。
杉井幸一(キング)はバンドネオン奏者だが、レコードではなぜかアコーディオン独奏を録音している(キング・ノベルティー・オーケストラのサロン音楽に二、三バンドネオンで加わった録音がある)。アレンジの奇抜さアイデア豊富さに比するとスタンダードな演奏だが、大曲向きの器を感じさせる奏風である。ソロをラテン系のナンバー4曲(ポエマ、スペインの姫君、夢のタンゴ、愉快なルンバ)しか残していないのは残念だ。
 
 
1940年から長内のレコードはJシリーズの標準価格帯に編入された。これは軽音楽人気の高まりと呼応するものだろう。
ジャズは相変わらずレコードでも実演でも高い人気を持っていた。というより日本人の生活に抜き難く浸透していたのだが、時勢は戦時体制であり、健全な「軽音楽」が主としてラジオ放送で大きくフィーチャーされはじめていた。ジャズもやがて軽音楽に包含されるようになる。
ディスコグラフィーの続きを挙げよう。
 
1940年1月 
「長崎物語」「馬と兵隊」 J-54675
「雨の上海」「熱海ブルース」J-54676
「青いチョゴリ」「月の浜辺で」 J-54677
 
1940年6月 軽音楽アルバム 第一輯
「黒い眼」「山の人気者」 A4801
「ラ・クムパルシータ」「ルムバ・タムバ」 A4802
「ドナウ河の漣」「美しく碧きドナウ」 A4803
 
1941年12月 軽音楽アルバム 第五輯
「日本ファンタジー」「ウインナの想ひ出」 A4829
 
1942年4月  軽音楽アルバム 第八輯
「アンコールの宮殿にて」「可愛いトンキン娘」(仏印の印象) A4838
 
1942年6月 軽音楽アルバム 第十輯
「楽しい仲間」「人形の兵隊」 A4844
「希望の星座」「空の護り(空襲なんぞ恐るべき)」 A4845
ボレロ」「ウィルヘルム・テル」 A4846
 
1942年11月
「枢軸の調べ」 A4870
 
1942年12月 軽音楽アルバム
「木曽節」「鴨緑江節」 A4872
「宵待草」「波浮の港」 A4873
「秋の色種」「小鍛冶」 A4874
 
1943年1月
「千代の唄」「東京むすめ」 A4880
 
1943年6月
「ドリゴの小夜曲」 A4889
 
1943年10月 手風琴アルバム 第四輯
「詩人と農夫」 A4912
「天国と地獄」 A4913
軽騎兵」 A4914
 
1943年12月
「美はしき西班牙(エスパーナ)」 A4918
「学徒の調べ(エストゥディアンティーナ)」 A4919
「金と銀」 A4920
 
1944年1月
「若き日の歓び」「アムール小唄」 A4923
 
このほかキングに若干の録音がある。
愛国行進曲」 21111
「軍歌集」 67072
「懐かしの名曲集」 と195
 
長内端の真骨頂は、これら1940年代のレコーディングに窺われる。
 

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長内のレパートリーは、先に少し挙げたようにclassical musicを含んでいる。これはラヴェルの「ボレロ」(1942年6月)。
1940年代にはまだ現代音楽の範疇にあった「ボレロ」は、アメリカのハーモニカ奏者ラリー・アドラーのレコードが評判よく、このレコードの存在が長内にアコ編曲の示唆を与えたのではないかと考えられる。
 

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戦時中も愛唱歌や流行歌、軍歌などアコーディオン独奏でレコード化する素材は多々あり実際レコード化していたが、1943年10月にはスッペの「詩人と農夫」、オッフェンバッハの「天国と地獄」、スッペの「軽騎兵」という3曲のオペレッタ序曲集をアルバムで発表する壮挙に出ている。ポピュラーな選曲だが、そこそこの長さの管弦楽曲アコーディオンの独奏で10吋両面にわたって演奏するとなると話はちがう。こんなことをするのは長内くらいで、海外にもあまり録音例がない。
なお、「ボレロ」含めすべてフランスの作曲なのも、彼がミュゼットを志向していた現われではないだろうか。

戦前のミュゼット音楽①

洋楽のささやかなコレクションに、いつの間にかミュゼットのいいレコードが溜まっていたので並べてみる。まずアンリ・モンボアッセ。 仏Odeonの1932年カタログには、マルソーやエミール・ヴァシェーと共に多くのアンリ・モンボアッセが挙げられている。彼のレコードは日本ではパーロホン(のちにコロムビア)からリリースされた。

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パーロホン初出の「ドン・ホセ Don Jose」はのちにコロムビアでもプレスされ、コロムビア盤の方で大ヒットした。日本では小泉幸雄のアコーディオン独奏、明大マンドリン倶楽部、豊吉の三味線など様々にレコード化され、今日もマンドリンオーケストラやミュゼットのレパートリーとして定着している。

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フランス映画は昭和初期、名作を多発して洋画界の一角を占める雄であった。その主題歌も「巴里の屋根の下」「巴里祭」をはじめとして、日本ではたいへんポピュラーだった。 
 

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ペグリ兄弟の「モン・パパ C’est pour mon Papa」は1931(昭和6)年11月臨時発売。 エミール・ヴァシェーの「うっちゃっとけよブブール T’en fais pas Bouboule」は1932年6月新譜。いずれもジョルジュ・ミルトンの歌う主題歌がコロムビアで発売されたのとほぼ同時に日本パーロホンがリリースしている。これら仏映画主題歌のミュゼット盤も、日本でのアコーディオン熱をより高めた。
 
このエミール・ヴァシェーのフランスでの人気はすばらしく、仏Odeonの1932年(6月まで)のカタログには83枚(166面)も掲載されている。これは他のプレイヤーを圧する数量で、コロムビアのモーリス・アレクサンダー管弦楽団、パテのフレッド・ガルドーニと鼎立している。

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仏ODEONの1932年度版 総カタログ

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この仏オデオンカタログから1931〜32(昭和6〜7)年に日本パーロホンがプレスした「レコンシリエーション Reconciliation」と「愉快な兄弟 Merry Boys」、コロムビアが1938(昭和13)年に発売した「プレシピート Precipito」。これらは元々は1926年〜1930年の録音なので、日本ではやや遅れて紹介されたわけだ。

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エミール・ヴァシェはいかにもミュゼットらしい洒脱な楽曲はもちろんだが、「ドリゴのセレナーデ」のようなセミクラシックや、「バイ・バイ・ブラック・バード」のようなティン・パン・アレイの楽曲も演奏した。この曲のこんなに洒脱な演奏はほかに無い。これは1926年録音で、日本では1932(昭和7)年7月新譜。

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エミール・ヴァシェー「バイ・バイ・ブラックバード
 
20年以上前のCMに使われていた音楽に、たまたまSP盤で遭遇した。それがルビー・ゴールドスタイン管絃楽団の「アンコールの宮殿にて De picpus au Plais D’Angkor」(1930年録音)で、日本では1933(昭和8)年11月新譜。この楽団は無名だが、曲のほうはいまでもミュゼットのレパートリーに残っているようで、比較的最近の録音がyoutubeにある。

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ルビー・ゴールドスタイン管絃楽団「アンコールの宮殿にて」

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解説カード
これをカバーしたのが長内端と日本ビクター軽音楽団で、1942(昭和17)年4月新譜でリリースされている。日本が進駐していた仏印がテーマということで、時機に投じた企画だったのだろう。これは実によくできたカバーで、ゴールドスタイン楽団とほぼ遜色ない演奏水準とエスプリが感じられる。ちなみにいったい何のCMだったのかは失念してしまった。おしゃれな軽自動車だったような気もする。

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長内 端の「アンコールの宮殿」
 
僕のミュゼットへの興味はこの辺までで、戦前に日本でプレスされたテイクに限られている。
ミュゼットの黄金時代を日本はほぼリアルタイムで享受していたのだが、ミュゼット音楽の魅力について触れられた文献は乏しい。大雑把に「アコーディオン音楽」として纏められていたに過ぎない。戦前の日本でそのエスプリがどの程度理解されていただろう? 日本プレスによるミュゼット音楽の遺産は、いま、現代になって真価を発揮するのである。
1940年代以降のミュゼットにはあまり興味はなく、たまに耳にすることもあるが、よくよく見たら戦前のナンバーのカバーだったりする。たとえば、大阪に住んでいたとき常連だった「赤白 Rouge et blanche」によく流れていたBGM”Les Triolets”(三つ子)は上にも記したエミール・ヴァシェーとペグリの共作によるポルカで、今でもこの音楽を聴くとついワインを欲してしまう。それから、CMで脳裡にこびりついている「アンコールの宮殿にて」だ。いずれも新しい演奏で聴いていたものが実はカバーであった。
こうした個人的な経験を通して音楽をたどるとSP盤にたどり着くことは、実はよくあることである。1980年代末か1990年代初頭だったと思うが、古いミュゼットの雑なアンソロジーが何種類もCD化されてWAVEやタワレコに群れをなしていた。たしかシャンソンの歌手別のアンソロジーもあった筈だ。その当時はSP期の音源ということで興味はあったものの、手を伸ばすところまではいかなかった。30年の間にいつの間にかその方面のレコードをコレクトしていたのは、気持ちの何処かでCD群を買い逃したことが引っかかっていたのであろう。

 

レビュー ニッポン・モダンタイムス

元号が平成から令和へと移り変わる4月29日(月)〜5月1日(水)、イイノホールで『レビュー ニッポン・モダンタイムス』が行なわれます。

4月29日(昭和の日)、30日(平成最後の日)、5月1日(令和最初の日)という三つの時代のメモリアル・デーに、

初風諄 安奈淳 峰さを理 日向薫 稔幸 姿月あさと 

麻乃佳世 星奈優里 舞風りら

はじめ宝塚レビューのレジェンドを迎えて、戦前のジャズソングをボーカルとダンス、インストで綴る3日間。

演奏は渡邊恭一とモダンタイムス楽団。

上石統(tp) 榎本裕介(tb) 渡邊恭一(sax/cl) 宮本謙介(sax/cl) 磯部舞子(vl)

青木研(g/bjo) 山本琢(p) 寺尾陽介(b) 桃井裕典(ds)

全二幕が、40曲以上のナンバーで構成されています!

公式サイトはこちら。

http://apeople.world/prm/modern_times/

春季特別展『音楽家 貴志康一 生誕110年〜吹田に生まれた若き天才』

今年は貴志康一(1909〜1937)の生誕110周年。

貴志が生まれ育った大阪府吹田市では、その記念催事として吹田市立博物館にて春季特別展「音楽家 貴志康一 生誕110年〜吹田に生まれた若き天才〜」展が開催されます。

 

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チラシ①

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チラシ②


2019年4月27日(土)〜6月9日(日)
 
この展覧会の初日、27日(土)午後2時45分より講演「貴志康一 28年の軌跡」(4時45分まで)を行ないます。
また翌4月28日(日)午後1時30分より、貴志康一監督・音楽作品「鏡」「春」(ともに1933年 独ウーファ社/国立映画アーカイヴ提供)が上映されます。上映に先立って、映画の解説を加えます。2本の短編映画を貴志が製作した背景と撮影について、音楽についてくわしく知れば、これらの作品がより楽しめることでしょう。
 
2006年に『貴志康一 永遠の青年音楽家』(国書刊行会)を上梓してから13年。その間に新たな知見もあり、今回の講演/解説にもできる限り盛り込むことができれば、と考えております。
 
展覧会では、甲南学園貴志康一記念室より提供される楽譜や写真、レコードなど貴志の遺品を見ることができます。この記念年に、ぜひお越しください。
 

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貴志康一の発表記事より。

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貴志家の家族写真。1926年、康一が渡欧する記念に。(ディープラーニングによるカラー化を施した)
 
 

二村定一のレコード 10

「浅草見物」(佐々紅華 作 並 指導)

 高井ルビー 二村定一 ニッポノホン オーケストラ

 1926(大正15)年2月新譜

 麻生豊の漫画「ノンキナトウサン」を思わせる子供じみた父さん(=二村定一)と、しっかりした娘の春子(=高井ルビー)が連れ立って浅草を遊び歩くというシンプルな構成。売れっ子の高井ルビー(22歳)と、浅草オペラではかなり異質な個性であった二村定一(26歳)が、非日常的世界を紡ぎだす。

ニッポノホンオーケストラは、フルート、オーボエコルネットテューバ(?)、ヴァイオリン、弦ベース、ピアノ、擬音(鈴など)。お伽歌劇の伴奏は概してこのくらいの小規模な編成である。

 父さんは春子に「日曜だし天気もいいから遊びに出かけよう」と持ちかける。話がまとまって父子は浅草に行くことになる。レコードのいいところは、ストーリーを唄ですっとばせるところだ。歌っている間にたちまち市電で浅草に着いた二人は、浅草寺から花屋敷を遊弋する。

 浅草寺では鳩ポッポのおもちゃを売る婆さんとちょっとした会話があり、春子の唱歌「鳩ポッポ」(東くめ=作詞、瀧廉太郎=作曲)へと流れる。この鳩の玩具売りは実在する婆さんで、当時は浅草寺の名物であった。父さんは「この玩具はいくらです?」と尋ねて「ハイ一つ5銭です」と聞くと「おお、高い。高いポッポ、高いポッポ」と憎まれ口を叩く。大人げない。

 このあと仲見世の寸景がはさまる。お汁粉屋、ゆで玉子屋、アイスクリーム、炒り豆の店から呼び込みの声がかかる。この箇所のBGMはおどろおどろしいミステリオーソで、どういうわけか子猫の鳴き声がニャーニャーと入る。猫が多かったのだろう。

 B面では父子が花屋敷に入場している。花やしき遊園地は当時、活き人形、山雀の芸当、西洋操り人形、ライオン、虎、白熊などの飼育動物、木馬館(メリーゴラウンド)が売りであり、呼び込みにも含まれている。操り人形のくだりが二人の掛け合いで唄となっている。

 見せ物を堪能した親子は花屋敷を出て、ひょうたん池の方面へ歩く。佐々紅華の視線は「〽十にもならない幼子が 賽の河原に集まりて…」と哀れな詞を歌って通行人の気を引く子供のおこもさん(乞食)にも向けられている。もっともそれは「おじさん、どうぞ十銭やってください」と哀訴する乞食の子に父さんは「なんだいお菰さんかい。十銭なんか遣れないから二銭あげよう。あーあー、傍へ寄っちゃいけないなあ」という非人情なシークエンスであるが。

 浅草オペラと同時代、お伽歌劇は舞台の歌劇と不可分な関係にあった。お伽歌劇は発想を飛ばした奇天烈なストーリーや少年少女の日常を切り抜いたような作品も多いが、なかには乞食の子の場面のように社会の暗部を剥き出しにして見せる要素も時としてあったのである。「浅草遊覧」で佐々紅華は意識的に夕刊売りや浅草寺の鳩の玩具売り、乞食の子といった人々を登場させている。アイスクリームやはじけ豆の呼び声が飛び交う仲見世シーンの情景外音楽(BGM)は先述のように殺伐としており、ただ楽しいだけとはいえない浅草の暗部が展開されているのが、このお伽歌劇の注目すべき点である。

 最後に父子は

「春子、面白いものを見つけたよ。木馬館へ行ってお馬に乗ろうか」

「あーら面白いわねえ。私メリー・ゴーラウンド大好きよ」

ということで木馬館に入る。

 この木馬館はもちろん浅草に現存する木馬館のことで、1918(大正7)年に一階に設置された回転木馬が名物であった。この木馬館のとなりが昭和初期に人気を博するカジノ・フォーリーの本拠地・水族館である。二人はメリー・ゴーラウンドに乗るが、どんどん加速する木馬に子供のようにハイテンションになった父さんは、最後に目を回してしまう。

「お父さん、危ないわ」

 という春子の台詞で終わる。

 二村定一は無邪気で子供のような役回りだが、時として当時の常識的な社会人の視線もチラッと見せており、案外に毒を含んだ存在である。後半、メリー・ゴーラウンドに乗ってからのはしゃぎようは狂気すら感じさせる。

 手際よくまとまった構成、飽きさせぬ音楽的要素が受けたのだろう。このディスクは昭和期までプレスを重ねる大ヒットとなった。

 掲示したラベルは昭和期の再プレスである。1926年のオリジナルがソリッド盤(シェラックをそのままプレスしたレコード)であるのに対して、昭和期の再プレスは粗雑な中芯の表面層に緻密なシェラック素材をラミネートしたニュー・プロセス盤である。レコード盤全体が均一な素材のソリッド盤よりもサーフェイスノイズが低く抑えられ、クリアな音質で聴くことができる。

この「浅草遊覧」は、ぐらもくらぶのCD『浅草オペラからお伽歌劇まで〜和製オペレッタの黎明〜』(G10026〜27)で復刻されているので、ぜひ一聴をおすすめしたい。

http://www.metacompany.jp/gramoclub.html

(本項目はCDのブックレットの内容より加筆訂正した。)

二村定一のレコード 番外

二村定一の録音をゆっくり吟味している途中だが、ここで二村定一にちなむレコードを取り上げるついでに、民謡のジャズ化についてまとめてみたい。

先ごろ戦前の民謡アレンジを『ダンスリヨウ』と銘打ってCD化した(ぐらもくらぶ G10037)。今回は、そのダンスリヨウに少々関わるディスクである。

民謡(戦前は俚謡と呼んだ)の洋楽化は大正期に盛んになるが、昭和期になってジャズやルンバと結びついたことで、レコード界に一ジャンルを築くまでに流行した。固定した呼称はなく、レコードによって「ダンス小唄」「ダンス俚謡」「ダンスミュージック」「俚謡ジャズ」などと表記された。ダンスリヨウのあらましについては上記CDのブックレットに解説したので参照していただければ幸いである。

民謡と洋楽の出会いは明治期のことである。調和楽の名で民謡や俗曲がピアノ、ヴァイオリンの独奏曲に仕立てられたほか、和洋合奏の形をとることが多かった。大正期の俚謡オーケストラ化は、はじめは「安来節」をクラリネットソロでなぞる程度の瀬踏みからはじまった。

これはその初期のレコード。ラベルが読みづらいが、1923(大正12)年、「チョンキナ」「お江戸日本橋」などを力松(唄)、コルネット、ホルン、2クラリネット、ピッコロ、トロンボーンで伴奏したこの小唄レコードは、民謡俗曲を洋楽で伴奏した最初期の録音である。

もう一枚はニットーが「初の画期的試み」と喧伝した、クラリネットによる「安来節」が挿入された映画説明レコード「さすらひの姉妹」(花井三昌=説明 1924)である。このような民謡を洋楽器に移し替える試みは、映画の奏楽や軍楽隊の公園奏楽、ラジオやレコードによって洋楽が一般市民の生活に浸透する過程で、試行錯誤を重ねながら徐々に定着してゆくこととなる。

民謡・俗謡の洋楽化に大きく影響したものにダンス文化の流入もあげられる。大正期後半から隆盛をきわめた社交ダンスは、海外曲とともに日本民謡や俗謡のアレンジも演奏された。服部良一は、ダンスホールのほか、カフェーや自身の所属した「いづも屋音楽隊」の母体であるうなぎ屋でも日本人の耳に馴染んだ民謡や俗謡が演奏されていたことが述べられている。こうして日本人は大正末期までに、自国の民謡俗謡を(まだ形ばかりの水準とはいえ)フォックス・トロットのダンス音楽にアレンジするまで成長した。

民謡のダンス音楽化が長足の進歩を遂げたのは、昭和期になってからであった。それは、大阪のダンスホールでダンスバンドを率いてジャズアレンジに開眼した井田一郎が東京に進出したとき始まった。

1928年、井田一郎と、彼が大阪から引き連れてきたチェリー・ジャズバンドは浅草の電気館に出演し、幕間のアトラクションとしてジャズ演奏をはじめた。このとき歌手として二村定一が起用された。この電気館アトラクションは至って好評で、二村定一がボーカルを添えた民謡ジャズがたちまち流行した。

折から二村はラジオで放送した「アラビヤの唄」が評判となっていた時期なので、電気館でも「アラビヤの唄」が井田バンドの演奏とともに歌われ、井田一郎のジャズバンドの白熱したグルーヴも相まってジャズブームに火をつけたのであった。すなわち1920年代末の日本のジャズブームを解剖すると、一半は海外のナンバーの日本語歌唱にあり、一半は民謡ジャズにあったのである。インストゥルメンタルのジャズを楽しむほど日本人の耳はまだ洋楽の複雑なハーモニーについていけず、圧倒的多数のモダン人士はジャズをまず「新奇な拍子に乗って歌うもの」として認識したのであった。そのような状況であったとき、日本土着の民謡がフォックス・トロットやブルースにアレンジされたのは、ごく自然な成り行きであったといえよう。

ダンス音楽として演奏されていたジャズは電気館のアトラクションや、それ以前から始まっていたラジオによって、いちはやく「聴くための音楽」への路を歩んでいた。フォックス・トロットだブルースだストンプだといいながらも、アレンジの用途は必ずしもダンス用ではなかったわけで、その意味で井田一郎の「木曽節」や「安来節」は矛盾をはらんでいる。しかし民謡ジャズがダンスホールから生まれたのは間違いないことであり、民謡ジャズのアトラクションやレコードへの進出は、大局からみてダンス文化の延長線上にあるといってよいだろう。

電気館アトラクションにまず目をつけたのはニッポノホン(日本蓄音器商会)であった。ニッポノホンはすでに二村定一をスタジオに迎えて

「ワ゛レンチヤ」(2月25日録音)

「アラビヤの唄」「あほ空」(3月10日録音)、

「雨」「アディオス」(3月19日録音)

をレコード化していた。

その流れで、電気館ジャズが浅草で話題になっていた夏に民謡ジャズを4曲レコーディングしたのである。

1928年7月12日、井田一郎(指揮)松竹ジャズバンドの演奏で録音されたのは「木曽節」(二村定一の歌唱)「ストヽン節」(二村定一と天野喜久代の歌唱)「安来節」「小原節」(以上、岩田定子の歌唱)である。

すこし離れて9月5日にも「磯節」(岩田定子)が録音された。[註 ちなみに9月5日には「バルセロナ」「ハレルヤ」も録音している。]

そうして、少しややこしいのだが、「木曽節」「ストヽン節」はコロムビアで、「安来節」「磯節」はニッポノホンのブランドで1928年11月新譜として発売された。

 

コロムビアの「木曽節」の楽器編成は2サックス、トランペット、トロンボーンテューババンジョー、ドラムス、ヴァイオリン。9月13日にはビクターでもほぼ同じ編成の日本ビクター・ジャズバンド(テューバがピアノに替わっている)で録音された。松竹ジャズバンドは、井田一郎が大阪から連れてきたチェリー・ジャズバンドが電気館に出演する際の名称で、ビクターに録音するときはそのまま日本ビクター・ジヤズバンドと名乗った。したがってメンバーもほぼ同じと考えられるが、後発のビクター録音はニッポノホン盤と比較して華美なアレンジであり、勢いも桁違いにいい。民謡ジャズがアトラクションでレパートリーとして定着してゆく間にショーアップしていった変化が読み取れる。

 

おなじく1928年7月12日録音の「ストヽン節」。こちらも9月13日にビクターで再録音された。ビクター盤は二村定一が一人で歌っている。

このテイクの編成は「木曽節」に同じだが、ニッポノホン録音はサックス(高見友祥)のソロの見せ場がある。録音の違いもあるが、コロムビアのテイクはビクターよりアップテンポで、ややそっけない感じがするのはやはり電気館アトラクションでの初期形なのだろう。この2曲、レコードとしての条件は後発のビクターが恵まれていたといえそうである。もっともコロムビア版は、二村定一と天野喜久代のデュエットが聴けるという強みがあるが。

次いで井田一郎指揮、松竹ジャズバンドによるもう2面のテイクを取り上げるが、これらは以前はコロムビアのジャズソングディスコグラフィと故大川晴夫氏が二村定一の録音として記事に挙げていたテイクである。

あるいは予定では二村定一が歌うはずだったのでは?という考え方もできるが、筆者はおそらくそうではないと考える(後述)。

安来節

ラベル上の表記は井田一郎(指揮) 松竹ジャズバンドであるが、編成はサックス、トランペット、トロンボーンテューバ、ヴァイオリン、三味線、太鼓、という和洋合奏である。ジャズバンドといっているものの、和洋合奏ではやりづらそうで、アレンジもこなれていない。ブリッジで高見友祥のサックス(Cメロディー・サックスか?)が悠々と長くソロを取っているのが特徴的だ。

歌手の岩田定子は俚謡歌手で、ティピカルな民謡のレコードも吹き込んでいる。民謡ジャズのレコードで正調の民謡歌手を起用することは、昭和初期の当時は新たな試みであったが、やがて民謡の伴奏の洋楽化、民謡そのものの流行歌化へとつながってゆく。地方民謡の変容に対する反動として正調民謡を保存しようという動きも戦前からすでに現われるのであるが、それはまた別の文脈で語られることもあろう。

「磯節」

1928年9月5日に録音されたが、発売時は7月12日録音の「安来節」とカップリングされた。

のちに二村定一が異なる歌詞を用いてビクターで「新磯節」(1928年10月5日録音)として録音する。

和洋合奏の編成だが、ブリッジに楽器のチェーサーによる聴きどころが作られている点はジャズバンド編曲のビクター録音と共通する。ただしニッポノホンはトロンボーンとトランペットであるのが、ビクターではアルトサックス(高見)とトロンボーンになっている。このテイクも「ストトン」同様、ニッポノホン盤よりゆったりとしたテンポで丁寧にねっとりと演奏されている。

同じ日にジャズバンドにアレンジされた「木曽節」「ストヽン節」を録音しているから、「安来節」「磯節」の三味線、太鼓、囃子入りのアレンジは、岩田定子のために用意されたものである可能性が高い。電気館ジャズで飛ぶ鳥を落とす勢いを得ていた二村定一と井田一郎がこのタイミングで和洋合奏の俚謡ジャズを目指す意味はさして無いからだ。日本蓄音器商会は、株主である外資系のコロムビア二村定一を、旧来のニッポノホンで岩田定子を別々に売ろうと目論んだのに違いなく、これら2枚のディスクは1928年11月新譜として同時にリリースされた。

この2面の和洋合奏ジャズは、二村とのセッションほどグルーヴに富んでいるわけではないが、異質な音楽の融合という点では耳に刺激を与える。

民謡ジャズの行き方として、民謡を完全洋楽化するアレンジとは別に、和の要素と洋の要素をマリアージュするアレンジも行なわれた。CD『ダンスリヨウ』に収録したテイクでは、〆の家〆太の「かっぽれ」がちょうど同じ方向性であるが、井田一郎=松竹ジャズバンドの方がさすがプロのジャズバンドらしく、和洋の折り合いをうまくつけている。

コロムビア・ジャズバンドが1928年12月10日に録音した「夏すぎれば」「かなしやサリー」は、本来ならば海外のナンバーのカバーであったはずであるが、どういう手違いか、内容が「デッカンショ」などの和洋合奏ジャズになってしまっている。たいへんなミステークであるが、そのまま市販されたレコードは君塚篁陵(薩摩琵琶)が加わる和洋合奏とジャズバンドの溶け合わない融合がまことにエモいサウンドを生み出している。

「ラ・フォル・ジュルネTOKYO 2018での講演」

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     Atelier Binder(撮影), 1935  Koichi Kishi

 

これは、ラ・フォル・ジュルネTOKYO 2018 で5月3日(木)に行なわれた関連講演の原稿です。5日(土)の本名徹次(指揮) 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団, 貴志康一 : 交響曲仏陀』の予習という意味合いで行なわれました。

講演原稿ですが、このまま忠実に読んだわけではありません。最初の10分くらいで「このまままともに読んでいたら2時間になるな」と思い、要点をかいつまんで講演しました。読んでいただくに当たっては丁寧に順を追って書いた原稿の方が良いだろうと考え、そのままアップする次第です。

 

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『東洋と西洋を架橋する〜貴志康一の壮大な夢〜』

ラ・フォル・ジュルネ東京で貴志康一が取り上げられると知りまして、貴志の伝記の作者である私は驚喜しました。

この音楽祭、今年のテーマは「モンド・ヌーヴォー 新しい世界へ」です。故郷を離れ異国の地に渡って、そこで得たインスピレーションを創造の糧にした作曲家たちをとりあげています。17歳で単身留学して、紆余曲折を経てベルリンで作曲家、指揮者として活躍した貴志康一は、まさにこのテーマにふさわしい音楽家だと思います。

聞くところでは、ラ・フォル・ジュルネのアーティスティック・ディレクターのルネ・マルタン氏から一番に名前の挙がったのが、貴志康一だったそうです。

今日の演題「東洋と西洋を架橋する」というのは、実は貴志がベルリンで志した理想のキーワードでして、彼自身周囲にそう宣言しています。そうして、貴志の作曲や活動に対しても、東洋と西欧、異なる文化の橋渡しという意味合いでüberbruckung(ユーバァブリュックング)という言葉が新聞の批評にしばしば現われています。ベルリンの聴衆にとって貴志の描き出した日本の情緒は初めて接する、まったく新しい世界だったのではないでしょうか。

 

① 生い立ち

貴志康一という人は、日本の作曲家の中で名前を聞くわりには、まだその生涯がよく知られているとはいえません。 

その理由としまして、次のことが挙げられます。

まず1つめ。貴志は大阪、戦前は大大阪と言っておりましたが、大阪の文化圏で才能を育んだので、東京では知られていませんでした。ベルリン・フィルを指揮して帰国して、東京で華々しく活躍したので「彗星のように現われた」という言われ方をしましたが、それだけ東京の楽壇では知られていなかったことが挙げられます。

それから第2に、あまりにも早く亡くなってしまったこと。昭和12年に28歳で没しました。東京で指揮者として成功して、これから、というときに死んでしまって、さらにその後、戦争を挟みましたので、戦後には東京では忘れられてしまいました。もともと東京であまり人となりを知られていなかった上に早く亡くなるというダブル要素で、戦後長らく謎の人となってしまったわけであります。

そこで、まずは康一の前半生をすこしお話しましょう。

 

貴志康一は1909年、明治42年3月31日に大阪の吹田市で生まれました。貴志康一の祖父の初代貴志彌右衛門という人はもともと紀州、和歌山の士族の次男坊でしたが明治維新で世の中が変わるというので大阪へ出て商売をはじめた人です。綿織物の貿易で財を成してからは大阪市内にたくさんの貸家や貸し倉庫を持ったり、鉱山の権利を持ったりして、それがのちのちまで貴志家の財政の礎となりました。お父さんの貴志奈良次郎、二代目彌右衛門という人は冒険家の初代とは真逆に思想家といっていい性格でした。康一の破天荒と言っていい人生はおじいさん譲りでしょうが、そういう康一を理解していちばん応援したのは父親でありました。

貴志康一が生まれたのは母方の実家、吹田市の西尾家邸宅で、このお屋敷はいまでも保存活用されています。康一の生まれたとされる部屋もきれいに保存されています。西尾家というのは皇室に献上する米をつくる仙洞御料で、たいへん格式の高い庄屋さん。そこの当主が貴志彌右衛門と茶道の仲間で、貴志奈良次郎と西尾カメさんが結婚、康一が生まれたというわけです。母親の里で生まれた5日後、お父さんの貴志奈良次郎の住んでいた土佐堀の家に移されました。いまの朝日新聞大阪本社の近所で、貴志彌右衛門という人は朝日新聞の社主・村山龍平とも茶会の仲間でありました。このように明治期の実業家やハイソサエティーはお茶でつながっていたということがいえます。康一の父親の奈良次郎、のちの二代目彌右衛門も藪内流の茶道に熱心でした。それからもうひとつ、初代彌右衛門は仏教の信仰心も相当なもので、はじめは浄土宗でしたが、臨済宗になってから京都の妙心寺で荒れ寺になっていた徳雲院というお寺を復活させて、貴志家の菩提寺にしてしまいました。こうした、お茶と仏教が日常にある雰囲気が、康一に非常に色濃く受け継がれています。

大阪では土佐堀の家は今は跡形もなくなっているんですが、奈良次郎が結婚したときに建てた都島区の淀川べりの家の跡には茶室の松花堂が遺構として保存されています。松花堂弁当の松花堂で京都の有名な松花堂と何らかのつながりがあるのは間違いありませんが、貴志家の松花堂がオリジナルであるのか、あるいは京都の写しであるのかは微妙なところであります。現在では写しであるという見解が有力です。

康一はこの都島区の網島の家で幼少期を過ごしました。都島区は桜の宮といって、造幣局桜の通り抜けが有名なんですが名前のとおり桜の名所です。ですが、大正期に入るとこのあたりは工場が乱立して空気がたいへん悪くなった。康一は下に妹が5人、弟が1人できるんですが妹の一人がぜんそくになってしまった。それで康一小学4年生のときに、芦屋に別荘を建てて引っ越します。大阪の町の中から、当時はまだ海と浜辺が広がる開放的な芦屋に移ったわけですが、この引越でいろんなことが変わりました。まず学校は転校です。それまで康一は陸軍附属の偕行社小学校に通っていましたが、ここは軍隊式の厳しい学校。それが芦屋の甲南尋常小学校へ。甲南は自由に個性を伸ばそうという学校で、康一の人生観というかものの見方は百八十度がらっと変わります。芸術に目が向くのもこの引越しがきっかけといっていいでしょう。芦屋で康一が目指したのは画家です。それからヴァイオリンをはじめました。家族でコーラスもする。妹が多いので家の中でお芝居を演出してみたりする。クリエイティヴな生活で、妹さんはのちに「毎日がお祭りのようだった」とおっしゃっていました。絵画に音楽に楽しんでいた康一ですが、検査で色弱ということが判明して、絵画の道はあきらめてしまいました。そうしてちょうどいいタイミングで1921年、大正10年に名ヴァイオリニストのミッシャ・エルマンが来日公演をします。このエルマンの演奏に聞き惚れて、康一は一気にヴァイオリンにのめりこみまして、将来はヴァイオリニストになる!と決心しました。そうして17歳のとき、1926年、大正15年に単身スイスのジュネーヴ音楽院へ留学をするというわけであります。

 

② ヴァイオリニストから作曲家・指揮者へ。

康一は1929年=昭和4年秋にいったん帰国して日本でヴァイオリニストデビューします。

半年ほどして1930年夏にまたベルリンに行きまして、一年後また帰国。1932年秋、三度目のベルリン滞在をします。めまぐるしく行ったり来たりを繰り返しているのですが、その間にカール・フレッシュやヒンデミットに師事したり、フルトヴェングラーと交流があったり、並の音楽留学生ではちょっと考えられないくらい充実した音楽生活を送ります。そのあたりの詳しいことは評伝をご覧ください。

貴志康一というと「昭和初期に本物のストラディヴァリウスを購入」「ベルリン・フィルを指揮」という伝説が有名です。そうした伝説がひとり歩きして、貴志康一という人の人物像は相当ふくらんだ形で伝えられてきました。「夭折の天才音楽家」というのが通り文句なのではないかと思いますが、そうした派手な行動は彼が生きているときから喧伝されておりまして、演奏に対する批評にはマイナスに働きました。特にヴァイオリニスト時代は「ストラディヴァリウスの音が引き出せていない」「名器に対して技量が劣っている」という類の批評が多数を占めます。戦前派まだ音楽ジャーナリズムが未成熟で音楽批評というものもきちんと確率されていない時代でしたから、批評を鵜呑みにすることはできませんが、貴志がヴァイオリニストから作曲や指揮へとスライドするうえで、批評の影響がまったく無かったともいいきれません。1932年-昭和7年秋、貴志は三度目の渡欧をしますが、この渡欧時にストラディヴァリウスを、購入したヘルマン商会に売却しています。このベルリン時代はホッホシューレには籍を置いていないのですが、1933年まではヴァイオリンの練習をひとりで続けていたことが分かっています。それから、この最後のベルリン時代のメモにレコード録音用のメモが残されております。おそらく実際にはレコーディングはしていないと思うのですが、貴志にとってヴァイオリンはやはり手放せない楽器であったことが分かります。

では、どのへんから作曲を志したかというと、三度目に渡欧する前、1931年から32年に日本にいた時期です。これは比較的はっきりしていまして、その時期に康一はヨーロッパで日本的音階が興味を集めているということを新聞で報告しています。そうして、東洋の音楽の美と西欧のそれとの違いを論考にまとめています。音楽とは別に康一には、したいことがありました。彼の音樂と密接に結びつくことになりますが、「日本の文化をヨーロッパに紹介する事業をするべきだ」と考えるんです。彼が構想したのは日本芸術協会という団体で、日本語英語ドイツ語の雑誌、学術映画の製作、ヨーロッパと日本で映画を交換して紹介する事業の三つをかかげていました。父親が「音楽以外は寄り道だ」といって反対するのですが、映画製作はそのまま突き進めまして、父親の出資で貴志学術映画研究所なる会社まで作ってしまいます。康一の学術映画作りは、いろいろ人が集まるなかでどんどん変貌していきまして、最終的には色彩映画の実験と、前衛映画の実験、康一のアイデアによるドラマが撮影されました。細かい事柄はいろいろあるのですがここでは省略します。

この帰国の間に康一はヴァイオリンの演奏会をして、映画を撮って、それから作曲作品の発表もします。「かごかき」ですとか「赤いかんざし」、康一の代表作になる作品もすでにこの時期に作られますが、いわゆるプロトタイプ。メロディーはほぼ同じですが、伴奏部やハーモニーは現在コンサートで聴けるのとはかなり異なる形です。

1932年秋、3度目の渡欧をした康一は、ベルリンで映画会社のウーファに映画を売り込みます。実験映画はボツになりますが、ドラマといくつかの素材がウーファに売れまして、康一の監督と音樂で短編の文化映画「鏡」と「春」になりました。ちなみに「鏡」では康一が主演しています。

 

映画音楽を作ることになった康一は、ベルリンでエドヴァルト・モーリッツEdvard Moritz(1891-1974)という先生につきます。

この先生の下で、1933年から34年にかけて、日本で書いた作品がぜんぶ書き直されて現在の形になりました。新作としては33年6月からヴァイオリン協奏曲、「鏡」の映画音楽をもとにした「日本組曲」が手始めに作曲されました。このあたりは康一の作品のなかで最も自筆の楽譜がたくさん残されています。研鑽の跡が楽譜からありありと浮かび上がります。ヴァイオリン協奏曲の第一楽章のカデンツァは鮮やかな紫色のインクで一気呵成に書かれていますし、タイトルのないヴァイオリンの独奏曲のテーマだけ拾って、ちょっと手を加えたのが、いま「竹取物語」として知られている曲になります。

たいへん面白いのは、ヴァイオリン協奏曲、日本にいる間から作曲は始まっているのですが、そのプロトタイプは和楽器と洋楽器の和洋合奏で書かれています。ベルリンに来てからモーリッツの下で完全なオーケストラで書き換えられているんですが、そんなところにも康一の東洋と西洋の融合という意識が見られます。

指揮も同じころに先生について勉強しはじめまして1934年、ウーファ主催、日独協会の後援で「日本の夕べ」で映画「鏡」と「春」、それからいま言った歌曲、協奏曲の第一楽章、管弦楽組曲が発表されました。「東洋と西欧の架橋」というふうに批評で注目を浴びたのはこのときです。

 

③ 『仏陀』について

康一の作曲の先生、エドヴァルト・モーリッツという人はハンブルク生まれのユダヤ系音楽家でした。音楽史の愛好家でしたらお分かりかと思いますが一言で言って物凄い先生に学んでいます。ヴァイオリンをマルシックとカール・フレッシュに、ピアノをデュエメとブゾーニに師事。作曲はパウル・ユオン、タニェエフ、アレンスキー、シューマンの系譜のヴォルデマー・バルギールに師事。ドビュッシーにも就きましたが作曲ではなくピアノだったようです。そうして指揮はニキシュに師事。モーリッツ自身、自作ベルリン・フィルで発表しています。こういう経験豊富な先生のもとでさらにヴァイオリンのピースものと歌曲、ヴァイオリンソナタ管弦楽組曲の「日本スケッチ」、バレエ音樂「天の岩戸」、オペレッタ「ナミコ」、そして交響曲ブッダ」が作られます。短期間のわりにはすさまじい量の楽譜が書かれたことになります。モーリッツはかなり事細かに康一の作品の修正点を手紙で送って指導しています。

康一がそんなふうに続々と作曲した1933年から1935年というのはナチス第三帝国が確立した時期でもあります。ユダヤ人音楽家の活動が制限されはじめた時期で、モーリッツはユダヤ文化同盟Jüdischen Kulturbundes に加わらざるを得ませんでした。それでもコンサートの需要は多かったようで、康一がベルリンに滞在していた時期にはベルリンとハンブルクを拠点にして行ったり来たりしていました。ちなみに1937年に日本に招聘されるヨセフ・ローゼンストックもユダヤ文化同盟でオーケストラの指揮をしていました。

実はこのユダヤ文化同盟が、康一の旺盛な作曲の秘密です。おなじユダヤ文化同盟に加入している音楽家でアドルフ・ウォーラウアーAdolf Wohlauer(1893-1943)という人がありました。ウォーラウアーは自分も作曲家で、音楽事務所を持っていました。写譜屋といえばよいでしょう。康一はモーリッツの指導のもとで作曲した管弦楽作品の楽器指定や編成をすると、ウォーラウアーの事務所に託しました。そこでスコアとパート譜の浄写譜が作られます。楽譜に修正が必要になればスコアに指示を書き込んでウォーラウアーに託する、という一種の分業体制が形作られていたことが分かりました。これは、康一のこの時期の作品に限って自筆の楽譜が極めて少ないことの理由にもなります。

本題の「ブッダ」について。従来、「ブッダ」は当初7楽章で構想された、という説が言われてきました。

これは問題の構想メモです。

内容を読み上げてみますと、

 

  1. 印度 亜細亜の東洋的な荘厳さを書く。はじまりはチェロで独創的なメロデー
  2. ガンヂスのほとり 1の続きで1を父とすれば2は母にあたる
  3. 釈尊誕生 人類の歓喜
  4. マヤ夫人の死 con sordino 前者の反対に極めて悲哀な曲
  5. 生老病死? (青年時代) 
  6. 出家を決心す 5,6 初めはオーボエかまたはクラリネットでインド風のメロディーを面白いリズムの上にえがく。最期に深遠なaccordで出家の決心をあらわす
  7. 成道偈 タンホイザー序曲の最後の如く強く

 

というのが全てです。たしかにそれぞれの数字を楽章と捉えたら、多楽章のアイデアに見えます。従来はこの考え方に沿って、楽章ごとに

第1楽章 インド「父」

第2楽章 ガンジスのほとり「母」

第3楽章 釈尊誕生「人類の歓喜

第4楽章 マヤ夫人の死

というサブタイトルが付けられていました。

が、問題はこの構想メモでして、私はこのメモは構想のきわめて初期に書かれたもので、あとになって内容を取っ替え引っ替えして四楽章にまとめあげたのではないか?と考えます。康一は最初はこれを楽章ごとのアイデアとして書きはじめたのかもしれませんが、5, 6のあたりの内容が混乱していることからも見てとれるように、アイデアをメモしたに過ぎません。最終的に交響曲は四楽章で完結しました。

1935年8月13日、康一は作曲に専念するためにベルリンを離れて、港町ヴァンゼーのアルゼン橋ホテルに投宿します。現在ではB4版サイズの作曲帳が20冊程度残っておりまして、仏陀のスケッチもそのなかに見ることが出来ます。ただし本当にスケッチ程度で、スコアに近いかたちのまとまった自筆譜というのはありません。それは、おそらくは先程申したウォーラウアーの事務所に書きあがるそばから持ち込まれてスコアにされたからではないか?と推測します。(これはこの時期の作品全てにも言えます)

 

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11月18日、康一はベルリン・フィルを指揮して「仏陀」や「日本スケッチ」その他を発表しました。完成したシンフォニーは「Das Leben Duddhas 仏陀の生涯」というタイトルで、楽章にサブタイトルはついていません。

そうしてこのシンフォニーと各楽章については作曲者の解説でこう語られています。

 

貴志康一交響曲仏陀の生涯」はアジアに独特の精神的な雰囲気を描いています。インドの強い日差し、巨大なヒマラヤの山々の上に出る月、中国の広大な大陸と大河・揚子江。仏教は何千年もの間、ここアジアに根ざしてきたのです。

第1楽章は無限の広大なアジアを描いています。そこにゴータマ・ブッダは生まれ学びました。この地で彼の魂は浄化され、長い闘いを経て悟りを得ました。

第2楽章はマヤ夫人。高貴な慈悲深い女性のストーリーです。マヤ夫人は日本の女性の理想とされています。

第3楽章は仏教における地獄の苦しみと人間の苦悩にもとづいた不気味なスケルツォです。日本の伝説によれば地獄の入り口には巨大な閻魔がおり、亡者の魂を裁くのです。

第4楽章はブッダの死。その涅槃への入口を描いています。

 

これが完成したシンフォニーに貴志康一が与えた解釈です。第1楽章と第2楽章は比較的メモに忠実なことがお分かりかと思います。メモの5,6生老病死と出家の決心といった要素は第1楽章に収斂されたのではないかと思います。後半の第3、第4楽章は、構想メモには語られていない要素です。とくに第3楽章が「釈尊誕生」から「地獄の閻魔が亡者を裁く様」東洋的な地獄になっているのが特徴的です。それから、最終楽章は、マヤ夫人の死ではなく、ブッダその人の死と、その死によって教えが広く伝えられていくことが語られています。ブルックナー風の終結部の最後にメモの「タンホイザー序曲の最後の如く強く」というアイデアが生かされています。すなわち「ブッダ」の最後をお聴きになるとああ、とお気付きかもしれませんが、消えていくような終結部は、ワグナーのタンホイザー序曲の終結部をほとんどそのまま引用しています。

 

1934年11月18日、康一はベルリン・フィルを指揮して「ブッダ」を発表しました。このときは他にグルックの「アルチェステ」序曲とドビュッシーの「牧神の午後」の前奏曲リヒャルト・シュトラウスの「ティル・オイレン・シュピーゲルの愉快ないたずら」と自作の歌曲も演奏されました。ベルリン・フィルといいますと現在も貴志康一の生きた時代も世界最高峰のオーケストラですが、オケのメンバーは康一と顔見知りでした。康一はオーケストレーションの勉強のためにホッホシューレで各楽器について学んでいましたが、その先生がベルリン・フィルのトップ奏者でした。そういう普段「教官殿Herr Professor」と言っている先生がオケにちらほらおりまして、演奏会の時は指揮者が一番ですから楽器の先生が康一に「指揮者殿Herr Kapellmeister」といって質問してくる、という和やかな雰囲気でした。

この演奏会は大成功しまして、特に「ブッダ」については賛否両論が批評にあらわれました。新聞批評はいろんな新聞に載ったのでややこしいんですが、数えたら13種類あります。それがベルリンだけでなくミュンヘンライプツィヒ、パリでも配信されました。日本人の作曲作品がドイツ人の批評のまないたに載ること自体が、当時はまれでしたから、ベルリンでもこの作品はたいへん注目されたと見てよいでしょう。

批評のなかで際立つのが「Nebeneinander ネーベナイナンダー」という言葉です。併存、併置という意味ですが、東洋と西洋の感性が形を留めたまま融合している、という意味合いで批評に頻出しています。康一の「東西を架橋する」というイデーがベルリンでも理解された証です。ゲルマニア紙は「日本音樂とヨーロッパ音樂の真の融合」と褒めています。

批評は絶賛だけではありませんで、ヨーロッパのオーケストラ作品を見境なく引用している、ですとか標題音楽とシンフォニーを一つにしようという試みに失望した。という意見もありました。 指揮者としての評価はどの新聞も絶賛でした。

 

ブッダ」は1935年1月25日にも康一の指揮で演奏されました。このときは海外まで電波が届く短波放送で、短波放送オーケストラを指揮しています。

このときもタイトルは「仏陀の生涯」で、解説もベルリン・フィルのときと同じ文章が発表されました。

ただ、康一はスケッチや手元に置いたスコアには「ブッダ Buddha」シンフォニー Symphonie とだけ書いています。

それで、今回のラ・フォル・ジュルネでも、交響曲ブッダ」と表記しております。

 

④ 早すぎる死

このシンフォニーを書いたとき、貴志康一25歳。

ベルリン・フィルの成功で、再演ですとかいろんな演奏会の企画、オペレッタとバレエの上演計画を進めていましたが、1935年5月、日本に帰ります。3月31日にベルリンを発って、5月3日に日本に着きました。

人によっては「ナチスに気に入られずに政治的に帰国を余儀なくされた」という見方をする人もありますが、むしろドイツでの康一の立場は絶好調でした。

ナチス政権のもとでは音楽家は帝国音楽局に所属しないといけません。ベルリン・フィル客演のあと康一は帝国音楽局の仮証書を獲得しています。康一自身は、オペレッタとバレエを日本でも上演できるように根回しのために一時帰国するつもりでした。それで、住んでいた部屋の荷物もマンションの門番に預けてきています。またすぐに戻ってくるつもりだったから預けたんですね。

帰国した康一は新交響楽団を指揮して、ヴァイオリニスト時代から考えるとうそみたいな大評判で指揮者として成功しました。銀座六丁目、みゆき通りと交詢社通りの交わる角地にあった尾張町ビル、現在の尾張町タワーの二階に貴志康一事務所を構えました。日本で懲りずに映画の配給会社を作って、ベルリン・フィルやオペラを日本に招いて、という壮大な計画をしていました。フルトヴェングラー指揮するベルリン・フィルツェッペリン飛行船に乗せて日本に連れてくるという、いま考えたら荒唐無稽な計画ですが、かなり現実的に当事者間で話が進んでいました。さすがにフルトヴェングラーシベリア鉄道経由の移動ですが、ベルリン・フィルを飛行船に乗せるというのは、いかにも貴志康一らしいアイデアです。そうして、日本に来たツェッペリン飛行船は満州から輸入していた大豆の代金がわりに満州に譲渡するという筋書きまでありました。

ところが、そうした国際的な文化交流の計画よりも指揮活動が激しすぎて、1936年6月に盲腸炎を発しました。1937年11月17日、亡くなってしまいます。

 

康一がベルリンを去ったころに康一の周囲の人々にも変化がありました。先生のモーリッツはユダヤ系でしたので帝国音楽局には入れずに、ユダヤ文化同盟で活動せざるを得ませんでした。康一が帰国したあとの1935年8月、モーリッツは音楽学校の教授の席も失います。そうしてゲッベルスの退廃音楽家のリストに組み込まれて、1937年9月にはアメリカに逃れます。浄写譜の工房のアドルフ・ウォーラウアーはたいへん不幸なことですが、1943年にアウシュビッツで最後を遂げました。そのおなじ年、モーリッツはアメリカの市民権を得ています。「ブッダ」をめぐって集まった人々がさまざまな生涯を終えてすべてが終って、康一の「ブッダ」の楽譜だけが残ったわけです。

 

最後に、帰国後の貴志康一のごくごく日常的なスナップ写真を何枚か出しましょう。これは帰国した1935年夏。おそらく妹さんが撮影したものでしょう。

 

本講演では写真も多用しましたが、基本的に甲南学園貴志康一記念室所蔵ですので、web公開に当たってはそのほぼ全てを削除いたします。